誘拐
こめかみから冷たい鉄の感触が伝わってくる。
突然、ガタンと大きく体が揺れた。
窓からは、ポツポツと点在する木が生えた緩やかな崖と、それを阻むガードレールが見える。
対向車が来ても避けられないほど幅の狭いこの山道は、日がすっかり落ちていることもあって、不気味さで装飾されていた。
ここはどこだろう。
私は今、知らない男の人が運転する車の助手席に座り、いわゆる人質というものになっていた。
運転しながらもその人は、不規則な間隔でことあるごとに拳銃を突きつけてくる。
「あの、逃げるつもりはないので、それやめてもらえませんか」
「念のためだ」こちらに目もくれず、前を見据えて言う。
「運転しながらだと、危ないと思いますので」
「……お前、なんか余裕に見えるんだけど気のせいか」
「確かに最初はちょっと驚きましたけど」
人質になってから数時間経っていたこともあり、私はこの状況に慣れつつあった。
「そんなことよりもこれ、どこに向かってるんですか」
「すぐに着く」
男の身なりはお世辞にもキレイとは言えなかった。髭と髪はボサボサに生えていて手入れされていない。
そして汚れた無地のシャツとボロボロのズボンを着ている。
私はバレないようにそのまま男の顔を盗み見る。年齢は三十歳前半くらいだろうか。肌は焼けて少し黒かった。
ちゃんとお手入れしたらカッコよさそうなのになと考えていると、私が見ていたことに気づいて彼は「なんだよ」と言ってきた。
「アカリといいます」
「は?」
私の突然の自己紹介に、男は素っ頓狂な声を出した。まさか急に名乗ってくるとは思わなかったのだろう。
「私の名前です」
「だから、なんで」
「なんとなくです」
「なんとなくってお前……」
「それで、あなたのお名前は?」
「言う必要ねーだろ」
「誰に殺されるかくらい知っておきたいのですが」
「殺すつもりはねー」
男は鼻で笑って、すぐに否定した。
ガタンっと再び車が揺れる。
「ほら、危ないですよ」
私がそう言うと男は舌打ちをして拳銃を下ろした。
「お名前は?」
「……東」
断っても無駄だと思ったのか、観念したように小さくため息を漏らして名乗った。
「あずまさんですか、あの」
「今度はなんだ」
少し苛立った様子であずまさんが答える。
「親に連絡してもいいですか?」
「は? いいわけねーだろ」
「でも、心配させちゃうので、友達の家に泊まるってだけ言っておきたいんですが」
私がそう言うと、数秒の沈黙が訪れた。
「……分かった。ただし、余計なことは言うなよ」
「はい」
私は彼から了承を得ると、ポケットからスマホを取り出してメッセージを作成する。二十秒ほどかけて送る内容を打ち込んだ私は、画面を彼のほうに向けた。
「これなら大丈夫ですか?」
「お、おう」少し戸惑ったように言う。
「ありがとうございます。送信しました」
「……お前、律儀だな」
「何がですか?」
「……いや」
「……」
あずまさんのその言葉を最後に、私たちの間に沈黙が訪れた。
再び窓の外を見ると、乱立していた木の景色から、山の景色に変わっていた。
ギュルルル
私のお腹が空腹を告げる。
「……」
少し恥ずかしくなった私は、自分の首元にあるネックレスを軽く握る。
「すみません、お昼から何も食べてなくて」
「……なんでもいいか」
「え?」
突然彼が言った言葉の意味が分からず、間抜けな声で聞き返してしまう。
「嫌いなものはないか」
「あ、はい」
「分かった、もう少し待ってろ」
「ありがとうございます」
「……ところでそのネックレス、大事なものなのか」
お礼に対して彼は反応しなかったが、続けざまに質問をしてきた。
「え?」
「いや、ちょっと気になっただけだ」
「そうですね」
私は掌に乗せたネックレスを見ながら言う。
「これ、昔買ったものなんですけど、なんかデザインが歪というか、不格好じゃないですか」
「……」あずまさんは静かに私の話に耳を傾けている。
