第1話「聖女を辞めたいのですが」
第1話「聖女を辞めたいのですが」
「お母様。私に縁談が来ているのですか?」
エレノア・ヴァレンティアがそう尋ねると、母は紅茶のカップを置いた。
「来ているわよ」
「初めて聞きました」
「初めて言ったもの」
「なぜです?」
「あなたが聖女だから」
なるほど。
分かるような、分からないような答えだった。
エレノアは二十歳。
ヴァレンティア伯爵家の長女として生まれ、十歳までは普通の伯爵令嬢として育った。
生活が変わったのは十一歳のときだ。
極めて強い聖力があることが分かり、王国唯一の聖女に選ばれた。
伯爵家を離れて神殿へ入り、それから九年。
病人を癒やし、汚染された土地を浄化し、各地を巡って祝福を与えてきた。
今日も三週間ぶりの休日だった。
久しぶりに実家へ帰り、母と二人でお茶を飲んでいたところ、なぜか結婚の話になった。
「正確には、正式な縁談になる前の打診ね。今のところ全部お断りしているわ」
「全部?」
「あなた、昨年は地方巡回だけで何日王都を離れていたか覚えている?」
「いいえ」
「百三十二日」
「よく覚えていますね」
「数えたもの」
「なぜ?」
「娘が一年の三分の一以上どこかへ行っているのよ。数えたくもなるわ」
そういうものらしい。
「それ以外にも神殿での儀式、治癒、祝福。休日だって自由に出歩けるわけではないでしょう?」
「外出は禁止されていませんよ」
「三日前までに申請すれば、でしょう?」
「はい」
「それを世間では自由とは呼ばないの」
言われてみれば、そうかもしれない。
「だから今のあなたに縁談を持ってきても、まともな結婚生活にはならないでしょう? こちらで止めていたの」
「そうだったのですね」
エレノアは素直に納得した。
結婚。
考えたこともなかった。
神殿にいると、そもそも話題にならない。
「でも」
母がエレノアを見た。
「あなた自身は、どうしたいの?」
「……何がです?」
「結婚したい?」
答えられなかった。
「したくない?」
それも分からない。
「では、聖女をずっと続けたい?」
今度こそ答えようとした。
やはり答えられなかった。
聖女の仕事が嫌いなわけではない。
むしろ好きだった。
病人が元気になれば嬉しい。
浄化した土地が翌年豊作だったと手紙が届けば嬉しい。
地方を巡れば、子供たちが手を振ってくれる。
自分の力が誰かの役に立つことを、誇りにも思っている。
でも。
ずっと?
その言葉だけが引っかかった。
「……分かりません」
「そうでしょうね」
母は責めなかった。
「十一歳からずっと、今日やるべきことを誰かが決めてくれていたものね」
その言葉が、妙に残った。
「もし明日から聖女じゃなくなったら、何がしたい?」
「何が……」
「何でもいいのよ」
エレノアは考えた。
旅行。
勉強。
恋愛。
趣味。
きっと、もっと立派な答えがあるのだろう。
でも、最初に思い浮かんだのは。
「……朝、もう少し寝てみたいです」
「え?」
「一度くらい、起きる時間を決めずに寝てみたいです」
母が黙った。
「変ですか?」
「いいえ」
母は笑った。
「他には?」
「予定を決めずに街へ行ってみたいです。それから……」
少し考える。
「お昼に何を食べるか、お昼になってから決めてみたいです」
母がまた黙った。
「お母様?」
「何でもないわ」
なぜか少しだけ目元を押さえている。
「そんなことでいいの?」
「あなたがしたいなら、いいのよ」
エレノアには、まだよく分からなかった。
けれど神殿へ戻ってからも、考えてしまった。
朝、好きな時間に起きる。
予定を決めずに街へ出る。
昼になってから、食べたいものを決める。
そんな生活を、一度くらいしてみたい。
三日後。
エレノアは大神官の執務室を訪ねた。
「ご相談があります」
「珍しいですね。何でしょう?」
エレノアは一度息を吸った。
「私、聖女を辞めることはできますか?」
大神官の動きが止まった。
「もちろん、今すぐとは申しません。後任の方への引き継ぎも必要でしょうし、すでに決まっている地方巡回もあります。半年後でも、一年後でも――」
「エレノア様」
「はい」
「国王陛下に連絡します」
「……そこまで大事ですか?」
「王国唯一の聖女が退任を希望しているのですよ」
「あ」
「ご自覚が足りませんね」
「申し訳ありません」
「謝るところでもありません」
大神官は苦笑した。
「ただ、私一人で『いいですよ』と言える話ではありません。正式に協議しましょう」
「はい」
「その前に一つだけ。何か嫌なことがありましたか?」
「いいえ」
それだけはすぐ答えられた。
「神殿に不満があるわけでも、仕事が嫌になったわけでもありません。ただ……」
母との会話を思い出す。
「聖女ではない私が何をしたいのか、一度考えてみたくなりました」
大神官はしばらくエレノアを見ていた。
やがて、穏やかに頷いた。
「分かりました」
◇
一週間後。
王宮の小会議室。
正面には国王。
隣には大神官。
そしてもう一人。
「なぜアルフォンス殿下が?」
「私がいてはおかしいか?」
「いえ。ただ、聖女の退任についての協議と伺っていましたので」
「新聖石運用計画の王家側責任者は私だ」
「あ」
「忘れていた?」
「少し」
「少しか」
アルフォンスが苦笑した。
二十一歳になった今も、昔とあまり話し方は変わっていない。
父に連れられて王宮へ出入りしていたころ、何度か一緒に遊んだことがある。
一つ年上の、昔からの顔見知りだ。
