外伝② 月蝕
本編未読の方はまず本編をどうぞ~
虫の囀る、静かな夜。
庭に置かれた丸太に腰をおろして、僕は空を見ていた。
満点の星空。
中央に輝く、大きな銀色の月……。
吸い込まれてしまいそうなあの光が、僕はとても、好きだった。
「何をしているんだ?」
低く、だが優しい響きを持つ声が、背後から聞こえた。
振り返ると、そこには僕の一番好きな、美しい人の影。
今宵の空の闇よりも、もっともっと暗く深い色の髪が、夜風にさらりと揺れる。
月よりも綺麗な、僕の宝物。
「オルシア。……あれ」
僕は、天空を指した。
巨大な円を描く神秘の星が、そこには浮かんでいる。
「月を見ていたのか」
「うん……今夜は月蝕なんだ」
あの美しい月の光が、太陽の反射光なのだと教えてくれたのはオルシアだった。
あれほど偉大で神秘的な星でさえ、誰かが照らしてくれなければ、自力で輝くことなど出来ないのだと……どこか寂しげに語った美しい横顔。
「月蝕か。……もうこれで何度目かな」
苦笑混じりに呟くのが、この人の癖だ。
「僕は初めてだよ」
だからだろうか。さっきから、胸が高鳴って落ち着かない。
「こんなところより、屋根に上がって見たほうが見やすいんじゃないのか?」
予想外のその言葉に、僕は驚いた。
「え?でも、いつも危ないから上っちゃダメだって……」
「今夜は特別、だろ? 俺一人で屋根に上がるのも気が引けるからな」
意地悪く微笑して、さっと身を翻す、オルシア。
僕は慌てて立ち上がり、その後を追った。
見慣れた黒いマントの後ろ姿。
いつもどこか寂しそうな……長身の、その背。
走り寄って腕に縋り付くと、細い指を持つその神経質そうな手で、僕の頭を撫でてくれた。
大好きな、オルシア。
二階の窓から、屋根に上がる。
夜風が少し強くなって、肌寒い。
思わず身震いした瞬間、僕は黒いマントの中にすっぽりと包まれていた。
優しい腕の……温もり。
屋根に並んで腰をおろし、僕はマントの中から顔だけ出して、空を見上げる。
「そろそろだな」
目を細めて、オルシアが呟く。
紫の瞳の中で、月は徐々に欠け始めていった。
「なんか、ドキドキするよね」
「そうだな」
「月がすごく、近くにあるように見える」
「……ああ」
少しずつ、欠けてゆく月。
闇に侵食されてもなお……美しい、その姿。
「ああ、消えちゃう」
糸のように細くなった月。
「もうすぐ、だな」
じっと、欠けてゆく月に見入る。
やがて、月は完全に隠れ……そして、変化した。
「紅い……月」
初めて見るその姿に、僕は呆然と呟いた。
その耳に、静かなオルシアの声が、響く。
「太陽が見えなくなって……月が、寂しがっているんだ」
皆既月蝕とは、月と太陽の間に地球が入り、地球が太陽の光を遮断してしまうことで月が翳るのだと、オルシアは言った。
「いつもあったはずの強い光が届かなくなって……それで、月が嘆いているんだ」
月が、血を流して泣いている。
孤独に怯え、傷ついているのだと……
オルシアの目には、この神秘の瞬間が、そんなふうに見えるらしい。
でも……
「違うよ」
と、僕は言った。
「僕は……違うと思うな。ああやって……月はきっと自分で輝きだそうとしてるんだよ。太陽みたいな、赤い星になって……」
「……」
静かな紫色の瞳が、僕を見た。
優しい……でもいつも寂しそうな、その眼差し。
意見を否定されて気を悪くしたのかと、僕は一瞬不安になったけど、次にやってきたのは穏やかな微笑みだった。
「お前の言うとおりだ」
オルシアは言った。
僕の肩を抱く温かな腕に、力がこもる。
「きっと、お前の言うとおりだな……マール」
月は、一時紅く輝き、そして、また青白い姿を現し始めた。
「綺麗な色だね」
僕は呟く。
「紅い月も神秘的だけど……僕はやっぱり、こっちが好きだな」
「うん、俺もだ」
徐々に、闇が蒼く照らされてゆく。
月の光の下で見るオルシアの横顔は本当に綺麗で……
僕は、なんだかせつなくなって、その胸に頬を寄せた。
いつまでそうしていたのだろう。
気が付いたら、僕はベッドの上に居た。
「あれ?」
「ああ、起きてしまったのか」
そばの机で本を読んでいたオルシアが振り返る。
「月蝕は?」
「もう終わったよ」
その言葉に、僕は慌てて跳ね起きて、窓へと走る。
月は少し傾いた位置に、真円を描いて浮かんでいた。
一瞬、全てが夢だったのではないかという錯覚を覚える。
「オルシア、あの……」
「服に涎を垂らされてはかなわないからな」
あ……
よかった。やっぱり、夢じゃなかったんだ。
「お前はもう寝ろ」
再び本に目を落とし、オルシアが言う。
「オルシアは、まだ寝ないの?」
「これが読み終わってからだ」
「じゃあ、僕も起きてる」
「……」
迷惑そうに、振り返るオルシア。とっとと寝ろと、表情が物語っている。これ以上食い下がっても、いつもなら怒鳴られるだけなのだけど……
「仕方ないな」
そう言って、オルシアは本を閉じた。
これも、月が起こした奇跡かもしれない。
「一緒に寝てくれるのっ?!」
思わず飛び上がった僕の前で、オルシアはまた苦笑を浮かべた。
「そんなに嬉しいのか、お前は」
「うん!」
僕はめいっぱい、頷いた。
「今夜は特別、だろ?」
優しい微笑み。
僕の大好きな……少し、悪戯っぽい明るい笑顔。
「でも、涎をつけたら明日の朝食係はお前だからな」
「うん!」
「……お前は変な奴だな」
窓から差し込む、蒼い光。
その包むような輝きに、僕は心の中で御礼を言った。
END




