レースの未来
プレゼンテーションブースの周囲には、さらに多くの観客が集まり始めていた。
キラン、マッハ、ミカイラは、人の後頭部しか見えないような場所を避けつつ、ステージがよく見える中央付近に場所を確保した。
それだけでも小さな勝利だった。
「あとどれくらい?」
キランが聞く。
マッハが即答する。
「プレゼンテーション開始まで、およそ三分四十二秒です」
ミカイラがMACH-01Aを見る。
「普通の人なら『あと三分くらい』って言うところよ」
「私は普通の人ではありません」
「それもそうね」
キランが笑う。
「だから僕たちは気が合うんだよ」
「私は、あなたに常時監視が必要だからだと思っていました」
「前言撤回」
周囲では、観客たちが好き勝手に予想を始めていた。
「新型Ventじゃないか?」
「新しい推進システムだろ」
「実験用のエンジンだって聞いたぞ」
「いやいや、ここで働いてる奴を知ってる兄貴が言ってた。AIらしいぞ」
「Ventは元からAIだろ、アホ」
「もっとすごいAIかもしれないだろ」
マッハのインジケーターが点滅する。
「侮辱的ですね」
キランが下を見る。
「個人的に?」
「職業的に」
ミカイラが笑った。
その時、巨大なディスプレイの表示が変わった。
プレゼンテーション開始
ブース周辺の照明が暗くなる。
観客たちの会話も静まった。
スポットライトがステージを照らす。
一人の男がカーテンの奥から姿を現した。
四十代後半ほどに見える男だった。
完璧に仕立てられた黒いスーツに、銀色のネクタイ。
黒髪はきれいに後ろへ撫でつけられている。
そしてその歩き方には、同じ登場シーンを何十回も練習した人間特有の余裕があった。
男はステージ中央に立った。
「レースファンの皆さん、こんにちは」
何人かが歓声を上げた。
それほど多くはない。
それでも男は笑顔を崩さなかった。
「私の名前はセバスチャン・ロッキード」
背後のディスプレイが切り替わる。
セバスチャン・ロッキード
マドックス・コーポレーション 主任技術者
キランが瞬きをする。
「マドックス?」
ミカイラが彼を見る。
「同じ会社?」
「だろうね」
マッハが確認する。
「マドックス・コーポレーションです」
キランはわずかに身を乗り出した。
話が面白くなってきた。
セバスチャンは続ける。
「ここ数年、マドックス・コーポレーションはプロVentレースという世界に強い関心を寄せてきました」
背後に映像が現れる。
VRFのコース。
レーシングVent。
満員のスタジアム。
各チームのロゴ。
「我々はこの競技を研究しました。その技術を。その文化を。その観客を。そして何より——その未来を」
キランが小声でつぶやく。
「営業トークが始まったな」
マッハが答える。
「約四十七秒前から始まっています」
「確かに」
セバスチャンは続けた。
「そしてその関心は、やがてマドックス・コーポレーションとVent Racing Federationとの提携へと発展しました」
その言葉で、観客たちの注目度が一気に上がった。
キランの周囲でもざわめきが広がる。
「この提携によって、我々の技術部門には一つの単純な問いを追究する機会が与えられました」
セバスチャンが間を置く。
「次に来るものは何か?」
画面が真っ暗になる。
中央に一本の銀色の線が現れた。
「プロレースは、常に革新によって進化してきました。より高速な推進機構。より優れた安定制御。エネルギー効率の向上。より高精度な制御システム」
キランはわずかに頷いた。
ここまでは反論するところがない。
「しかし、プロレースには今なお、驚くほど非効率な要素が一つ残されています」
セバスチャンが笑った。
「プロレーサーです」
空気が変わった。
ミカイラの眉が上がる。
キランはゆっくり彼女を見る。
「そこ行くんだ」
「みたいね」
セバスチャンは、この会場にいるプロパイロットのほぼ全員をたった一言で侮辱したことなど気にも留めず続ける。
「プロのアスリートには契約が必要です」
背後に文字が現れる。
契約
「交渉」
交渉
「エージェント」
エージェント
「スケジュール調整」
スケジュール
「休養」
ダウンタイム
「病気や怪我による離脱」
キランの笑顔が少し消えた。
