逆転
雹夜が鋭く銀のホイッスルを吹いた。
が、
「……ぷっ。アハハハハッ!」
美芳が腹を抱えて笑い出す。
――この街のヴァンパイアを統べる王の秘密を教えてやる。
そう不敵に宣言して吹いた笛からは、なんの音もしなかったのだ。
「せ、せんぱぁい……っ、わ、笑わせないでくださいよ……。そんな音の鳴らない笛で、一体何ができるっていうんです?」
涙すら浮かべてそう言ってくる美芳に、
「……すぐにわかるさ」
雹夜が静かに応じる。
雹夜の冷静な態度に、美芳は一瞬きょとんとした表情を見せた。
雹夜の顔色をまじまじとうかがってから、美芳は一度、小さくうなずく。
「ああ、これも時間稼ぎなんですね? でも、正直これはないんじゃないですか? 先輩はもっと頭のいい人だと思ってたんですけど。がっかりです」
「俺のことを『頭のいい人』だと思ってたんなら、どうして自分のその判断を信じねーんだ? 結局おまえは、自分を信じることもできねーくせに――いや、だからこそか。他人を侮り、見下すことでしかそのチンケなプライドを守ることができねーのさ」
雹夜の言葉に、美芳は片方の眉を神経質にひくつかせた。
美芳は、自分の中に生じた内圧を逃がすように、小さく息をつき、意地の悪い笑みを浮かべなおすと、雹夜に向かって何か辛辣なことを言おうとした。
が、
「……鐘?」
美芳が眉をひそめる。
そう。美芳の出鼻をくじくように響いてきたのは、鐘の音だった。
はじめはひとつ――すぐ裏にある、浦戸学園〈聖霊の声〉礼拝堂の鐘楼の鐘だ。
にわかに鳴りはじめた時ならぬ鐘は、時とともにいっそう激しく打ち鳴らされる。
それどころか、その鐘に呼応するようにして、墓地の断崖から望む浦戸市街の方からも、複数の鐘の音が届きはじめた。
鐘の音は、連鎖的に広がり、増殖し、鋸歯状の峻険な山々に囲まれた浦戸盆地一帯を席巻していく。
死せるヴァンパイアたちの奥津城として静寂に満たされていた異人墓地もまた、祭りさながらの大音声に支配され、頭蓋を直接揺さぶるような鐘の音に、平衡感覚すらおかしくなってしまいそうだった。
「な……なんなんですか、いったい!?」
美芳がうろたえた様子でそう叫ぶ。
「なにうろたえてんだ? メインディッシュはまだこれからだぞ」
雹夜は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべて言い放った。
「先輩っ! あなたはいったい――」
蒼惶とした視線を向けてくる美芳を敢然と無視――雹夜は〈召命〉の号令を夜空に叫ぶ。
「我、王として命ず! 我が街に棲み暮らす夜の眷属たちよ! 我が元へ疾く参じ馳せよ!」
雹夜の声が、鐘の鳴り渡る浦戸の空に殷々と響き渡った次の瞬間――
ざあっ……
名状しがたい、ざわめきのような音が、浦戸市の各所から一斉にわきたった。
ひとつひとつの音はささやかなもので、耳を聾さんばかりに鳴り響く鐘の音に、あっけなくかき消されてしまう程度のものでしかない。
だが、独特の波長を持つその音が、浦戸市の至る所で、同時多発的に発生したのだ。
音は、甲高い鐘の音の合間を縫って夜空を駆け巡り、浦戸市の外れ――浦戸学園礼拝堂裏の異人墓地にいる雹夜たちの耳へも、たしかに届いた。
その音は、蝗の大群の立てる羽音に似ていた。
小さな――矮小とすらいえるほど小さな昆虫も、何千何万、あるいはそれ以上の数ともなれば、いっそ局地的な災害とも呼べるほどの脅威となり得る。
意志ある一個の生命体のように密集して穀物を食い荒らす蝗――その一体一体は、なんということもない羽虫にすぎないが、その圧倒的な数の暴力は、人間たちの営みの成果を貪り、破壊し尽くし、時として家畜や人間の命すらも脅かす。
鋭く鳴り響いているはずの鐘の音が、その迫力を減じたように、美芳には思えた。
それは錯覚であり、激しい鐘の音はまだいささかも衰えていない。
だが、美芳にとって現実的な脅威となり得るのは、やかましいだけの鐘の音などではなく、むしろ、蝗の大群にも似た、この羽音の群れの方なのだと、直感的に理解した。
