14 さっさと振られてしまえ②
14 さっさと振られてしまえ②
中川崇
「崇、お前さ」
「なに?」
「彼女、できたよな」
週末、朝食のコーンフレークに牛乳をかけていると、いつもは昼まで寝ている兄貴が珍しく起きてきて寝癖のついた頭のままで俺に話しかける。
「なんで?」
「何回か見かけたぞ」
「え、いつ?」
「最近」
「……」
「あのさ、兄ちゃん、いくら兄弟でもそういう場面に出くわすのはちょっとだから、家にあげんのはいいけど気をつけろよ」
なんだか先回りしていらぬ心配をしている。
「いや、違う」
「違うって何が?」
「彼女じゃない」
「ええ?」
兄はその後まじまじと俺の顔を見て、そして、同情した。
「お前は好きなんだろ?」
「……」
「なんで二人で一緒にいるのに、彼女じゃないの?」
「彼女には他に好きな人がいるんだよ」
「彼氏か」
「いや」
兄は黙って頭を整理している。僕はスプーンでコーンフレークを掬った。すでにふにゃふにゃになってしまっていた。
「向こうはお前が彼女を好きだと知っているのか?」
「いいや」
「言ってないの?」
びっくりされた。
「お前、言わないでも伝わるだろとか思ってるんじゃないだろうな」
「そんなこと思ってないけど」
「さっさと言ってしまえ」
僕はしかめ面になった。
「別にいいんだよ。今のままで」
「今のままって?」
「この友達のような感じでさ」
「ばか」
兄に何年かぶりに思い切りバカと言われた。
「さっさと言ってしまえ。そして、さっさと振られてしまえ」
「なんで?」
「その時は辛いかもしれないけど、あとあとそっちの方が楽だ。拗らせると辛い思いするぞ」
「……それ、経験談?」
「友達のな」
本当だろうか。怪しいところだ。
でも、愚かな僕は兄の忠告に従わず、ノロノロと変わらぬ日々を過ごしていた。
そして、ある日、奏から興奮して電話がかかってきた。
「はい」
「ね、崇くん、聞いて」
「何を?」
「わたし、告白されちゃった。付き合ってくださいだって」
その時、兄に言われた忠告を自分は思い出した。
さっさと言ってしまえ。そして、さっさと振られてしまえ。
「誰に?」
「時任くん」
「えっ、時任?」
「うん。びっくりした」
僕はその時、彼女の興奮した声を聞きながら呆然とするしかなかった。
その一つの出来事が、奏をとても遠い人にしてしまった。たった一日で彼女は僕の手の届かない人になってしまった。
時任は、うちの学年でおそらく一番有名と言ってもいい男だった。成績がとか運動がとかいうのもあったけど、彼は金持ちだったんです。親が大手とまではいかないまでも、小さくはない会社を経営している経営者一家の子供だった。
「なんでわたし?びっくりした」
「返事したの?」
「いや、考えますって言った」
でも、時任を断る女はいないよね。そう思った。非の打ち所がないやつだ。
はしゃぐ彼女の声をぼんやりと聞いていた。ぼんやりと。
***
奏は司と付き合い始めて、別人のようになった。いわく、学年で一番有名な男の彼女になって蕾だった彼女は華やかに開いた。皆が司のことを知っているのと同じように奏のことも知るようになった。
「崇くん」
それでも時々思い出したように奏は僕のところへきた。
そして前と同じように僕の部屋へ来たがった。
「いや、それはないでしょ」
「なんで?」
「彼氏が怒るでしょ」
「でも、わたしと崇くんは友達だし」
無邪気にそう言われた。
「それでも、前みたいにはいかないって」
そう言って奏を遠ざけると、今度はあろうことか、司に声をかけられる。
「奏からよく話を聞くよ。崇くん、崇くんって」
時任司は、間違いなく奏のことがなければ一生自分がお近づきになるような男じゃなかった。接点がない。話も合わない。そんな司がとある日こんなことを言う。
「な、崇も彼女欲しいだろ?今度さ、他校の女の子と集まる約束してるからさ」
ああ、そうか。一応自分もライバルというかなんというか、意識されているんだろうか。だから、俺に関わるのかなと。妙に納得して、気は乗らなかったけど誘いを受けた。みんなでご飯食べて、それからカラオケ行ってというようなありがちな流れで、ただ司はなんというか、高校生離れしていた。金持ちの家の子はこういうもんなのかなと、半ば感心して、半ば引いていた。自分用のカードを持っていて、ホイホイなんでも払ってしまうのである。