「でも、心をこめて作られた感じがしませんか? それでなんか元気がもらえるんですよ」
「なんだよ、それ」
「お守りみたいなものですかね」
私がそう答えると、彼はそうかとだけ呟いた。
そして、車内に再び沈黙が訪れる。
「あの、音楽とか掛けないんですか」
今まで以上に気まずさを感じた私は、目についた車の音楽プレイヤーを話題にする。
「ああ、普段から聴かねえんだ」
そっけなく、あずまさんが返事した。
「たまに聴くと案外いいものですよ。気持ちが晴れたような感じがするので」
「柄じゃないんだよ」彼のその言葉を最後に、会話が再びそこで終わる。
さっきほどの気まずさは感じられなかったので、私もそこで口を閉じることにした。
それから三十分ほど経ったところで、ポツンと佇む一軒のお店が見えてきた。外装はこぢんまりとしていて、いかにも老舗ですといった感じがする。
あずまさんは指示器を操作してハンドルを切ると、駐車場と思しき場所に車を入れて止めた。
「そば屋みたいだけど、大丈夫か?」
「はい」
私の返事を聞くとあずまさんは車のキーを抜いて、シートベルトを外した。私もそれに続き、車の扉を開ける。
その瞬間、土のかおりを纏った空気が顔にかかった。
辺りからは鈴虫が演奏する心地の良い音色が私の耳に入ってくる。
「どうした、行くぞ」
思わず聞き耳を立てていると、彼が私をせかすように言った。
「あ、はい」
店の扉は古き良き木造タイプで、趣があった。あずまさんがガラガラと音を立てながらその扉を開ける。
「いらっしゃい」
中に入ると、店主らしきおばあさんが奥から姿を見せた。店内はそこまで広くなく、座敷は三つだけだった。見たところ、私たちのほかにお客さんはいないようだ。
「まだいけますか?」
「はい、そちらにお掛けください」
私たちはおばあさんに案内された席へと座る。
「お疲れさまでしたね」
おばあさんはそう言いながら、お水とおしぼり、そしてメニューを机の上に置いた。
「うまそうだな」
私はおしぼりで手を拭きながら、彼の視線の先を追う。メニューの真ん中には、デカデカとソースカツ丼の絵が載っていた。そして大きな字でおススメと書かれている。
少し失礼かもしれないけど、この店にはそぐわないデザインが施されていて、広告のように見えた。
「このメニュー表、息子が作ってくれたんですよ」
私が思ったことに気づいたのか、おばあさんが言う。
「そうなんですね」
「ええ、場所が悪いから、せめてメニューくらいはって」
「じゃあ、俺はこのソースカツ丼でお願いします」
私がそのメニューに目を引かれている中、あずまさんが注文する。
「……お前も同じのにするか?」
「あ、いえ私は……この温かいおそばでお願いします」
「分かりました、少しお待ちください」
おばあさんはそう言うと、厨房へと向かって行った。
「ほんとにそれでよかったのか?」
突然、あずまさんが訝し気に聞いてきた。
「え、なにがですか?」
「いや、ソースカツ丼をじっと見てたから、てっきり食べたいのかなって思ったから」
あずまさんの言葉に私は少し驚いて、すぐに返事ができなかった。
「そんな風に……見えました?」
「え、まあ」
「そうですか……」
「……」
それ以上私は言葉を返さなかった。それに居心地が悪くなったのか、あずまさんはお水を手に取り、軽く口に流し込む。
私は周りを見渡し、静かに店内の様子を眺めた。
「俺が言うのもなんだけどさ」
突然あずまさんが言葉を発する。
「え?」
急なこともあって、少し間抜けな声を出してしまう。
「お前、怖くないの?」
「何がですか?」
「いや、この状況というか、これってまあ……誘拐だろ?」
「そうですね」
「そうですねって、それだけ?」
「さっきの拳銃、偽物ですよね?」
「……お前、気づいてたのか」
「はい。銃口が塞がっていて、黄色でしたので」
「よく知ってんな」
「昔読んだ本に書いてました。それに……」
私はそこで言葉を区切る。彼がこの言葉を聞いたらどう思うか、少し考えたからだ。