美芳は全身を支配する戦慄をこらえながら、異人墓地の断崖から、浦戸市街の方を見やる。
そして、絶句した。
「なっ……、なん……っ!」
それははじめ、蝙蝠のように見えた。
浦戸市の各所から飛び立つ、鳥でも虫でもない異類の飛行生物。
フィクションの中では吸血鬼の象徴のように扱われる存在だが、現実の世界における蝙蝠は基本的には無害な小型の哺乳類にすぎない。
その『蝙蝠』が、浦戸市のあちこちから、続々と飛び立っていく。
その数は、百や二百ではくだらないだろう。
そして――
「まさか……あれが全部……?」
美芳が呆然とつぶやく。
浦戸市のあちこちから飛び立った『蝙蝠』は、次第にその姿を大きくし、空からの月明かりと、街からの人工の明かりとに照らされて、浦戸市の上空に人型の影をいくつも作り出していく。
その人影は、決して蝙蝠のような、無害な小型の飛行生物ではなかった。
さりとて、ただの人間でもない。
能力により不可視の『羽』を形成しているものもいれば、生物学的な羽をもとから所有しているものもいる。あるいは、どちらの羽も必要とせず、超能力のように直接空を飛翔しているものもいる。
いずれにせよ、今、浦戸の空を埋め尽くしつつあるのは、人間など及びもつかない超常的能力を持った『バケモノ』たちだった。
「……ヴァンパイア……」
そう。それは、蝙蝠などではなく、浦戸市に棲むヴァンパイアたちだった。
市街各所に置かれた〈聖霊の声〉の鐘楼からけたたましい鐘の音が響く中、市街のあちこちからヴァンパイアが飛び立っていく。
その勢いは、浦戸の空を埋め尽くさんばかりだった。
いや――
「こっちへ――来る?!」
夜空に舞い上がった数百にものぼる数のヴァンパイアは、ある種の渡り鳥の群れがそうであるように――あるいはそれこそ蝗の大群がそうであるように、一体一体はばらばらの動きで、しかし全体としてはひとつの明瞭な指向性を持って、こちらに――雹夜たちのいる異人墓地へと向かってきているのだ。
「ったりめーだろ? 俺が〈呼んだ〉んだからな」
「呼んだ……!? ど、どういうことですっ!? どうしてヴァンパイアが先輩の言うことなんて――」
そこまで叫んで、美芳はハッとした顔になった。
「そ、その笛なんですねっ!? その笛で、ヴァンパイアたちを操ってるんでしょう!? よくも……よくもわたしを騙しましたね!?」
「ちげーよ。この笛は、ただの犬笛さ。人間には聞き取れない音を出す、な。だが、こいつを合図に〈聖霊の声〉の鐘楼が鳴るようになってんだ。そのうえで、決められた文句にのっとって〈召命〉を宣言してやれば、この街のヴァンパイアは『王』のもとに馳せ参じることになってるのさ」
「鐘楼――〈召命〉っ?!」
その言葉に食いついた美芳に、雹夜は半眼を向ける。
「……言っとくが、鐘楼にもさっきの文句にも、とくべつな力はなにもねーぞ。この笛と、文句とが、この街のヴァンパイアに対する号令になってるってだけさ」
雹夜がそう言う間に、夜空を舞う人影がぐんぐんと大きくなり、雹夜と美芳を遠巻きに囲むようにして、次々と着地していく。
降り立ったヴァンパイアは二十ほどだろうか。
残りのヴァンパイアは、異人墓地の上空で、地上の集団を大きく取り巻くような格好で浮遊している。
異人墓地はもともと狭く、墓石がひしめいてもいるので、集まってきたヴァンパイアのすべてが降り立つような余裕はなかったのだ。
「――我ら〈アルカドの眷属〉、浦戸王のご召命に応じ、馳せ参じました」
地上に降り立ったヴァンパイアの一人が、雹夜の前に進み出てそう言った。
月明かりに照らされたそのヴァンパイアは、細身の若い男だった。
櫛で分けただけの長い髪、べっこうぶちの大きなメガネ、そして身に纏っているよれよれの白衣……とくれば、見間違うはずもなかった。
浦戸学園の化学教師・矢野である。
「やめてくださいよ、先生。俺は別に威張り散らすつもりはないんですから。……それに、俺の名字はアリカドです。変な語呂合わせしないでください」