当然、大方の女の子たちは司のそういうところにうっとりとくるらしかった。司はそんな女の子たちの取り扱いに慣れていた。きっとそれこそ幼稚園くらいの頃から、女の子にベタベタまとわりつかれていたんだろう。
そんな催しのあった後には、司はまるで前から僕の親友だったかのように休み時間とかには僕の教室に来る。そして、我が物顔で僕の前の席に座り、親しげに話しかけてくる。
司はこんな男だった。まるで、この世の中の人間は自分が許しさえすれば必ず自分の友人になると思い込んでいるような男だった。何が面白くて俺みたいな平凡なやつに付き纏うのか。それは、もう、奏のことしかないのだけど。やっぱり。
「この前、崇のこといいって言ってるこ、いたぞ」
「いや、冗談でしょ」
苦笑いが出た。絶対に冗談だ。適当に話を合わせながら隅っこで静かにしていた。女の子とはほとんど誰ともたいして話さなかった。
「いや、いたぞ」
「……」
だからどうしたという気分で聞いてた。
「なんだよ。どの子か気になんないの?」
「どの子?」
聞かれて嬉しそうにあの日の写真を引っ張り出してくる。
「な、この子。一見地味だけど、よく見るとかわいくね?」
「う〜ん」
かわいいかかわいくないかといえばかわいい子なのかもしれない。でも、何も感じなかった。特別なものは何も。
「今度、みんなで一緒に遊びに行こ。奏も一緒に」
「……」
ああ、それ、最悪なやつだな。しかめ面になった。
「なんだよ。奏、喜ぶのに」
「喜ぶ?」
「崇くん、崇くんってさ」
「……」
辛かった。
奏が司の横にいて、どんなふうに話して、どんなふうに笑うのか見たくなかった。
でも、結局自分は強引な司の誘いを断ることができず、奏とその女の子(清水さんと言った)と出かけた。映画を見に行って、その後みんなで食事をした。そろそろ帰ろうと店を出てショッピングモールを出口へ向けて歩き出すと、とある店のショーウィンドウで司がぴたりと足を止める。
「これ、奏に似合いそう」
「ええ?」
それは華やかな柄のワンピースだった。
「似合うかなぁ」
「絶対にあう」
そして、司は奏の手を引っ張って中に入ると、ショップの店員にあの飾ってる服を持ってこいという。僕と清水さんも流れでその店に入ってそばでその様子を見ていた。奏のサイズの服を出しに店員が奥へ引っ込んだ。奏はそこらへんにかかっている服を適当に手に取りそのタグを見た。
「ね、司くん、ここのお店の服、結構高いよ」
青い顔をした。
「そんなん奏は気にしないでいいよ」
「でも……」
「いいからいいから」
店員が持ってきた服を持って、奏がフィッティングルームに消える。しばらくしてカーテンが開いた。
「どうかな?」
恥ずかしそうにおずおずと出てきた奏は当たり前だけど僕の方を見ていない。
「やっぱり。似合ってる」
司がそういうと、花のように笑った。
悲しかった。そのやりとりを横で見ていて、心に穴が空いたように悲しかった。そして、その時、自分は奏が自分に見せてきたいろいろな笑顔を思い出していた。これ、おいしいねと言って笑った顔。好きな曲を弾いて見せた時の笑顔。さまざまな笑顔。
でも、彼女を笑わせる男は俺ではないのだなと。思い知った瞬間。
「な、似合ってるよな」
司がそう言って俺と清水さんに同意を求める。
「きれい、きれい」
清水さんが答えた後に、司は答えを促す目で俺を見た。そして、奏もまた俺を見た。
「うん、似合ってると思うよ」
「な、買ってやるよ」
「でも、この前も買ってもらっちゃったし」
「俺が見たいんだから、だからいいの」
その日、司が奏に買ったワンピース。以前の奏なら、控えめで自信のない彼女なら自分からあんな柄のワンピースは手に取らなかっただろう。だけど、嘘ではなくて本当に彼女にそれは似合ったんです。奏は綺麗な子だったから。そういう華やかな柄が映えた。彼女の眠っていた美しさを引き出した。彼女に自信を与えたのは、でも、自分ではなくて、司だった。司に出会って奏は変わった。
悲しかった。
兄の言葉をもう一度思い出した。
さっさと言ってしまえ。そして振られてしまえ。
そうすればよかったと心から後悔した。
