5 お姫様
5 お姫様
数日前
とある和食ダイニング 葉月
個室に40代前後の男性と女性、そしてもう1人の男性がいる。
派手な格好をした女性は1人の男性の横にピッタリと体をつけてメニューを覗いている。
「はるかさん、日本酒はどこのお酒が好き?」
「え〜」
楽しそうにメニューを覗く女性。メニューから顔を上げて部屋を見回す。
「ほんっと秀の選ぶお店っていつもいいお店ね。さすがって感じ」
「ここはね、お店の名前で選んだんだ」
「なんで?」
「葉月って、ほら、遥さんの名前とおんなじで月が入ってるなって」
「え〜、やだ〜」
嬉しそうにカラカラと笑いながら、赤いマニキュアを塗った手でぺしぺしと男性の肩のあたりを叩いている。濃い香水の香りがこっちまで漂ってきそうだ。
すると男性の胸ポケットで携帯が震える。
「あ、ごめん。電話だ」
胸ポケットからスマホを出しながら、立ち上がって個室の外へ出る男性。画面を見て、ちっと小さく舌打ちをした。
「はい」
「中川です。今、どこにいますか?」
「なんで?」
「マネージャーに合流するようにって言われたんで」
「別に来ないでいい。俺1人いればいい。ていうか、むしろ、邪魔?」
「いや、でも行くようにって言われたんで」
「来ないでいい」
「僕にとってはマネージャーの命令は絶対なんで」
「来るな」
「え?とにかく場所教えてくださいよ」
「お前さ、前から思ってたけど、俺とジジイとどっちが大切なんだ?」
「は?何そんなうざいこと聞いてんすか」
「俺、社長でジジイより上なんだけど」
「ああ、もういいから早く場所教えてくださいよ」
「どっちが大切なんだよ」
「もう、しつこいな」
スッと息を吸い込むと中川崇が言う。
「そんなんマネージャーに決まってるじゃないですか、今更そんなん聞いてどうすんですか」
それを聞いた途端にブチっと電話を切った神谷秀。
これはまずい。是が非でもあいつ来る気だ。阻止しなくては。
今回のディナーショーの話が出てから、憧れの水無月遥と何度か顔を合わせ食事をしたりする機会があった。それに乗じてちょっとずつ仲良くなった。今夜とっても雰囲気がいいのである。もしかしたらもしかするかもしれない。でも、それも、ここにあの風紀委員長が来てしまっては消し飛んでしまう。
大丈夫だ。これから電話が来ても出なければ。
「すみません。中座してしまって」
「もう大丈夫なの?」
「ええ、すみました」
そして、もう一度するりと横の席に座った。それから次から次へと食事が並べられ、冷酒を飲みながら食事をする。酔っ払ってきた遥はなんだかさらに艶っぽくなるのである。そして時々それとなく神谷の体に触れる。
これはやっぱりどうかするとどうかするかもな。
表情はビジネスモードのままでうきうきする神谷。
「あ、すみません」
神谷と遥の前にちょこんと座っていた髪のうすい中年男性。水無月遥のマネージャーである。今度はこちらが電話を持って中座する。すると、ここぞとばかりに遥が神谷にくっついてきて耳元で囁く。
「ね、今夜、この後、暇?」
「え、なんでですか?」
そういって自分の肩に載っている顔を見つめる。すぐ近くでかわいい笑顔を見せる遥。
「ああ、すみません。すみません」
ざっと障子があいてマネージャーが戻ってくる。さっきからベタベタしていたが、流石にとでも思ったのか遥がそっとくっつけていた体を外す。遥の香水の香りも神谷から遠のいた。
「中川さんでした」
「へ?」
「前の仕事が終わったから合流しますって、今、下まで来てるそうですよ」
「あ、そうそう。そんなこと言ってたかも」
はははははと笑う間に、無茶苦茶な速度で脳が回転する。どっから割り出しやがった、あいつ。そして、思いつく。野田くんだ。野田くんにこの店の予約頼んだ。づかちゃんはいっつも崇にべったりで仕事してるし、わざわざ警戒して野田くんにしたのに、こっちまで手を回しやがったな。くそ。