「それを設計上の欠陥みたいに並べるのは面白いね」
マッハが答える。
「同感です」
セバスチャンは続ける。
「そして、もちろん——性格というものもあります」
画面に表示された。
エゴ
観客の一部からブーイングが飛ぶ。
セバスチャンは笑った。
「おやおや。皆さんも事実だと分かっているでしょう?」
ブーイングが少し大きくなる。
ミカイラは腕を組んだ。
「この人、嫌い」
「もう少し待って」
キランが言う。
「好きになれる?」
「いや。もっとひどくなるから」
セバスチャンは両腕を広げる。
「スポンサーにとって、これらすべてが不確定要素なのです」
背後の照明が明るくなった。
「なぜ数年ごとに何百万クレジットもの契約交渉を行わなければならないのでしょう?」
「なぜパイロットのチーム移籍を心配しなければならない?」
「なぜ引退する可能性のある人間を中心に、巨大な広告戦略を構築しなければならない?」
「怪我をするかもしれない」
「より高額な報酬を要求するかもしれない」
「イベントへの出演を拒否するかもしれない」
「あるいは単純に、あなたのブランドはもう自分を代表していない、と決断するかもしれない」
キランの表情が険しくなる。
「人間だからじゃない?」
「私もそう回答します」
マッハが言った。
ミカイラも頷く。
「私も」
セバスチャンは満面の笑みを浮かべた。
「マドックス・コーポレーションは、もっと優れた方法があると考えています」
片手を上げる。
「レースファンの皆さん……」
背後のカーテンが落ちた。
金属音がステージに響き渡る。
そこには五体の機械が立っていた。
観客が静まり返る。
キランさえも見入った。
人型だった。
少なくとも、大まかには。
それぞれの全高は二メートルほど。
細身の機械骨格を、空力性能を意識した滑らかな装甲が覆っている。
脚部は人間というより、高性能サスペンションを思わせる逆関節構造。
背部には推進ユニットが一体化されていた。
独立したVentは存在しない。
コックピットもない。
パイロットもいない。
レーサーとマシンが一つになっている。
滑らかなヘルメットには顔がなく、横一文字の発光バイザーだけが存在した。
胸部には番号が刻まれている。
01
02
03
04
05
セバスチャンが機体へ向き直った。
「皆さん、ご紹介しましょう……」
背後のスクリーンに派手なロゴが出現した。
VELOCITY AUTONOMOUS RACING KINETICS
そして文字が縮まり、一つの名称になる。
V.A.R.K.
セバスチャンが笑った。
「VARKです」
キランは見つめた。
ミカイラが首を傾げる。
マッハは数秒間、何も言わなかった。
マッハが黙る時は、大抵本当に興味を持っている時だった。
セバスチャンは機体の前を歩く。
「VARKは完全自律型のプロフェッショナル・レーシング・プラットフォームです」
一体のバイザーが光る。
頭部が動いた。
ゆっくりと。
滑らかに。
観客を見渡す。
「VARKにパイロットは必要ありません」
二体目が起動する。
「独立したVentも必要ありません」
三体目。
「休養も必要ありません」
四体目。
「怪我もしません」
五体目が起動する。
「そしてチャンピオンになった翌年、契約金を上げろと要求することもありません」
観客の一部から笑いが起こった。
本当に一部だけだった。
セバスチャンは続ける。
「スポンサーはVARKプラットフォームを購入する。それが、その企業のレーサーとなるのです」
背後には、架空企業のロゴやカラーリングを施したVARKのイメージ映像が次々と表示される。
「あなたのカラー」
別の映像。
「あなたのブランド」
また別の映像。
「あなたの広告」
さらに別の映像。
「あなたのレーサー」
セバスチャンは笑う。
「エージェント不要」
エージェント不要
「契約交渉不要」
交渉不要
「エゴ不要」
ドラマ不要
「そして生物学的な限界もありません」
その言葉に、また不快そうなざわめきが起こった。
キランは目を細める。
「最低だな」
ミカイラが彼を見る。
「うん」
マッハの声はさらに冷たかった。
「技術そのものは見事です」
キランが下を見る。
「でも?」
「その背景にある思想は評価できません」
セバスチャンはVARKたちの前を歩く。