「ははっ。でもまあ、王の御稜威をしらしめるためには、こんな演出も必要なんだよ」
矢野はそう言って肩をすくめた。
「〈白銀の十字剣〉の方は?」
「ああ、飛んでこられるものはもう上に来ているはずだよ。地上部隊は車輌にて緊急展開中。……それでいいかな、陛下」
「それでいいよ。いや、陛下は勘弁してほしいけどな」
「それはまあ、我慢してもらわないとね。今回はひさしぶりの〈召命〉だったんだから」
「そう言われると弱ぇな。だからこの手は気が進まなかったんだ……」
ため息混じりに雹夜が言うと、
「夜の貴族たるヴァンパイアは自主独立が旨。お一人で事態を収拾なさろうとされるご気概はあっぱれなれど、我ら眷属の力が必要であれば、遠慮なくご用命下さるように……と、常々申し上げているはずですが」
いたずらっぽく矢野が言ってくる。
雹夜は何か言い返そうとしたが、その時、頭越しに進められる会話を呆然と聞いていた美芳が、我を取り戻した。
「な……っ! ど、どういうことなんですか!?」
焦りを滲ませ、威嚇的な表情を向けてくる美芳に、
「――紹介がまだだったな。いや、おまえも学園の生徒なんだから、知ってはいるか。浦戸学園高等部化学教師にして、〈聖霊の声〉の祓魔部隊〈白銀の十字剣〉団長――矢野・クリストフ・征拾朗さんさ」
「なっ……」
絶句する美芳。
「よろしく、守良さん。学園での君はとっても優秀な生徒なのに、こんなことになって残念だよ」
矢野がそう言って肩をすくめる。
そこに、
「――よっ、雹夜くん。呼ばれたみたいだから来てやったぞ」
ヴァンパイアの囲みの中から進み出てそう言ったのは、浦戸学園の用務員・橘だった。
空から舞い降りた矢野に対して、橘は礼拝堂の裏から歩いて(あるいは地を駆けて)この異人墓地へとやってきたらしい。
橘は、異人墓地の門への道を塞ぐ位置で美芳と対峙した。
普段通りの装いの矢野と異なり、橘は普段の用務員用の作業着とは打って変わった紅白の衣装――神社の巫女が身につける白衣と緋袴に身を包んでいた。
が、日焼けして背が高く、髪を明るく染めた、スポーツウーマン然とした印象の橘が着ると、どうにもちぐはぐな印象がぬぐえない。
「橘さん。来てくれたのはありがたいけど、相変わらず巫女装束が絶望的に似合いませんね」
「しゃーねえだろ。あたしゃ本職の巫女じゃないんだ。実家があんな神社でなけりゃ、一生縁がなかったはずの格好だよ」
橘は美芳にちらりと視線を向け、
「……その娘かい? ルチアんとこの倉庫を荒らしたのは」
「さあ、それはなんとも。橘さんが昨夜見たっていう人影ですが――」
「ふん。間違いない……とは言えないけど、その娘だったとしてもおかしくはないね」
橘は、今にも噛みついてきそうな美芳の視線を、上から見下ろすような目で受け止めた。
「たしか一年の守良……だったか? 大人しげなわりに、妙に色っぽいところがあるってんで、上級生の男子にはなかなか人気らしいな。なるほど、そっち系の力を持ったヴァンパイアだったんなら、納得だね」
「あなたは……用務員のなんとかいう女でしたね。人妻のくせに、学園の男子生徒をたらしこんでいるとか噂の」
「おっと、そいつはあくまでも噂だよ。あたしはこれでも貞淑な奥サマなんだ。物覚えが悪いようだから言っておくが、あたしは橘美波っていうのさ。学園の用務員は世を忍ぶ仮の姿――本職は、烙浪輪神社の退魔巫女だよ、吸血鬼のお嬢さん」
橘に続いて、雹夜たちを取り囲むヴァンパイアの何人かが進み出て、雹夜に向かって、あるいは美芳に対して名乗りを上げていく。
小柄な体躯ながら、山伏装束に包まれた引き締まった身体と眼光の鋭さで美芳を震え上がらせたのが、浦戸市を囲む、鋸歯状の峻険な山々のひとつ、霊峰・岩冠山を修行場とするヴァンパイアの山伏集団〈天狗の会〉会長・御堂龍厳。
夏だというのに三つ揃いのスーツをしっかりと着込んだ真面目そうな中年男は、浦戸市役所なんでも課鬼神係・小此木慎哉。浦戸市に棲むヴァンパイアの戸籍管理から素行調査までを幅広く手がける、ヴァンパイアたちの頼れる相談役である。