いや、でも、まだ、勝負は終わってない。まだだ。
「どうも遅くなりまして」
引き戸を開けると正座してきっちりと頭を下げる。遥さんが酔った目でキョトンと崇を眺めた。
「いやいやわざわざすみません。さ、どうぞ」
マネージャーさんが隣の席を薦める。
「こんばんはー」
酔った女が機嫌よく手をひらひらと振る。
「こんばんは遅くなってしまいまして」
「そんな挨拶、ぬきぬき。謝るのなら、さ、遅れてきた分飲んで飲んで」
そう言うと、マネージャーに向かって言った。
「ね、グラス。グラスない」
「あ、はい」
マネージャーがお店の人にいって新しいグラスが来た。
「さ、飲んで飲んで」
「いただきます」
グラスに入れられた日本酒を正座したままで一気に飲み干した。
「あらやだ。いい飲みっぷりじゃん。お兄さん」
「中川です」
「下の名前は?」
「崇です」
「ふうん」
酔っ払ってとろんとした目で崇くんを眺める遥。その横でつまらなさそうな顔をしている神谷。
「さ、もっと飲んで」
「いただきます」
「足、崩しなよ」
「では失礼して」
人数が増えたことでさらに賑やかになった酒席。主に遥を中心に会話が進む。しばらくすると、神谷が席を立った。そのままなかなか戻ってこない。
「遅いですねぇ。神谷さん」
マネージャーがそう言うのと同じタイミングで、中川が、あ、と言ってスマホを取り出す。
「ちょっとすみません」
そして、そっと席をたつ。しばらくして戻ってきた。
「遥さん、申し訳ありません」
「なあに?」
「ちょっと系列店の一つでお客さまとお客さまの間でトラブルがあったみたいで」
「え?」
「警察が来てるようなのです」
「うそ」
「大丈夫ですか?」
中川くん、柔らかく笑いました。
「いえね。飲食をやってるとたまにこういうこともあるんです。うちとしては落ち度がないので特に問題にはならないと思います。ただ」
「ただ?」
「神谷が総責任者ということで呼び出されてしまいました」
「ええ?秀、戻ってこないの?」
「申し訳ありません。本日の埋め合わせはまた別の日に本人にさせますので」
「え〜」
機嫌の悪くなる水無月遥。
「その代わりと言ってはなんですが、わたしがお相手しますので」
「朝まで?」
「……」
綺麗な笑顔で凍りつく中川。そっと中川と遥の様子を伺うマネージャー。
「じゃ、遥。中川さんもせっかくこう言ってくださってるし、カラオケでも行くか?」
「そうねぇ」
「じゃ、お会計を」
「あ、ここはうちがもう払ってますから」
「え、そうなの?」
「もちろんです」
遥の機嫌が悪かったのが少し取り戻してきた。
中川崇
「ね、あんたももっと歌いなさいよ」
「僕なんかより遥さんの方がうまいですから」
「なん言ってんのよ。盛り上がらないんだって。ね、いいから、わたしが入れるの歌いなさい」
「そんな、歌えないの入れないでくださいよ」
そう言ってこっちが困った顔するとキャハハハとマイク握ったままで遥は笑い出した。
「やっと人間らしくなってきたじゃない」
「え?」
「あんた、ロボットみたいにすまして、飲ましてもなかなか酔わないし。今みたいな顔してた方がかわいいよ」
「……」
「ね、崇って何歳?」
「27歳」
キャハハハとまたマイク握ったままでお姫様が笑った。不思議だった。食事をしていた時、あの灯りの中にいた遥とカラオケの暗い部屋の中でマイクを持っている遥は違う。こっちの方が幼い。そして、まるで子供みたいにイキイキとしている。
「なんだ。冗談も言えるんじゃない」
「27歳には見えませんか?」
「見えない。見えない。男のくせにサバ読むな」
すると、カラオケのテーブルの上にポンと置いていた遥のスマホがチカチカと光った。
「あ、誰だろー」
パッとスマホを取り上げる。
「あれ、秀」
なんですと?
