第15話 10センチの輪を切り取る ー 検証は進む
朝のラボは、機械の呼吸だけがかすかに生きていた。
ランプがゆっくり点き、消え、また灯る。その一定のリズムが、
空間全体を“実験のための時間”へと切り替えていく。
扉が開き、山本教授が顔を覗かせた。
手帳を胸に抱えたまま、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「おはよう。――すまん、今日は午前も午後も会議づめでね。
運用はすべて高木君に任せる。僕は遠隔でログを追う。
何かあればすぐ知らせてくれ」
「了解しました、教授」
高木由理は短く返す。その声に迷いはない。
(……今日は、完全に“二人だけ”でやるってことか)
教授は短いメモをデスクに置き、足早に去った。
扉が閉まると、ラボの静けさは一段と濃くなる。
高木は端末を立ち上げながら、今日の要点を簡潔に告げた。
「今日から“正式カウント”を始めます。
最初は“1回目”から。
午前のテーマはひとつ――
距離は10cmで固定。方向は私が指定します。
狙った“点”にどれだけ正確に出せるか。
ズレだけを記録します」
その声は淡々としているが、
言葉の裏に“観測者としての集中”が宿っていた。
◆
実験台の中央から右へ10cmの位置に、小さな黒丸。
そこが狙い点だ。
「条件:10g、距離10cm、方向“右”。――1回目、お願いします」
南雲は深く息を吸い、黒丸を見つめる。
内側の何かを小さく整え、指先に意識を集める。
(……行け)
――コトリ。
金属片が“黒丸の近く”に現れた。
「1回目、ズレ1mm」
高木の声は正確で、揺れがない。
記録する指先も、わずかも迷わない。
テンポを崩さず、試行を重ねていく。
「2回目:2mm」
「3回目:0mm(命中)」
「4回目:1mm」……
十回目で、小さなまとめ。
「現時点――最大ズレ2mm。平均1mm台。
狙いへ“ほぼ重なる”精度です」
(10cm以内なら、狙った点に“置ける”……数字でも裏づいた)
方向を左へ切り替える。
「11回目:2mm」
「12回目:1mm」
「13回目:1mm」
「14回目:0mm」
モニターに浮かぶ命中の点群が、右と左で均等な円を描き始めた。
“10cmの輪”が、南雲の能力の実体をはっきりと形にする。
午後に向け、同じ動作を積み上げていく。
「28回目:1mm」
「29回目:0mm」
「30回目:1mm」
数字が積み上がるごとに、
内側の感覚も“整っていく”のを南雲は感じていた。
◆
昼食。
食堂の静けさは、研究棟の空気をそのまま引き継いでいる。
高木はトレイを置き、温かいスープに軽く口をつけた。
「午後は“方向の確認”に切り替えます。
……体調は問題なさそうですね」
「大丈夫です。続けられます」
高木は小さく頷き、端末の画面を伏せた。
「開始は十三時。機材は先に立ち上げます」
それ以上、言葉を広げようとはしない。
必要なことだけが置かれ、
それ以外は静かに保留される――それが彼女の仕事のリズムだった。
(余計な気遣いがない方が……確かにやりやすい)
◆
午後。
ラボのテープには、小さな印が増えていた。
「午後は“方向のコントロール”のみを確認します。
距離は10cmのまま。
――再開は“31回目”から」
右上。
「31回目:1mm」
「32回目:2mm」
「33回目:0mm」
下。
「37回目:1mm」
「38回目:0mm」
「39回目:1mm」
高木は端末をひらきながら、静かにまとめた。
「方向を増やしても精度は落ちていません。
ズレは最大2mm以内。
“円周上どの方向でも狙って出せる”と判断して良さそうです」
(10cmの輪。
その縁なら、どこでも“置ける”……)
再度、順番を変えてテンポを上げる。
「40:右上 1mm」
「41:下 2mm」
「42:左上 1mm」
「43:右 0mm」
「44:左 1mm」
「45:上 1mm」
46回目、47回目で午後のまとめは終わった。
高木は端末を閉じ、ゆっくりと息を整えた。
「今日の“正式カウントは47回”まで。
明日は“48回目”から入ります。
……次は“距離の確認”に移ります」
“10cmの壁”に、指先で軽く触れるような口調だった。
南雲は肩を軽く回し、呼吸を整えた。
高木はラボの灯りを一つずつ落としていく。
数字の“47”が、妙に胸に残った。
(次は……48回目)
ただの数字のはずなのに、
なぜか、その先に何かが待っている予感があった。
廊下に出ると、夕方の冷気が静かに頬を撫でた。
高木は小さく「お疲れさまでした」とだけ告げる。
その一言が、今日一日の緊張をやわらかく溶かしていった。
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