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第一部完結ですかね。
続きは未定です。大昔に書いたものなので。迷子です。
ちゃんと聞かなくては、とディアマンテはこの時、オルカへ一歩踏み出す決意をした。
だって色々事実しか見えていないのだ。その背景が分からない。
分からなさすぎるのだ。
だから聞かなければ。
オルカを恐ろしいと思わないためにも。
船の上の人間に手を借り、二人で船へ上がる。
「家に帰るのかい」
「頼むよ。ちょっと疲れたんだ」
「はいはい」
船の人間たちも慣れたもの、オルカの言葉に二つ返事でかえす。
その中でディアマンテは手を握り締め、何て言えばオルカを傷つけないで問いかけられるだろう、と考えていた。
そんな時だったのだ。
水面に手が見えたのは。
「っ」
海中の手は幾つも伸びていて、誰かを求めてさまよっていた。
「ああ、お前らもこっちに戻ってきちまったのかよ」
そのさまよう手が、オルカにも見えているのか。
驚くディアマンテを気にせず、オルカは船の上から海面へ手を伸ばし、ずぶりと指先を海中へ沈める。
「ああ、大丈夫。大丈夫だぜ、おれは元気さ。安心しろって」
「オルカ……あなたはいったい何をしているの?」
疑問が頂点に達した。彼女の口からこぼれる疑問に、オルカが笑ったまま答える。
「死人との会話。大抵海で死んだ奴らだな。おれみたいな生き残りは、海で死んだ者の声を聞いてやるんだよ。ずっと前から、親父が首を落されて死んだあの日から」
おれはその仕事を受け継いだ、とオルカは海中へ指を浸したまま答えた。
「世界に還ればいいのに、おれのこと心配で還れない奴らばっかり。ほんとおれ、好かれてんだよなあ」
笑ったオルカが手招きをする。近付けば海面を覗くように示された。
見えるのが腐乱死体だったらどうしよう、と思いながらそこを見ると。
笑顔がいくつも。心配そうな顔がいくつも。
海面に浮かんでは消えていた。
大丈夫かい、オルカ。ちゃんとご飯は食べているかい、元気でそっちでやっているかい、おれたちの事は何にも心配しなくっていいんだからな。オルカ、オルカ。
海の中から響く声のような何か。オルカがディアマンテの肩を抱き寄せて笑う。
「心配すんなよ、可愛い嫁さんも出来たんだぜ、おれでも」
笑顔達が笑い、何処かに沈んでいく。また手がいくつも伸びてくる。
その時、聞こえたのだ。
御大将。御大将、俺らの導きの星、一等輝く綺羅の星。
その声は聞き覚えのある声たちであり、ディアマンテが一度退けた声たちでもあった。
ディアマンテがオルカを船へ押しやろうとすれば。
「お前らも久しぶりだなあ」
オルカはからからと笑って答えた。
声で答えがあった事に、海の中の何か達は歓喜したらしい。
答えた、答えてくれた! 御大将、御大将!
歓喜の声で満ち溢れる海中が、ディアマンテでもわかってしまうのだ。
その声たちに、オルカが優しい声で告げる。
「あと四十年くらい待ってろよ、そうしたらお前たちと一緒に、またどこまでも行こうぜ。黄金郷を見つけて。な。海を股にかけて幽霊船で西へ東へ。どうだ、楽しそうだろ」
ああ、ああ、ああ!!
海中の声が泣き出すように震えた。
それはとても幸せな事を聞かされた、哀しい幽霊たちの声なのだろうか。
「だから待っててくれよ、あと四十年ぽっち、人間の体はそれ位しか生きられないようにできてるんだぜ」
海中へ言い聞かせるように言う、オルカ。ディアマンテは声をかけようとし、しかし何て言えばいいのかわからない。
「オルカ」
「だからあと四十年は、おれの嫁さんがおれを独り占めしても、怒らないでくれよ?」
茶目っ気たっぷりな言葉を聞いて、海中の手は全て消えて行った。
「あーあ、海の死者と約束なんかして。シャチ坊、逃げらんないぞ」
「もともと逃げる気とかねえし。あいつらが待ってんのは知ってるし」
船頭たちが笑う。この異常事態を笑ってしまうのか。
「あの」
これは普通にある事なの、と問いかけた彼女に、船頭が言う。
「海に生きる奴らは、たいていどこかで選択肢を選ぶんだ。海の仲間のもとに行くか。どこかにあるという魂の楽園に行くか」
「そう、なの……?」
「そうそう。オルカみたいに、迎えが何度も来る奴も珍しくないんだぜ。海に沈む奴らが、オルカをそれだけ大好きってだけでな。まあシャチ坊は人の範疇にない分、呼びかけが聞こえやすいんだろうよ」
人の範疇にない……
「ディアマンテ、聞きたい事は後でちゃんと答えてやるから、待っててほしい」
ふと、オルカが普段のふざけた調子が何もない顔で言った。
オルカは真面目に答えるつもりだ。
それが分かったディアマンテも頷いた。
「あなたは何なの?」
夕暮れも過ぎて、家に帰って軽い食事をとった後、意を決してディアマンテは問いかけた。
背の低い椅子に座り、外を眺めるオルカが彼女を見る。
「海神の孫。この世を作った魚の神の孫さ。それと、海賊神の息子であり、死の神の系譜」
「あなたは人間じゃないの? ホエイ=ルはお母さんなのでしょう」
「そう、混血さ。神と人間の混ざりもので、おふくろの血が濃いからまだまだ人間してる」
伸びをする姿は人間以外の何にも見えないのに、オルカが遠い気がした。
いやだ。嫌だとはっきり思った彼女は、言う。
「人間はするものじゃないわ」
「それがさあ。傑作なんだけどよ。覚えてるか、出会ったあの時の事」
「忘れた事なんて一度もないわ」
変な音とともに現れた、ディアマンテの運命を変えたあの時を覚えていないわけがない。
「あの時おれ、一回死んでるはずだったんだ」
時が止まったような気がした。
「いや、真面目に地面に飲み込まれて死ぬはずだった。人間のおれって部分が」
オルカは何を思い出しているのだろう。あの時の血まみれの姿を思えば余計に、そんな事を思う。
「でも、生きながらえさせられた。……海の死者の野郎ども、おれが魂の楽園に行くのが嫌だったみたいでよ。あいつらの残った魔力とかで、助けられたんだ」
だから?