十一歳で神殿へ入ってからも、王宮で会えば普通に話す。
その程度の関係だった。
最近では増幅聖石の研究で顔を合わせることの方が多い。
「では始めよう」
国王が言った。
「エレノア。聖女の退任を希望していると聞いた」
「はい」
「理由を聞いても?」
エレノアは大神官に話したことを、もう一度説明した。
「私は十一歳から、聖女として生きてきました。これから先もずっとそうなのだろうと思っていました。でも、もし許されるのであれば」
顔を上げる。
「聖女ではない自分として、生きてみたいのです」
国王は大神官を見た。
次にアルフォンスを見る。
二人とも頷いた。
「分かった」
国王が言った。
「退任を認めよう」
「…………はい?」
あまりに早かった。
「よろしいのですか?」
「ああ」
「もっと、その……」
「揉めると思ったか?」
「少し」
「昔なら揉めただろうな」
大神官が机の上に白い石を置いた。
増幅聖石。
エレノアも何年も研究に協力してきた、新しい聖具だ。
「第三世代型の最終試験が終わりました」
大神官が言う。
「複数の神官と増幅聖石を組み合わせれば、浄化、治癒、祝福。いずれも聖女に頼らず運用できます」
エレノアは白い石を見た。
知っていた。
地方巡回を減らせる。
神官だけで対応できる地域を増やせる。
そのための研究だった。
でも。
その先までは考えていなかった。
「では、次の聖女は?」
「選びません」
「……え?」
「聖女制度そのものを廃止します」
エレノアは言葉を失った。
「聖女が必要だから選んできたのです」
大神官が静かに続ける。
「必要がなくなったのなら、幼い少女を家族から離して神殿へ入れる理由もありません」
十一歳。
母の手を離れ、神殿へ入った日のことを覚えている。
嫌だったわけではない。
神官たちは優しかった。
大切にもされた。
だから、これが自分の人生なのだと思っていた。
でも。
次の十一歳には、それがない。
「……私が最後なんですね」
「はい」
大神官が頷いた。
「あなたが最後の聖女です」
胸の奥で、何かがほどけた。
自分が辞められることより、その言葉の方が嬉しかった。
次の誰かはいない。
もう一人の少女が、自分と同じ九年間を過ごす必要はない。
「……よかった」
声が震えた。
視界が滲んで、慌てて目元を押さえる。
「申し訳ありません」
国王は何も言わなかった。
大神官も。
アルフォンスも。
ただ、エレノアが落ち着くまで待ってくれた。
「本当に」
エレノアは笑った。
「よかったです」
「ただし」
国王が言った。
「完全退役はまだ困る」
「……やはり、そうですよね」
少し安心してしまった自分がおかしくて、エレノアはまた笑った。
「新制度は動き始めたばかりだ」
アルフォンスが説明する。
「一年間だけ、非常時の備えとして残ってほしい」
国王が一枚の書類を差し出した。
「聖女としては退任。そのうえで一年間、王家直属の聖術顧問として契約する。通常勤務、地方巡回、定期儀式はすべてなし。新制度で対応できない事態が起きた場合だけ出てもらう」
簡潔だった。
そして合理的でもある。
「承知しました。お引き受けします」
「助かる」
「連絡窓口は私が担当する」
アルフォンスが言った。
「新聖石運用計画の責任者だからな」
「承知しました。一年間よろしくお願いいたします」
「……ああ。よろしく」
なぜか返事までに一拍あった。
国王が小さく咳払いをした。
大神官は手元の書類へ視線を落とした。
エレノアには理由が分からなかった。
「それから、退任後の住居だが」
国王が続けた。
「実家へ戻る予定か?」
「そのつもりでしたが……できれば、一人で暮らしてみたいと思っています」
「それは認められない」
エレノアの顔が曇った。
「警備上の理由だ。聖女を退任しても、君が国内最高峰の聖術師であることは変わらない。まして一年間は国家の非常時対応要員だ。王都の借家に一人で住まわせるわけにはいかん」
「……それは、確かに」
「代わりに王宮東側の小邸を使うといい」
「小邸を?」
「王家の所有だが、敷地は独立している。生活には干渉しない。最低限の使用人と護衛だけ置く」
それなら、一人で暮らすのと大きくは変わらない。
「よろしいのですか?」
「こちらとしても、その方が都合がいい」
国王はそこで、何気なく付け加えた。
「アルフォンスの執務棟にも近い」
「なるほど。非常時の連絡にも便利ですね」
「そうだな」
国王は満足そうに頷いた。
なぜかアルフォンスは目を閉じていた。
エレノアは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
王家直属の非常時要員。
その住居が王宮の近く。
連絡窓口を務める第二王子の執務棟にも近い。
何一つ不自然なところはない。
極めて合理的な人事だった。
三週間後。
王国唯一の聖女エレノア・ヴァレンティアは、九年間務めた聖女を正式に退任した。
同時に、王家直属聖術顧問となった。
任期一年。
通常勤務なし。
非常時のみ出動。
住居は王宮東側の小邸。
連絡窓口は第二王子アルフォンス。
そしてエレノアには、生まれて初めて自分で使い道を決められる一日ができた。
最初に何をするかは、まだ決めていない。
決めていないことが、少し嬉しかった。
エレノアは、新しい暮らしも、新しい人事も、すべて極めて合理的だと思っている。
だから彼女はまだ知らない。
この人事案が提出から一日とかからず、必要なすべての承認を終えていたことを。