「私、もういつ死んでもいいと思ってますので」
考えて、私は言いたかったこととは別のことを話した。
「……」
あずまさんは口をつぐむ。
「お前は——」
「お待たせしました」
何か言いかけたあずまさんを遮るように、おばあさんが料理を持ってきて私たちの前に並べた。
ソースの少しツンとした甘い香りと、ダシのいい香りが鼻腔をくすぐり、立ち上る白い湯気が料理を一層美味しそうに見せる。
「ごゆっくりどうぞ」
そうにこやかに言うと、おばあさんは再び厨房に戻っていく。
「……じゃあ食うか」
私は彼の言葉の続きが気になったが、小さく頷いた。
「はい、いただきます」
割り箸を手に取って割り、おそばの中にくぐらせる。箸をすくい上げると、モワッとした湯気が顔を覆ってきたので、思わず目を閉じてしまう。少しずつ目をあけ、冷ますために軽く息を吹きかけてそのまま箸を口元に運ぶ。
「おいしい」すぐにその情報が脳へと伝わった。
コシのあるおそばにさっぱりとしたツユがからまり、素朴ながらもとても懐かしい味がした。
私が舌鼓をうちながらおそばを咀嚼していると、あずまさんが笑ってこっちのことを見てきた。
「よかったな、ほら、これも食ってみ」
そう言ってあずまさんは、器のフタにミニソースカツ丼をつくって渡してきた。
「いや、でも……」
「遠慮すんなって」
あずまさんの強引さに負けて、私はその器を受け取る。そのまま彼の視線は私から離れない。
食べるまで彼の視線から解放されないなと諦めた私はソースカツ丼を箸で掴み、ゆっくりと口の中に運ぶ。
その瞬間、芳醇なうま味が口内に行き渡った。ソースの甘さとカツの肉汁が見事にマッチしていて、お互いがそれぞれの良さを引き上げている。
「おいしい……」
「な、うまいだろ。てかお前もそんな顔するんだな」
笑顔を湛えてあずまさんが言った。
私は少し気恥ずかしくなってネックレスを軽く握り、俯いて咀嚼を続ける。
「恥ずかしがんなよ」からかうようにそう言うあずまさんにムッとして、私は抵抗するように睨んだ。
「怒んなって」
「怒ってません」
その後、あずまさんは「ごめんて」と言ってくるが、全く悪びれている様子もなかったので、私は構わず箸を動かした。
久しぶりにこういうの食べたな。私は心の中で少しだけ、ほんの少しだけ彼に感謝した。
「はあ、うまかったな」
「ごちそうさまでした」
料理を食べ終え、あずまさんがおばあさんを呼ぶ。
そして、とてもうまかったですと満足した様子で言うと、立ち上がりポケットから財布を取り出す。
「それはよかったです。ところで、お客さん、こんなところまで何しに来られたんですか?」
「……」
おばあさんの質問で、あずまさんの顔が少し曇ったように見えた。
「まあちょっと、景色を見にです」
「ああ、根尾山ですか」
「そうです」財布からお金を取り、おばあさんに支払いながら言う。
「やっぱり、この辺りはそれくらいしかないですからね。ですがもう暗いので、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
「ごちそうさまでした」
そう言うとおばあさんが曲がった腰をさらに曲げて、頭を下げる。
私もそれに返すように頭を下げ、外に出た。
「あの、お金」
「いいよ」
「ですが……」
「それよりも見てみ」
あずまさんはそう言って人差し指を上に向けた。彼の指の先を目で追うと、
そこには、零れ落ちてきそうなくらいの満天の星が瞬いていた。
「うわ、キレイ……」
「ああ、でもなんで田舎みたいな場所じゃ、こんなに光んだろうな」
「それは都会に比べて人工的な光が少ないからですよ。あと、空気が——」
「そういうのを聞きたくて言ったわけじゃねーよ」あずまさんは私の話を遮るようにそう言うと、車に乗り込んだ。
私も彼に続いて助手席に乗り込む。
「お前はほんとロマンチックじゃねーな」
あずまさんは笑いながらそう言うと、静かに車のエンジンを入れた。