「VARKは規則で許可される限り、何度でもレースに参加できます」
画面にはシミュレーション映像。
「休むことなく練習できます」
別の映像。
「何千通りものレーシングラインを分析できます」
さらに別の映像。
「記録されたあらゆる競争相手を基に、戦術を適応させることができます」
さらに映像が変わる。
「スポンサーが一シーズンに五十回の宣伝イベントへ参加させたいと望んだら?」
セバスチャンは肩をすくめる。
「VARKは文句を言いません」
キランは眉をひそめる。
「それを長所みたいに言い続けるな」
「彼が想定している顧客にとっては、長所なのでしょう」
マッハが答えた。
ミカイラは首を振る。
「気持ち悪い」
セバスチャンはVARK-01の横で止まった。
「しかし、我々も疑いの声が出ることは理解していました」
観客から少し笑いが起こる。
「結局のところ、レースファンが見たいのはシミュレーションではありません」
彼は機体の肩に手を置いた。
「レースです」
観客が静かになる。
セバスチャンは笑った。
「ですから、レースをお見せしましょう」
何人かが困惑したように顔を見合わせる。
ディスプレイが切り替わった。
VARK-01
公式レース初参戦
ミカイラの目が大きくなる。
「まさか」
セバスチャンが声を張り上げた。
「VRFとの提携により、マドックス・コーポレーションは本日のレースへVARK-01を出場させる正式な許可を得ました!」
今度は観客が一斉に反応した。
好意的とは限らなかった。
「はあ!?」
「バロンと戦わせるのか!?」
「馬鹿げてる!」
「そんなのアリなのか!?」
「ブーーーー!」
歓声を上げる者もいた。
だが、多くはなかった。
キランの周囲では、すぐに議論が始まった。
セバスチャンはまったく気にしていない様子だった。
「数時間後、VARK-01はプロレース界最高峰のパイロットとVentたちに直接挑みます」
背後に名前が表示される。
バロン・テニモス&ヴェロシティ
ダンディ・デイ&ブレイクアウェイ
ディーコン・ゼルマン&レッドシフト
そして、その下に——
VARK-01
セバスチャンが一歩下がる。
「シミュレーションではありません」
「管理されたデモンストレーションでもない」
「言い訳もありません」
「今日、皆さん自身の目で——レースの未来が何を成し遂げられるのか、ご覧いただきます」
彼は笑った。
「レースをお楽しみください」
画面にマドックス・コーポレーションのロゴが表示された。
プレゼンテーションは終了した。
拍手が起こる。
熱心に拍手する者もいた。
だが大半はまばらだった。
まったく拍手をしない者も大勢いた。
近くの男が一言だけつぶやく。
「くだらねえ」
友人が頷く。
「ああ」
一方、興味を示すファンもいた。
「まあ……どれくらい速いかは見てみたい」
「俺も」
「だからって二十体も走ってほしいとは思わないけど」
「それな」
観客たちは散り始めた。
反応は統一されていなかった。
大歓声でもない。
激しい怒りでもない。
ほとんどは——
困惑だった。
誰も、自分が今見せられたものをどう受け止めるべきか分からない。
キランはその場に残った。
VARKたちを見る。
マッハも見ている。
やがてミカイラが沈黙を破った。
「で?」
キランが頷く。
「で?」
「感想は?」
「ロボットはカッコいい」
「キラン」
「アイデアは最悪」
「ありがとう」
マッハが言った。
「技術的には高度ですが、戦略的な妥当性には疑問があります」
キランが下を見る。
「それ、丁寧な言い方?」
「はい」
「丁寧じゃない言い方は?」
「存在しない問題に対する解決策です」
ミカイラが笑った。
「それ好き」
キランはステージ近くで企業関係者たちと話しているセバスチャンを見る。
「自律型ロボットレースを別カテゴリーとしてやるなら分かる」
ミカイラが頷く。
「それなら面白そう」
「ロボットだけのレースなんて絶対すごいよ」
「でしょ?」
「でもパイロットとVentを置き換える?」
キランは首を振った。
「それはVRFを進化させることじゃない。みんなが好きな部分を取り除いてるだけだ」
マッハが付け加える。
「Ventレースは本質的に、二つの知性の協力によって成立しています」
