国家による「時効という名の闇(やみ)」に葬(ほうむ)られかけた無数の魂たちが、生身の人間たちの手によって、静かに、そして確かに、その尊厳を戻され、鎮められていた
ギンロクは、デスクの上の補助金申請書の山を見つめ、それから白石川の老いた、しかし気高い顔を見つめた。
自分がなぜ、この十年、白石川の元で泥のついた野菜を配り続けてきたのか。その本当の意味が、今ようやく、五臓六腑に染み渡るように理解できた。
福島で、国と電力会社に切り捨てられ、避難所でイジメに遭い、弟妹ともバラバラになった。あの時、自分の心の中にあったのは、国への猛烈な復讐心だけだった。もしあのまま一人でいたら、自分はどこかで刃物を振り回すか、あるいは自ら命を絶っていただろう。
だが、白石川に拾われ、「指宿」として、自分と同じように不条理に打ちのめされた細川さんたちに野菜を届け、彼らの「ありがとうございます」という笑顔に触れるたび、ギンロクの胸の内の黒い炎は、少しずつ、確実に形を変えていった。
他者を救うことで、自分自身の引き裂かれた魂が、少しずつ修復されていたのだ。ジンさんの遺言は、白石川を通じて、すでにギンロクの血肉となっていた。
「白石川さん」
ギンロクは、ファイルをデスクの上に静かに戻した。
「あなたの言った『停止ボタン』の場所。俺には、分かった気がします」
白石川が、微かに目を見開く。
「この装置に、停止ボタンなんて最初から必要ないんだ」
ギンロクは、不器用な、しかし確固とした笑みを浮かべた。
「国がどれだけ冷酷に時効の壁を築こうが、どれだけ内部統制を形骸化させて俺たちを見ない振りをしようが、関係ない。俺たちが、この正当な手続きという名の迷路を、白石川さんの代わりに回し続ける。あなたが作ったこの血管を、俺と、平田と、五十嵐さんと、そして明日から走るリンジの手で、絶対に絶やさない。国を爆破するんじゃない。国の中で、俺たちの手で、俺たちの神殿を維持し続けるんだ」
白石川は、呆然とギンロクを見つめていた。やがて、その張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。彼の眼に、長年の孤独な戦いから解放されたような、本当の「好々爺」の穏やかな光が戻ってきた。
「そうか……。お前が、後継者か、ギンロク」
高層ビルの窓の外、2026年の東京の夜景は、相変わらず無関心に輝き続けている。マスメディアの流す質の低いニュースは、今日もこの街の表層を薄く撫でて通り過ぎていく。
だが、その冷酷な光の海の底で、国家による「時効という名の闇」に葬られかけた無数の魂たちが、生身の人間たちの手によって、今日も静かに、そして確かに、その尊厳を戻され、鎮められていた。
物語の車輪は、もう誰にも止められない速度で、夜の街をどこまでも静かに走り続けていく。
©2026 [風風風]. All rights reserved.