でっぷりと太った腹に袈裟をかけた色黒の老僧は、給結寺の住職・銅蛮。ペルシャで吸血鬼ハンターをやっていた祖先が、インド、中国を経由して浦戸に居着いて以来の家系で、曼荼羅を使った結界術の使い手である。
白衣を着た三〇代半ばくらいのゴージャスな美女は、浦戸総合病院の精神神経科長・畑村馨。この国における超自然的能力研究の第一人者でもある。
裁判官バッジをスーツの襟に留めた恰幅のよい中年男性は、浦戸地裁判事にして浦戸特殊裁判所長・槇村忠嗣。日本国政府から特命を受けてこの地へと赴任した特殊司法――ヴァンパイアを対象とした司法の専門家である。
よれたスーツに身を包む不思議なほど個性の感じられない青年は、鏑木景斗という浦戸署の若手刑事で、現在浦戸市で起きている吸血鬼事件を担当しているという。先刻、氷雨経由でルチアが疑われつつあるという情報を提供してくれたのもこの鏑木刑事だった。
他にも市内企業の重役や浦白線浦戸駅の駅長、さらには浦戸市駅前商店街の運営役員まで。
浦戸市に根付き、日々の暮らしを営む、種々のヴァンパイアが、代わる代わる王に直参の挨拶を述べていく。
美芳は、堪えきれずに問うた。
「……わたしを……嬲り殺しにしようというんですか?」
「嬲り殺し? んなことしねーよ。あんた、ヴァンパイアをなんだと思ってるんだ?」
「あなたが……ただの人間のあなたが、ヴァンパイアを語らないで下さい!」
思わず叫んでしまう。
「ははっ。これは一本取られたね、雹夜くん」
「先生は黙っててください」
雹夜は、はあ、と嘆息する。
「たしかに俺は人間だが……守良美芳。あんたとちがって、ヴァンパイアという存在を誤解したりはしてねーよ」
「何を――」
「ヴァンパイアだって、本質的には同じなのさ。楽しければ笑い、悲しければ泣く。不当に扱われれば怒るし、人から好意を向けられれば喜ぶ。会話が成立して、互いのことを思いやるだけの心もあるんなら、そこには種族の差なんてねーんだ」
「そんなのは詭弁ですっ! ヴァンパイアは人より優れた力を持つ、人類の優越種です!」
「なにが詭弁だ。じゃあ何か? 子どもや老人より体力のある若者は優越種か? 女より腕力のある男は優越種か? 障害者よりできることの多い健常者は、優越種なのかよ?」
「それは――っ」
「そんなくだらない力の差の前に、もっと気にしなくちゃならねーことがあるだろうよ! てめえは罪もない人間の生き血を啜った! 自らの快楽のために、相手への思いやりなんてかけらも持たず、人を殺したんだよッ! 目の前にいる血の通った人間を、劣等種だなんだと貶めて自分を正当化し、殺人という最大の禁忌を犯す罪悪感すら快楽に変えて、あんたは殺したんだ――人をッ!」
雹夜の放った鋭い糾弾の言葉に、美芳は思わずよろめいた。
まるで、その言葉に物理的な衝撃でもあったかのように。
だが、有門雹夜は人間である。
あるいは、人間にすぎない。
雹夜の放った言葉は、美芳の視線のように、相手を従わせる超常的な『暗示』の力など持っているはずもない。
それなのに、このフィクションの吸血鬼のような黒髪赤瞳の少年の言葉に、『優越種』であったはずの美芳は、よろめいたのだ。
「何をするのか――そう聞いたな。これから始まるのは、裁判だよ! おまえという吸血鬼を裁くためのな!」
「――っ!!」
雹夜の言葉の、内容よりは、その圧力に押されるようにして。
美芳は地を蹴り、逃げ出した。
「ちっ! 待て!」
咄嗟に飛び出した雹夜だが、美芳の足は異様に速く、手が届かない。
「――超自然的能力か!?」
雹夜は思い出した。
聞き込みの際、用務員の橘は、不審な人影は「空を横切った」と証言していた。
つまり、今回の吸血鬼事件の犯人とおぼしきヴァンパイアは、空を飛べるか、優れた跳躍力を持っている可能性が高かったのだ。
事実美芳は、両腕の力まで使って地を蹴ると、弾丸のような勢いで、門への道を塞ぐ巫女装束の女――橘美波へと躍りかかった。
