エピローグ 亡き王女のためのパヴァーヌ
戻ってから、数日が経っていた。
研究棟の夕暮れは、ひどく静かだった。
誠が廊下を歩いていると、
微かに、ギターの音が聞こえた。
足を止める。
音は、由理の部屋のほうから流れてきていた。
扉は、わずかに開いている。
誠はすぐには近づかず、
その場でしばらく立っていた。
それから、そっと扉の前まで近づく。
部屋の中では、
夕陽に染まる窓のそばで、
由理が椅子に座り、ギターを抱えていた。
弾いていると言うより、
音の高さや響きを確かめているような
慎重な動きだった。
由理は顔を上げ、
誠に気づくと、小さく頷いた。
誠も、それに応えるように頷いた。
「……約束だから」
由理は、わずかに目を伏せ、
それから、ギターに視線を戻した。
一度、深く息を吸う。
「……亡き王女のためのパヴァーヌ」
それだけを告げ、
指が弦に落ちる。
音が鳴る。
抑えた旋律が、部屋の中に静かに満ちていく。
誠は壁際の椅子に腰を下ろし、
目を閉じた。
深海の闇。
押される感覚。
きしむ音。
逃げ場のない、圧。
それらが、
音の中で輪郭を失ない、
ゆっくりとほどけていく。
やわらかく、
静かに。
曲は続く。
ふと――
誠は、目を薄く開けた。
視界の端で、
ギターの弦が震えている。
その震えが、
ほんの一瞬だけ、
“光の線”のように見えた。
構造として。
均衡として。
触れられる何かとして。
誠は、瞬きをする。
次の瞬間には、
ただの弦に戻っていた。
軽く息を吐く。
(……まだ、残ってるのか)
小さく笑った。
曲は、静かに終わる。
最後の音が、
空気の中に溶けていく。
由理は指を弦から離し、
そっとギターを抱え直す。
視線を上げる。
「……どうでした?」
少しだけ、不安を含んだ声。
誠は、ゆっくり頷いた。
「うん。……ちゃんと、届いたよ」
由理の目が、柔らかくほどける。
小さく息を吐く。
「……よかった」
その一言で、
部屋の空気が、完全に日常へ戻った。
由理は立ち上がる。
ギターを壁に立てかける。
「紅茶、入れてきますね」
誠は小さく頷いた。
由理が部屋を出る。
扉が、静かに閉まる。
一人になった部屋で、
誠は天井を見上げた。
音の余韻が、まだ残っている。
深海の闇は、もうない。
だが――
見方を変えれば、
世界はまだ、あの“構造”のままだった。
誠は目を閉じる。
今度は、何も見ようとはしなかった。
ただ、そのまま。
静かな時間の中に、身を預けた。
誠と由理の物語は一旦幕を閉じました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今は思いつきませんが、将来物語の続きが描けたらいいなと思っています。
本当にありがとうございました。




