飛行許可
ドクター・ラクソンの診察室は、キランの記憶通りの匂いがした。
無菌的。
冷たい。
そして、ほんの少しだけ自分を責められているような気分になる匂い。
キランは診察台の横でMACH-01Aに座り、レイモンドは壁にもたれて腕を組んでいた。
ドクター・ラクソンはタブレットを手に、キランの前に立っている。
マッハは珍しく静かだった。
主な理由は、キランが事前に「頼むから黙っていてくれ」と言っておいたからだ。
ラクソンはタブレットを見る。
次にキラン。
そしてまたタブレット。
キランは笑顔を作った。
「それで?」
ラクソンは無視した。
脈拍を確認する。
次に酸素飽和度。
そして聴診器で呼吸音を丁寧に確認する。
キランは待った。
「それで?」
「キリアンさん」
「はい?」
「聞くたびに、結果を教えるまで一分追加します」
キランは即座に口を閉じた。
レイモンドが鼻で笑う。
「今週見た中で一番静かだな」
マッハが言った。
「同感です」
キランは下を見る。
「この件について話し合ったよね?」
「はい」
「それで?」
「考え直しました」
レイモンドが笑う。
「椅子にまで愛想尽かされてるぞ」
「こいつは椅子じゃない」
「椅子の中にいるだろ」
「だからって椅子にはならない」
「厳密には、私のシステムはMACH-01Aと極めて深く統合されているため——」
「君は助けなくていい」
ラクソンがため息をつく。
「三人とも、三十秒くらい静かにできます?」
沈黙。
ラクソンは聴診器をキランの胸に当てた。
「普通に呼吸して」
キランは従った。
「吸って」
息を吸う。
「吐いて」
息を吐く。
もう一度。
さらにもう一度。
ラクソンが聴診器の位置を変える。
「深く吸って」
キランは従った。
咳き込まない。
胸が締めつけられる感覚もない。
途中で痛みに邪魔されることもない。
ただ息を吸う。
普通に。
ラクソンが聴診器を離した。
キランは彼女の表情がほんの少し変わったことに気づいた。
「今の顔、良さそうだった」
「まだ何も言ってません」
「でも顔が言ってた」
「私の顔は何も言ってません」
「いや、今の顔は——」
「X線検査」
キランが止まる。
「……はい」
レイモンドがニヤリとする。
「もっと墓穴掘れ」
ここ数週間で、画像診断装置にもすっかり馴染んでしまった。
キランとしては、できれば馴染みたくなかったが。
ラクソンはMACH-01Aを邪魔なものとして扱うことなく、キランの姿勢を慎重に調整して検査の準備を進めた。
マッハも位置調整を補助する。
「左へ三センチ」
キランが動く。
「停止」
ラクソンが位置を確認した。
「いいですね」
キランはレイモンドを見る。
「楽しんでる?」
「かなり」
「君は僕を応援する立場だろ」
「ドクター・ラクソンを応援してる」
「応援する相手が違う」
撮影が始まった。
キランは動かずに待つ。
マッハが状態を監視する。
「呼吸、安定しています」
「ありがとう、マッハ」
ラクソンが言った。
「どういたしまして」
キランは眉をひそめる。
「なんでみんな僕より君のこと好きなの?」
レイモンドが即答した。
「性格」
「誰も君に聞いてない」
「聞かれる必要なかった」
撮影が終わった。
ラクソンはディスプレイの前へ移動した。
新しい画像が、以前の画像と並んで表示される。
そこで冗談は止まった。
キランは慎重に彼女を見守った。
最初に肺炎が見つかった時、自分の肺がどう映っていたか覚えている。
入院生活も。
咳も。
酸素も。
疲労も。
殴ることも、追いかけることも、撃つことも、ハッキングすることも、飛んで逃げ切ることもできない敵と戦う、あの奇妙な無力感も。
ラクソンは画像を確認する。
マッハは黙っていた。
レイモンドも同じだった。
やがてラクソンが一部分を拡大する。