が――
「へっ! 上等だッ!」
門への道を橘が塞いでいたのは偶然ではない。
〈召命〉からのわずかな時間で地を駆けてここまでやってきた橘は、当然身体能力に優れたヴァンパイアである。
その上、実家である烙浪輪神社で、退魔巫女として必要な体術を幼い頃から仕込まれてきてもいる。その身のこなしには他の追随を許さないものがあった。
飛びかかってきた美芳を取り押さえてやろうと、橘は手ぐすね引いて待ち構えた。
ところが、
「う、うぉっ!? ルチアっ!?」
いつのまにか雹夜の背後を離れ、橘の後ろに回り込んでいたルチアが、橘に思いきり体当たりをかけた。
思わぬ方向からの衝撃によろめいた橘の脇を、風切り音すら立てて美芳が通過する。
「まだ目が覚めてねえのかよっ!?」
毒づき、橘はルチアに当て身をくらわせる。
みぞおちに拳を受けたルチアが、がくりと首を垂れた。
「追ってくれッ!」
雹夜は叫び、美芳の後を追う。
が、美芳は一瞬のうちに異人墓地を駆け抜け、門へと向かう。
その速度は人間離れしていて、ただの人間にすぎない雹夜には追いつくべくもなかった。
ちょうど門の前にいたヴァンパイアが、美芳に金の天秤を投げつけられて、道を譲ってしまうのが見えた。
(まずい……っ!)
今の美芳は、いわば手負いの獣だ。
いったい何をしでかすかわからない。
逃亡のためには、超自然的能力が必要になる。だが、超自然的能力を使用するには生気が必要だ。そして、生気をもっとも効率よく、大量に確保できるのは、結局、吸血行為なのである。
したがって、美芳がこの街から逃亡するためにまず考えるだろうことは、目についた一般人を片っ端から平らげていく、ということだった。
雹夜の要請を受け、墓地に下りていたヴァンパイアが美芳を追って駆けだし、空にいたヴァンパイアは美芳の行く手に先回りしようと羽ばたく。
が、雹夜が門に達した頃には、美芳の背中は礼拝堂への古道のはるか先にあった。
美芳は礼拝堂の脇にできた真新しい駐車場に跳びだし、雹夜の視界から消えてしまう。
「ちっ――」
雹夜は門のそばに放り出されていた金の天秤を拾うと、駐車場目がけて再度駆け出す。
強力なヴァンパイアは、雹夜への挨拶のために墓地に集中していた。一度その囲みを突破されてしまえば、周辺にいるのは比較的力に乏しいヴァンパイアたちである。彼らではおそらく、本気になった美芳を止められない。
雹夜の心に焦りが生まれたその時――
けたたましいブレーキ音が聞こえた。
駐車場に跳びだした美芳が、あわてて礼拝堂の方に飛び退いてくる。
それを追うようにして現れたのは、横滑りするトラックの荷台だった。
テレビCMでおなじみの、三つ目の黒コウモリがプリントされたそのトラックは、ドリフト気味に古道に突っ込んでくると、横腹を礼拝堂に向けて停止、道を塞ぐ。
「くっ――」
美芳はしかたなくその場に立ち止まり、足に力を蓄えて、トラックの荷台を跳び越えようとする。
が――
「偉大なる大天使にして天軍の総帥たる聖ミカエルよ! 主の剣たる汝が力、我に疾く授け給えッ!」
トラックの荷台の上から、聖句とともに、黒いフードのハンターが跳びだした。
青白く輝く光の束――塗油によって授けられた神のものなる降魔の霊剣が、目を灼く光条を空に刻みつけながら、立ちすくむ吸血鬼へと襲いかかる。
「ぐあっ……!」
制服の上に黒いフードをかぶったハンター――〈黒ずきん〉鈴城かるらの放った突きが、美芳の右肩をかすめた。
よろめき、後じさる美芳に、
「滅せよッ、吸血鬼!」
かるらが振り上げた霊剣を叩きつけようと――
「滅せよッ、じゃないよ」
「あいたっ!」
ぶぅんっ、と耳障りな音を立てて、かるらの斬撃が美芳の耳のすぐそばを薙いでいく。
凍り付いて見上げる美芳の視界に、また新しい人物が登場している。
黒髪おかっぱ、全身を忍び装束じみた戦闘服で覆った人影が、肘まで隠す大型の鋼腕を振り抜いた姿勢で止まっていた。