言ってダメだったらその後彼女が目の前で他の男のものになったって、もう少しきっと楽だったのに。ここまで胸が痛むことはなかった。
***
「ね、崇くん、清水さんと付き合うの?」
「わかんない」
「悪くないなって思ってるなら、マメにちゃんと連絡取らないとだよ」
「ああ、そだね」
「やる気ないなぁ」
「……」
奏は何を思ったか、まるで世話好きのおばさんのように僕とその清水さんをくっつけたがった。学校で僕を見かけては近寄ってきてそんなことを言う。
それがあったからってわけでもないのだけれど、なんとなく、その清水さんともう一回だけ二人で会ったことがある。
休みの日に適当な時間に適当な場所で待ち合わせをして、ぶらぶらと買い物をするのに付き合った後に、一緒にご飯を食べた。つまらなかったわけではないけれど、自分は清水さんといながら、ずっと奏のことを考えていた。
すると、食事をしている時に、ふと食べる手を止めてじっとこっちを見ている清水さんに言われた。
「ね、中川くんってさ」
「うん」
「相良さんのこと好きだよね」
「……」
何も言えませんでした。
「いや、見ててもう、もろばれ」
「あの、なんだか、どうも、すみません」
とりあえず謝った。清水さんはふっと笑った。
「司ってさ」
アイスレモンティーのグラスを片手で持って、片手で頬杖ついて、不意に清水さんは司について語り出した。
「小学生の頃から知ってんだけど、人のこと弄ぶのが好きな人間なの」
「え……」
「最近はきっと表ではいい人な顔してんだよね。でも、人間って本性は変わんないからさ」
「……」
「えっとつまり何が言いたいかっていうとね」
「うん」
「中川くんが相良さんのこと好きなの知ってて、わざと色々やってると思うよ」
「何のために?」
「弄んで楽しむために」
「……」
寝耳に水な発言でした。崇、崇と人懐こく呼んでくる司の顔が脳裏に浮かんだ。
「この前みんなで映画行った日にさ、また、なんか妙なことになってんなって思いながら見てたわけ」
「そっか」
「ね、中川くんは悪い子じゃないなって思うからいうんだけどさ」
「うん」
「うまくやって司にはもうあんま、関わんない方がいい」
「……」
奏の笑顔が浮かんだ。崇くんと呼ぶ奏の笑顔が。
「司には適当に中川くんと付き合うことになったとかなんとか言っといてあげるからさ」
「なんで?」
「そしたら、もう、君には興味がなくなるでしょ。このまま相良さんを好きでいる限り、中川くん、何度でも司に遊ばれるよ」
「……」
その時僕は、淡々とした顔でそんなことを言いながらストローでアイスティーをかき混ぜる清水さんのことをただぼんやりと見てました。
その不思議な清水さんの提案を受けて、僕は清水さんと付き合っているふりをした。実際は会ったりしてたわけではないのだけど。そして、巧妙に司と距離を置くように心がけました。奏とも。
学校ではあっても学校以外で会うようなことは避け、そして時間が経っていった。そのうち三年生になって大学受験のために僕たちは忙しくなった。自然、二人と関わる時間も減った。
それでも定期的に僕の心は痛みました。軋むように痛んだ。
遠くに奏の姿を捉えるたびに、泣きたいような切なさに軋んだ。
そして僕は一人で、奏に聴かせることはできないギターを練習した。奏の好きな歌手の新曲がでたら譜面を買って聴かせることはできない曲を練習しながら一人で小さな声で歌詞を口ずさんだ。そのメロディーを。
そして、目を閉じてその同じメロディーを奏が口ずさむ様子を想像した。
あの透明なか細い声がそのメロディーを口ずさむ様子を。その音を。
泣きたいほどに悲しくて、でも、自分は泣かなかった。
時が来て僕達は高校を卒業して、それぞれバラバラに大学に進学した。
高校を卒業しても奏と司は恋人同士であり、人づてに別れたという話は聞かず、ぐずぐずと気持ちを引きずっていた自分も奏を目にすることがなくなってからやっと立ち直り、大学で新しい生活を始めた。
本当ならそのまま、僕は奏を過去の思い出として生きていくはずだった。
生きていけるはずでした。
*1*2 最初で最後の恋だと信じるのはあまりにも
ふたりともどこか大人びたようなところがあるんだ
秦基博 猿みたいにキスをするより引用