プロローグ
「おばあちゃん、大丈夫ですか? 荷物、持ちますよ」
横断歩道の手前で、そんな微笑ましい会話が聞こえてきた。
俺、坂井哲夫は、スマホから顔を上げた。
視線の先にいたのは、金髪碧眼の美少女だった。
まるで宗教画から抜け出してきた聖女のような少女。澄み渡った蒼穹を思わせる青い瞳に、すっと整った鼻筋。柔らかな曲線を描く眉と、絹糸のように滑らかな金髪が、彼女の美貌をいっそう引き立てている。透き通るような白い肌には、どこか温かみがあった。
顔がいい。スタイルもいい。そして、性格までいい。
天は二物を与えず、なんて言葉があるが、こいつの場合はどうやら例外らしい。
絵に描いたような善人。
そんな彼女に、重そうな荷物を抱えた老婆が、ほっとしたように微笑みかけた。
「ありがとうねえ。綺麗なお姉さん」
「いえいえ。これも神様が結んでくださったご縁ですから」
少女――清水・ソフィアは、老婆の荷物を自然な動作で受け取ると、そのまま隣に並んで横断歩道を渡り始めた。
清水・ソフィア。
俺と同じ十六夜高等学校に通う、二年A組のクラスメイトだ。
普段は清水教会で暮らし、シスターとして教会の仕事を手伝っている。
そして、校内では知らない者がいないほどの有名人だった。
クラスの隅でひっそりと息を潜めている俺でさえ、彼女の名前と顔を知っているくらいなのだから、その知名度は推して知るべしだろう。
なにしろ、清水は誰に対しても分け隔てなく接する。困っている人がいれば手を差し伸べ、悩んでいる人がいれば親身になって話を聞く。
そのうえ、あの容姿だ。
男女を問わず人気があるのも当然だった。
「おばあちゃん、この先は大丈夫ですか? よろしければ、目的地までご一緒しますよ」
「いいのよ。ありがとうね。息子がすぐに迎えに来てくれるから」
老婆がそう答えた直後、交差点の向こうからスーツ姿のサラリーマンが駆け寄ってきた。
「あっ、お袋!」
「あら、来たわね」
どうやら、あの男性が息子らしい。
サラリーマンは母親の無事を確認すると、ソフィアに向かって深々と頭を下げた。
「母がお世話になりました。本当にありがとうございます。せめてものお礼に、こちらを受け取っていただけませんか?」
そう言って差し出したのは、渋沢栄一の肖像が印刷された一万円札だった。
しかし、ソフィアは首を横に振った。
「滅相もありません。私はただ、困っている方に手を差し伸べただけですから」
「ですが、何かお礼をしないと、私の気が済みません」
「でしたら、ひとつだけお願いがあります」
「お願い、ですか?」
「はい。今度はあなたが、困っている誰かを助けてあげてください。それで十分です」
ソフィアは穏やかに微笑んだ。
「これも、イエス様の教えです。『隣人を自分のように愛しなさい』。マタイによる福音書、二十二章三十九節ですね」
胸元の十字架が、朝日に照らされてきらりと輝いた。
まるで、彼女の善行を祝福するかのように。
やがてソフィアは軽く会釈をすると、何事もなかったかのように歩き出した。向かう先は、もちろん十六夜高等学校だ。
その後ろ姿を見送る人々の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
――なんとも心温まる光景である。
もっとも。
「……何が隣人愛だ。ばかばかしい」
俺の口から漏れたのは、そんな冷めきった言葉だった。
「あ、清水さんだ」
不意に、隣から声がした。
振り向くと、いつの間にか赤髪の少女が立っていた。
須美美和子。
可愛いというより、どこか大人びた美しさを感じさせる少女だ。人を惹きつける華やかな容姿と、相手の懐に入り込むのが妙にうまい性格をしている。
俺の数少ない友人であり、数少ない理解者でもある。
……たぶん。
「おはよう、須美」
「おはようございます、坂井様。本日はずいぶんとご機嫌斜めですね?」