「だから……なんなの?」
「だから余計に、あっち側の声が聞こえるようになってんだ。海で死んだ奴らの声が聞こえる。当たり前のことでしかねえんだけど、ディアマンテがいるから変わった」
「え?」
「ディアマンテ、おれとあいつらの間に障壁を張ったんだ。そうやって声のしない世界で寝ている間に、気付いちまったんだ」
「何に……」
オルカは外の海に目をやるばかりで、ディアマンテを見ようともしない。
その遠さが嫌だった。
ディアマンテは手を伸ばして、オルカの顔を自分に向けた。
「何に気付いたの。わたくしの顔をちゃんと見られるのかしら」
「……」
極彩色が揺れている。今までこの極彩色が揺れるところなど、一度だって見た事はなかったのに。
「おれは人間でいる間は、ディアマンテから離れられねえんだって」
揺れる色彩で投げられた言葉に驚くと、彼がぐいと彼女を引き寄せて、抱きしめた。
「なあ信じられるか? 死者の声だって何一つ怖くなかった、怖いものなしの海神の系譜が、たった一人から離れるのが心底怖くなっちまったなんてよお」
抱きしめる体から聞こえてくる、彼の心音がうるさいほど大きい。
「人間やめにゃならないその時まで、そのたった一人の笑顔と一緒に歩いていきたいって思っちまって身動きがとれねえなんて、信じられるか?」
「……あなたと生きると、わたくしは塔を出るあの時から決めていたわよ」
「そうだったな、覚悟が足りなかったのはおれの方だったんだ」
抱きしめる腕が、痛い。
「一人に執着したら悲劇が起きるって、親父を見て思い知ったはずだってのに。おれも一人がいいんだよ。たった一人を幸せにしたくて守りたくて、心臓じゃない場所が怒鳴るんだ」
声は続く。
「死者を全て愛する、死の神の系譜が笑わせる。たった一人に愛してほしくて、愛したくて、たまらねえんだ」
それからやや遅れて。
血を吐くような声で、オルカが言った。
「愛している、ディアマンテ」
彼女は息が止まりそうになった。だってきっと一生言われないと思っていた言葉だったから。
オルカにそういう特別はないのだと、思っていたから。
「あと少し、人間でいる間だけでいいから、おれの隣で笑っていてくれ、おれの億千のなかの金剛石」
「……それはいやよ」
ディアマンテはそっと、相手の体に自分の腕を回した。こうして抱きしめるのは初めてかもしれない。
「わたくし、きっと、人間じゃなくてもあなたが好きだわ。愛しているわ。だからわたくしが生きている間は、あなたの隣にいるわ。すべてに誓って」
オルカの体は震えていた。感じ取れる鱗は、海に浸っていなくてもオルカにあるものだったんだろう。
「死んだら?」
「その時の事は誰にもわからないわ。あなたを追いかけて海の死者になるかもしれないし魂の楽園に行くかもしれないし」
「死んでも一緒なんて言ってくれないのかよ」
「馬鹿なオルカ。わたくしは死んだら、あなたが愛している海の風になるわ」
「……」
「あなたの近くで吹き続けるの。あなたの幽霊船の航海を助けてあげる」
どちらも馬鹿を言っている自覚は、きっとあったのだ。
ただ二人はそんな愚かな事を言いあって、愛を語っていただけで。
二人の顔が近付いた。涙をたたえたオルカを見ながら、ディアマンテも泣いていた。
触れ合った唇の温度を、この二人は一生忘れないだろう。