「あれ、なんか仕事終わったみたいよ。秀」
「なんて言ってるんですか?」
「ええ?いや、別にい」
にやにやとしている。思わずしかめ面になったところを向こうのマネージャーの男と目が合ってしまった。慌てて顔を作り直す。それから遥は目に見えてそわそわとしていた。適当に入れた歌を俺やマネージャーに歌わせては、携帯ばかり気にしている。
まずいなと思う。もし、帰ると言い出したらどうしようと思っていると、スマホを見ていた遥がなんだというようながっかりとした表情をして、そして、スマホをぽいっとテーブルの上に戻した。それからソファにドスンと背中を預けると、マネージャーが歌っている歌のカラオケの画面をしんとした顔で見ている。
さっきまでの魔法が消えてしまった。お姫様は年相応の大人の女の顔に戻った。
「遥さん」
そっと呼びかけると、こっち向いて寂しそうに笑った。
「ふられちゃった」
「……」
「奥さんとこ帰るってさ」
それからそっと俯いた。
「ね、あんたは?」
「え」
「あんた、暇?これから」
色々な言い訳を考えてました。こう言おう、ああ言おう。でも、その寂しそうな顔を見たときに、言えなくなってしまった。
セックスなんて、大したものじゃないと思うんです。減るものではない。
こんな寂しそうな顔をしている人がいたら、かりそめの優しさで抱いてあげたっていいような気になってしまいました。一瞬。
遥さんのマネージャーが似合わない曲を顔を真っ赤にして怒鳴るように歌ってる。それを目の端に見ながら、悲しい気持ちになった。
「僕なんかじゃお相手してもつまらない思いするだけですよ」
するとはぁーっと体の奥から吐き出すようなため息を出した。
「そんな言い方しないで」
「……」
「はっきりおばさんになんか用はないって言えばいいのよ」
セックスに意味なんてたいしてないのだと思う。自分はあの、制御できなくなるようなあの前の盛り上がりと、それが済んで済んだ途端にまるでジェットコースターの天辺から不意に放り出されるような虚しさがどうしようもないほどに嫌いなんです。それまではいい。だけど後が良くない。後が良くないよ。セックスは後味が悪い。
どうしてこんなことに今日も一生懸命になってしまったんだろうと、すぐに後悔し始めるのだから。あの天辺を過ぎた途端にね。だから、意味のないセックスなんか絶対しないといくつも言い訳を考えてきたのに、結局自分はお人好しなんだろうか。寂しそうな顔をした女の人に自分は弱い。
「そんなことないよ」
「……」
「そんなことない」
そのとき自分は、彼女の膝の上で軽く握られたその小さな白い手を取りそうになってました。
「中川さん」
不意に横から声がして、マネージャーさんが怖いとも言えるような顔でこっちを見ていて、そして、僕に向かってマイクを突き出していた。
「これ、歌ってください」
「え……」
メガネをかけて背が少し低くて、髪が薄くてお腹が少し出た人。その人からマイクを受け取りながら唸る。
「これ、結構難しい」
「頑張って」
ぽんぽんと肩を叩かれた。数年前に大ヒットしたラブソングでした。柄じゃないなと思いながら仕方なく歌っている。マネージャーは遥さんの横に座った。すると、そのうち、遥さんが号泣し出した。驚いてちょっと止まると、マネージャーさんがこっちを見て目で懇願したので、気を取り直してもう一度頑張って歌う。歌い終わっても、遥さんは両手で顔を覆って泣いていた。
「幸せになろうねって」
「うん」
「幸せになろうねって言ったのに」
「うん」
そして、そのうち疲れてしまったのか、そのまま横に寝っ転がって寝てしまった。マネージャーさんが自分のジャケットを遥さんにそっとかけていた。
「北川が、あの、この前離婚した旦那」