「パイロットとVent」
ミカイラが言った。
「その通りです」
マッハのインジケーターが脈打つ。
「その関係から生じる不完全さは、必ずしも欠点ではありません。それが変化を生み出しています」
キランは笑った。
「ずいぶん哲学的になったな」
「私は非効率的なシステムの価値も理解できます」
「それ、人類について言った中で一番優しい言葉じゃない?」
「あなたについて言いました」
ミカイラが吹き出した。
キランはMACH-01Aを見つめる。
「最低」
「セバスチャン・ロッキードから学びました」
「二度とそれ言わないで」
ミカイラはステージを振り返った。
「私が一番嫌だったのは、レーサーについて話してた時」
「人間を故障しやすい装備みたいに扱ってた」
キランが言った。
「そう、それ」
マッハが続ける。
「病気や怪我による離脱を、契約問題やエゴと同じ『非効率』として扱った点は、特に彼の思想をよく表しています」
キランの表情が少し険しくなった。
ほんの数週間前まで自分がどこにいたのかを考えれば、その言葉はセバスチャンが意図した以上に深く刺さった。
「人は病気になる」
「はい」
「怪我もする」
「はい」
「休まなきゃいけない時もある」
「その通りです」
「それは設計ミスじゃない」
「違います」
ミカイラがキランの手を握る。
「それに、バロンが偉そうなのも楽しさの半分じゃない」
キランが彼女を見る。
「バロン好きなんじゃなかった?」
「好きよ」
「今の言い方じゃ全然伝わらないけど」
「まだ勉強が足りないわね」
キランはため息をつく。
「またそれか」
ミカイラは観客席へ向かい始めた。
「行きましょ、ホットロッド。私たちはレースを見に来たんだから」
キランは最後にもう一度VARK-01を見る。
ロボットは照明の下で微動だにしない。
バイザーも消えている。
ただ待っていた。
マッハがプライベート音声で言った。
「興味がありますね」
「当然」
「コンセプトは嫌いなのに?」
「大嫌い」
「それでもレースは見たい」
「もちろん」
「矛盾しています」
「人間だからね」
「残念ながら」
キランは笑った。
「行こう」
三人はプレゼンテーション会場を後にした。
再びレースウェイの喧騒が彼らを包み込む。
音楽。
ファン。
グッズ販売。
レーサーをめぐる口論。
そして頭上のどこかから聞こえる、レヴ・シモンズの特徴的な声。
「レースファンのみんな! オープニングセレモニーはもうすぐだァァァッ!」
観客席が沸き上がる。
ミカイラが振り返った。
「二人とも、来る?」
キランは少し加速した。
「今行く!」
三人は自分たちのエリアを見つけた。
列を確認する。
そして広大なコースを一望できる席へ到着した。
ミカイラはキランの隣へ座る。
MACH-01Aはバリアフリー観戦スペースの所定位置へ収まり、安定状態へ移行した。
眼下にはコースが広がっている。
スタートエリアでは各チームのクルーが忙しく動き回っていた。
巨大ディスプレイには、レーサーたちのプロフィールが次々と映し出される。
バロン・テニモス。
ヴェロシティ。
ダンディ・デイ。
ブレイクアウェイ。
ディーコン・ゼルマン。
レッドシフト。
そして——
VARK-01
観客の反応が一気に割れた。
歓声。
ブーイング。
困惑したざわめき。
キランは背もたれに身を預ける。
ミカイラが彼を見る。
「まだ最悪のアイデアだと思ってる?」
「うん」
「でも見るのは楽しみ?」
「うん」
彼女は笑った。
「でしょうね」
マッハのインジケーターが明るくなる。
「VARK-01の実戦性能データは非常に有益でしょう」
キランが下を見る。
「もう楽しみって認めなよ」
「科学的な興味です」
「楽しみなんだろ」
「科学的に」
ミカイラが笑った。
その時、コース周辺の照明が少しずつ暗くなり始めた。
巨大な中央ディスプレイが輝く。
レヴ・シモンズの声がレースウェイ全体を揺らした。
「レディース・アンド・ジェントルメン……!」
観客が立ち上がる。
「レースの時間だァァァァァッ!」
次の瞬間に巻き起こった歓声は、観客席そのものを震わせた。
キランは笑った。
今だけは、セバスチャン・ロッキードも、彼が描く未来もどうでもよかった。
まずは——
レースを楽しもう。