「そりゃそうだ。朝っぱらから反吐が出そうなものを見せられたんだからな」
「清水さんのことですか?」
須美は、にしし、と悪戯っぽく笑った。
俺は答える代わりにスマホをポケットへしまい、学校へ続く道を歩き始めた。
「坂井様、坂井様。ひとつ、面白い噂をご存じですか?」
「噂?」
「はい。どうやら清水さん、パパ活をしているらしいですよ」
俺は思わず足を止めた。
「……は?」
振り返ると、須美は大きな瞳をこちらに向けていた。
その瞳には、相手の心を惹きつける彼女の能力が宿っている。本人いわく、誰もが自分の魅力に抗えなくなるのだとか。
実際、彼女の魅了にかかってしまう人間は少なくない。
ただし、俺にはまったく効かない。
「坂井様なら、どんな反応をしてくださるかと思いまして」
「そんな噂を広めている暇があるなら、もっと自分の活動に専念しろ」
「うぐっ。お手厳しい……。でも、そんなところも愛しています!」
「はいはい。俺も愛してるよ、須美ちゃん」
「わあ、ついに愛の告白ですね!」
「冗談だ」
「即答!?」
須美の抗議を聞き流しながら、俺たちは再び歩き出した。
他愛のないやり取りを交わしているうちに、十六夜高等学校の校門が見えてきた。
校門をくぐり、昇降口で靴を上履きに履き替える。階段を上って二階に着くと、須美とはそこで別れた。
俺は二年A組の教室に入り、誰にも気づかれないように自分の席へ向かった。
椅子に腰を下ろし、机に突っ伏す。
そして、ちらりと教室の中央に目を向けた。
そこには、いつもの光景が広がっていた。
「おはよう、げんちゃん! 今日は野球の練習だよね? 応援してるからね!」
「おお、清水さん。おはよう!」
「おはよう、南ちゃん。どうしたの? 何か困りごと?」
「あっ、清水さん、おはよう。うん、昨日の課題なんだけど、どうしてもわからなくて……」
「どこかな? よかったら、一緒に考えようか」
「えっ、本当? ありがとう! さすが聖女様!」
「清水さん、お、おはようございます」
「あなたは……仲くんだったね。おはよう!」
ソフィアは、ひとりひとりの名前を覚えているらしい。
野球部員には練習の話を振り、困っている生徒には勉強を教え、引っ込み思案な男子にも自分から声をかける。
誰に対しても、自然体。
誰に対しても、笑顔。
誰に対しても、優しい。
まるで、聖女という役柄を演じるために生まれてきた人間のようだった。
俺は大きなあくびをひとつ漏らした。
……本当に、パパ活なんてしているのだろうか。
あれだけ人に好かれている人間が、そんなことをしているなんて。
いや、待て。
俺は頭の中で、自分の考えに待ったをかけた。
そもそも、他人に親切であることと、パパ活をしていないことの間に、何の因果関係がある?
人助けをする人間が、裏では別の顔を持っていたとしても、何ら不思議ではない。
善人だから悪いことをしない。
そんな理屈が通るのなら、世の中に偽善者なんて存在しないはずだ。
つまり、俺の違和感は、ただの先入観にすぎない。
噂を信じる理由もなければ、噂を否定する理由もない。
だったら、確かめればいい。
俺は机に頬をつけたまま、ソフィアの横顔を盗み見た。
彼女は今も、クラスメイトに囲まれて笑っている。
その笑顔に、嘘はあるのだろうか。
それとも、あれが彼女の本性なのだろうか。
「……まあ、どっちでもいいか」
そう呟きながらも、俺の頭の中では、ひとつの計画が組み上がりつつあった。
放課後。
清水・ソフィアの後をつけてみよう。
彼女が本当にパパ活をしているのか。
それとも、誰かが面白半分に流した、くだらないデマなのか。
自分の目で確かめるまでは、何も判断できない。
……ただ、ひとつだけ確かなことがある。
俺は、あの完璧な聖女様の仮面の裏側が、どうしようもなく気になり始めていた。
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