「はい」
「あいつが2人が一番盛り上がってた時期に遥にねだられてよくこの曲を歌ってたんですよ」
「そうだったんですか」
そんな曲、わざわざ選ぶ必要ないんじゃと思ったけど黙ってました。
「中川さん」
「はい」
「こんなこというの、恐縮なんですが」
「はい」
「遥から何か言われても、何もしないと約束してください」
「……」
「そんな気は中川さんの方には全くないってわかってます。だけど……」
「いや、大丈夫です。お約束します」
「遥は、今、神谷さんのことも気に入ってるみたいで、神谷さんにもこのこと、お願いしていただけませんか?頼みます」
そう言ってマネージャーさんは深く深く頭を下げた。
「わかりました」
「すみません。すみません。変なこと頼んで」
そう言って頭を上げて、目をしょぼしょぼとさせた。
「遥に必要なのは、ずっとそばにいてくれる人なんです。すごく寂しがりやな人なんで。でも、いっつも変な男を選んでは泣かされてきてるんですよ」
「はい」
「その場かぎりのようなことをするとね、必ずその後でひどい反動が来て、もっと寂しがるというか落ち込むというか、不安定になるんです」
「はい」
「だから、そっとしておいてほしいんです。皆さんの方からではないとは重々承知しているんですが」
「はい」
「すみません。すみません」
「そんな、謝らないでください。謝られるようなこと別にお願いされていませんし」
そう言うと、マネージャーさんははぁっとため息をついた。
それからそっと自分のジャケットの下で目を閉じて子供のような顔で寝ている女を眺めた。
「この人のことを大切にしてあげたいって人は、所謂そういう意味だけでなくて、いっぱいいるんですよ。長く続いたファンの人たちだってね。幸せになってもらいたいって応援しているのに。遥はいつも、自分を大切にしてくれる男は選ばない……」
そう言ってから、不意に眼鏡を外して、そのレンズをポケットから取り出したハンカチでぐいぐいと拭いている。まるで何かに怒っているようなその横顔を見ながら、この人もまた選ばれたい人の1人なんじゃないかと邪推してしまいました。
そして、マネージャーさんに共感した。
そう、女はいつも自分を大切にしてくれる男を選ばない。選ばれなかった男がその横でどんな気分で顔色でいるかを眺めて、そして楽しむようなところがあるものだ。
マネージャーさんはすちゃっとまた眼鏡をかけると、いつもの腰の低い彼に戻った。
「すみません。もう、遅くなりましたね。後はこちらで……」
「ああ、はい」
お辞儀をしあって帰ろうと思った矢先だった。
「ダメー」
「「え……」」
2人でそっちを見る。むっくりと遥が体を起こす。
「あれ、遥、起きてたの?」
「ちょっと寝たらスッキリした」
それからくいとその細い手首を返して腕時計を覗く。
「全然、まだ早いじゃん。君たち大人でしょ?」
「いや、むしろ大人だから帰りたい」
若くないです。もう。仕事もあるし。
「何言ってんのよ、27歳!」
ちーん
「店替えて飲み直すよ。ほら、あんたも」
自分にかけてあった上着をマネージャーに向かって差し出す。その時、突きつけるようにでも、投げ返すようでもなくて、それはそっと手渡された。本当はきっと、遥さんもわかってるのではないかとその仕草に思ったんです。本当に自分を大切にしてくれる人たちというのが誰で、そして、その人たちに感謝してもいるのだと思う。
だけど……
立ち上がって、元気にヒールの踵を鳴らしながらカラオケの部屋を後にする背中を見ながら、ため息つきつつ自分の荷物と社長の荷物を抱えながら思う。
だけど、満たされない。
どんなに大切に思われたとしても、その手には満たされない。
決定的に何かが足りないのだと思う。