次に別の部分。
以前の画像と比較する。
キランはもう我慢できなかった。
「それで?」
ラクソンが彼を見る。
キランは即座に両手を上げた。
「今のはノーカウント。三十秒どころか、かなり経ったから」
レイモンドが笑った。
ラクソンもほんの少しだけ笑いそうになった。
ほんの少しだけ。
「肺はかなりきれいになっています」
キランが瞬きをする。
「かなり?」
「肺炎は予想通り改善しています。現時点で心配になる所見はありません」
マッハが即座に反応する。
「素晴らしい」
ラクソンは続けた。
「酸素飽和度も望ましい数値まで戻っています。呼吸音も良好。以前のような疲労感も、もうありませんね?」
「うん」
「咳は?」
「ほとんどない」
「胸の圧迫感は?」
「ない」
「息切れは?」
「いつもと違うものはない」
ラクソンは頷いた。
もう一度画像を見る。
そしてキランへ向き直った。
「分かりました」
キランは待った。
「それで……」
ラクソンが彼を指差す。
「私に後悔させないでくださいね」
キランの目が大きくなる。
「待って」
レイモンドはすでに笑っていた。
ラクソンが続ける。
「通常の生活に戻って構いません」
キランは彼女を見つめた。
マッハのインジケーターが明るくなる。
「普通の……普通?」
ラクソンはため息をついた。
「はい、キリアンさん。普通の普通です」
キランの顔いっぱいに笑みが広がった。
「よっしゃ!」
レイモンドがびくっとする。
「室内だぞ」
キランは無視した。
「マッハ!」
「聞いています」
「自由だ!」
「かなり大げさな解釈ですが、おおむね正しいです」
ラクソンが手を上げた。
「ここから駐車場まで音速を突破する計画を立てる前に言っておきますが——」
「そんなこと考えてない」
マッハが答えた。
「考えていました」
「裏切り者」
ラクソンは続ける。
「肺炎は治っています。通常の仕事、日常生活、レクリエーション、それから普段通りの飛行に戻って構いません」
キランの笑顔がさらに大きくなる。
「制限は?」
「肺炎による制限は解除します」
キランはMACH-01Aを見る。
「マッハ」
「はい?」
「聞いた?」
「繰り返しますが、私はここにいます」
「制限解除だって」
「確認しました」
レイモンドが一歩前へ出る。
「先生、それ書面でもらえます?」
キランが振り返る。
「なんで?」
「お前が『普通に戻っていい』を『ハリケーンと素手で殴り合っていい』って解釈した時に、本当は何を言われたのか見せるため」
「僕はハリケーンと戦ったことなんてない」
「まだな」
「そこ重要だから」
ラクソンはタブレットをレイモンドへ向けた。
「一理あります」
「なんで今日は全員僕の敵なの?」
マッハが答える。
「過去の実績です」
キランはうめいた。
そこで肝心なことを思い出した。
「待って」
ラクソンが彼を見る。
「レース」
「レース?」
「シトロン・レースウェイのVRFイベント」
レイモンドが笑う。
「始まったぞ」
キランは無視する。
「ミカイラに誘われてるんだ。今週末。人混みもあるし、騒音もあるし、一日がかりになるかもしれない」
少し間を置く。
「行ってもいい?」
ラクソンはしばらく彼を見た。
それからX線画像を見る。
そしてまたキランを見る。
「はい」
キランの眉が上がる。
「本当に?」
「本当に」
マッハが即座に言った。
「素晴らしい」
ラクソンは頷く。
「レースに行って、楽しんできてください」
キランは笑う。
「それが医学的な指示?」
「私からの医学的な指示は、娯楽を毎回緊急事態へ変えるのをやめることです」
「それはひどい」
レイモンドがわざとらしく咳払いする。
キランが見る。
「喉に何か詰まった?」
「いや」
ラクソンは続ける。