奇異な格好をしてはいるが、美芳にも見覚えのある顔だった。浦戸学園の生徒会長で、名前はたしか――史曜氷雨。
「あたたた……ちょっと、氷雨ちゃんっ! 脇は酷いよ、脇は!」
「あなたが油断しきって大振りしてるものだから、そのどてっぱらを殴ってほしいんだと思ったよ。……それより」
ふざけた台詞を言いながらも無表情だった女忍者の表情が――変わった。
前と同じく無表情にはちがいないが、その無表情の温度が、すっと下がった、とでもいおうか。
自分に向けられているわけではないはずのその表情を見て、美芳は背筋が冷たくなるのを感じた。
「言ったよね? 吸血鬼に裁きを下すのは、王たるお兄ちゃんの専権事項だって。どうして、かるらさんはそんなに吸血鬼を殺したがるのかな? やっぱり、昔のことが忘れられてないのかな? だとしたら、かるらさんを生かしておくのは危険だということになるよね? じゃあ、ボクが独断でかるらさんを始末してしまっても――」
「ま、ままま、待ってよ、氷雨ちゃん! あたし、あたしが悪かったからっ! ほら、変な暗示で操られた恨みとかで、ちょっと痛い目見せてやりたいなー、なんて思っちゃって……!」
黒いフードの霊剣使いがあたふたと手を振るのを尻目に、美芳はひそかに身体を傾け、再び跳びだそうと――
びゅん!
「……どこに行くのかしら……?」
重心をわずかにずらした美芳の、顔の隣――礼拝堂の壁に青白い光条が突き刺さっていた。
「ずいぶんふざけたマネをしてくれたわよね……? あたしにアルトを殺させて……それで? どうするつもりだったんだっけ? あたしバカだからすぐ忘れちゃうのよね。詳しく説明してくれないかな……?」
そう言ってかるらが美芳に顔を近づけてくる。
その目は完全に笑っていない。
「ひ、ひぃ……っ」
美芳がひきつった悲鳴を漏らす。
「ひぃ……? ああ、礼拝堂に火でもかけるつもりだったのかしら。さすが吸血鬼はやることがちがうわね」
「ち、ちが……っ」
「血が? 血がほしいの。そうよね、吸血鬼だもんね。それで? 雹夜の? ルチアの? 血を? 吸うつもりだったのかしら。ねえ、どっちの血を吸うつもりだったの?」
美芳はぶんぶんと首を振り、
「ど、どっちも……」
「どっちも? どっちも吸うつもりだったの? ずいぶんとまあ、貪欲な吸血鬼ね。呆れるわ。やっぱり死刑でいいんじゃないかしら。氷雨ちゃんじゃないけど、あたしの独断で死刑にしようかしら。ねえ、どう思う?」
「ど、どどど……」
「あははっ。おかしな娘ね。ドドド、ですって。ドドドっと何が来るのかしら。吸血鬼? いくらあたしでも、それはちょっと怖いわね」
「や、やめて……ご、ごめんなさい……ごめんなさいぃっ!」
「あら。ごめんなさいとか、別にいいのよ? あたしが聞いてるのは……そうね、ここに吸血鬼のA子ちゃんがいたとして、おいたのすぎたこのA子ちゃんを、神の御心のままに地獄行きにした方がいいのか、そうじゃない方がいいのか――っていうことなんだけど?」
にっこりと微笑みながら凄みをきかせるかるらに、美芳は失神寸前といった様子で口をぱくぱくさせている。
「か、かるらさん……モウ、許してあげてください」
クロコウモリ通運のトラックの荷台から身軽に飛び降りてきた少女がそう言った。
ウェーブのかかった金髪、地中海の波をたたえた青みの強い碧眼、活発さと優しさの同居する整った顔貌。
昼間と同じ、スリムなジーンズと薄手のワンピースというラフな姿の異国の美少女は、むろん地中海の魔王の娘、アルトディーテ・ソラーレだった。
「まったく、あやうく殺されかけたってのに、アルトは甘いわねー。ほら、あんた。アルトの優しさに感謝なさいよ? あたし基準じゃ、あんたなんか即処刑よ、処刑……って、なんかもう話聞いてないわね。おーい?」
絶対的優位からはじめたはずの行動がまたたくまに覆され、混乱と恐怖の極みに達した美芳の意識は、恐ろしい敵たちを前にして、ぷつんと、途切れてしまっていた。
「……なぁんだ、案外脆い子だったのね」
つまらなそうに、かるらがつぶやいた。