「普段の薬は忘れずに。水分補給もしてください。自分の体調には注意すること。疲れたら休む。それ以外は、ミカイラと一日シトロン・レースウェイで過ごしてはいけない医学的理由はありません」
マッハのインジケーターが再び明るくなる。
「許可を確認しました」
キランは背もたれに寄りかかった。
「よし」
レイモンドが壁から離れる。
「いやあ、よかったな」
キランは目を細める。
「何?」
「医者からデートの許可までいただいて」
「デートじゃ——」
マッハが割り込んだ。
「デートです」
キランは下を見る。
「シバと話しすぎだろ」
レイモンドがニヤリとする。
「シバって誰?」
「生徒」
「現代のVentレースについて彼に教えている生徒です」
マッハが説明した。
レイモンドがゆっくりキランを見る。
「生徒に教わってんの?」
「いろいろ事情がある」
「そうか?」
「僕の知識が少し古かっただけ」
「二十年です」
マッハが言った。
レイモンドはキランを見つめる。
そして大笑いした。
「おいおい」
「やめろ」
「二十年?」
「ウィリアム・タフトは知ってたんだよ!」
「その頃のレースって白黒放送だった?」
「二十年前だぞ。八十年前じゃない!」
「ラジオで実況聞いてたのか?」
「レイモンド」
「みんな革の飛行帽とか被ってた?」
「レイモンド」
マッハが付け加える。
「ウィリアム・タフトとストライプスは、彼らの時代には非常に優秀なコンビでした」
レイモンドがMACH-01Aを指差す。
「『彼らの時代』だってよ!」
キランの顔が引きつる。
「君まで」
マッハが一拍置く。
「申し訳ありません」
「ありがとう」
「表現については」
レイモンドは腹を抱えそうになるほど笑った。
ラクソンは眉間を押さえる。
「他にも患者がいるんですけど」
キランは彼女へ向き直る。
「そうだった」
ラクソンは診察結果を彼に渡した。
「順調ですよ、キラン。私が望んでいた通りの回復です」
珍しく、キランは冗談を言わなかった。
「ありがとう、先生」
「どういたしまして」
彼女はキランを指差す。
「では、健康な生活を楽しんできてください」
キランは笑った。
「それならできる」
レイモンドが姿勢を戻す。
「できれば撃たれずにな」
キランは彼を見る。
「一回くらい、いい雰囲気のまま終わらせてくれない?」
「無理」
マッハが答える。
「レイモンドの要望は妥当だと思われます」
「君まで?」
「肺炎療養中に二発被弾した事実は、私のリスク評価へ大きな影響を与えました」
「あれは予定してたわけじゃない」
レイモンドはドアへ向かう。
「それ、余計に悪いだろ」
キランも後を追った。
MACH-01Aが滑らかに診察室を進む。
酸素の警告はない。
呼吸のアラートもない。
肺が追いつかないから速度を落とせという通知もない。
数週間ぶりに、ステータス表示がほとんど普通に見えた。
キランは微笑んだ。
「マッハ」
「はい?」
「レースに行くぞ」
「厳密には、レースを観戦しに行きます」
「雰囲気壊すなよ」
「私は技術プレゼンテーションにも興味があります」
「僕も」
レイモンドがドアを開けて待っていた。
「はいはい。秘密の新技術。プロのレース。分かった分かった」
キランが横を通り過ぎる。
レイモンドがニヤリとした。
「でも、お前が本当に楽しみにしてる理由は全員分かってるからな」
キランが止まる。
「言うな」
レイモンドが少し身を寄せる。
「ホットロッド君、デートだってよ」
キランは廊下を加速した。
背後でレイモンドが笑う。
「おい! ラクソン先生に今許可もらったばっかりだろ! 取り消されるようなことすんなよ!」
マッハがプライベート音声で言った。
「速度が十二パーセント上昇しました」
「何も言うな」
「了解しました、ホットロッド」
キランはうめいた。
長い週末になりそうだった。




