まずは「自分で服を着ることから」
お読みいただきありがとうございます。
今回は、大好きな悪役令息ものを頑張ってかいてみました。
楽しんでいただければ幸いです。
ズキリ、と頭を割るような痛みが走った。
目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは見慣れぬ豪華な天蓋だった。
「……痛ぇ……」
朦朧とする頭で理由を探る。そうだ、落馬したのだ。乗れもしない馬に無理やり乗り込み、振り落とされて頭を強打して――。
その瞬間、硬く閉ざされていた扉をぶち破るように、俺の脳裏に「前世の記憶」がすべて蘇った。
「ぼ、坊ちゃま……! お加減は、いかがでしょうか……っ?」
震える声に視線を向けると、ベッドの傍らで専属メイドのクロエが息を呑んでいた。
艶やかな銀髪に、吸い込まれそうな青い瞳。十代半ばほどの彼女は、その整った顔を恐怖に引きつらせ、手に持った濡れタオルを固く握りしめて小刻みに震えている。
「ああ……心配かけたな。ずっと看病してくれていたのか? ありがとう」
自然と口から出た言葉だった。
前世の俺は、いわゆる「お人好し」で、損ばかりしている男だった。同僚の致命的なミスを被ってブラック部署へ左遷され、それでも自分が育った児童養護施設への寄付金だけは絶やしたくなくて、身を粉にして働き……最後は過労で一人、深夜の冷たいオフィスで倒れたのだ。
自分の幸せなどない、悲惨な人生だったと他人は言うかもしれない。
けれど、両親のいない俺の親代わりとなってくれた優しいシスターは、生前こんなことを教えてくれた。
『誰かに優しくし、誰かの優しさに感謝することは、自分の心を豊かにするのよ。与えた形あるモノは返ってこないかもしれない。でもね、温かい気持ちは必ず自分に返ってくるわ。幸せか不幸せかなんて、自分がどう思うかだけでしょ?』
その言葉は、俺の生き方の指針となった。
だから俺は最期の瞬間、かばった後輩からの「無事に子供が産まれました」という報告と、施設の子供たちからの下手くそな感謝の手紙を思い出し、不思議と満たされた気持ちで目を閉じたのだ。
しかし、今世で俺が「ありがとう」と口にした瞬間。
クロエは限界まで目を見開き、ポロリとタオルを床に落とした。まるで言葉を喋る魔物でも見たかのように、激しく怯えている。
彼女の異常な反応を見て、俺は現在の自分――「リディル・フォン・ローゼンベルグ」としての記憶の蓋を開け、ひどい自己嫌悪に陥った。
――ああ、なるほど。今の俺は、とんでもない人間の屑だ。
スープが少し冷めているだけで料理人にそのスープを浴びせ、思い通りにならないことがあれば平気で鞭を振るう。昨日はこのクロエに対し、「掃除の仕方が気に入らない」という言いがかりをつけて突き飛ばして床に転がし嘲笑ったのだ。彼女が怯えるのも無理はない。
さらに絶望的なことに、この世界には見覚えがあった。
前世で擦り切れるほどプレイした王道ファンタジーRPG『聖剣と導きの光』の世界だ。
連日の深夜残業と理不尽な責任転嫁で心が折れかけていた日々の中で、このゲームは俺にとって唯一の「救い」だった。
平民上がりの主人公が、貴族至上主義という理不尽な差別に抗い、決して他者への善意を失わずに世界を変えていく物語。それは、貧しい施設で育った俺が信じ続けたシスターの教え――「優しさは心を豊かにする」という言葉を、そのまま形にしたような世界だったのだ。
現実の俺は、誰かを庇って泥にまみれるばかりで、理不尽な環境そのものを変える強さは持っていなかった。ただ自分が犠牲になることで、どこか自己満足に浸っていただけだったのかもしれない。
だからこそ、せめて画面の中だけでもと、主人公の真っ直ぐな善意に自分を重ね、全てのルートを暗記するほどに没頭したのだ。
しかし皮肉なことに、俺が転生したのはその主人公ではない。
平民を見下し、理不尽な決闘を挑んでは無様に敗れ、最終的にどのルートでも「惨たらしい死」を迎える序盤のチュートリアル・ボス、リディルだった。
「なんでよりによって、こんな……」
頭を抱え、痛感する。リディルがなぜあそこまで歪み、誰からも見捨てられたのか。
それは彼個人の性格の悪さだけではない。この世界そのものに蔓延る「貴族至上主義」という、中世的な偏見と差別のせいでもあった。生まれ持った血筋や魔力がすべてを決め、強者が平然と弱者から搾取する冷酷な世界。
……なら、俺が変えてやる。
だが、どうやって?
ふと、傍らで震えるクロエの姿が視界に入る。
そう、今の俺はこの理不尽な世界の象徴であり、最も醜い「権力者」そのものなのだ。前世のように、ただ黙って理不尽に耐え、誰かの身代わりになるだけの「受け身の善意」では、この強固な差別の世界を変えることなど到底できない。
世の中を変えるには、まず自分を変えなければならない。
他人や世界の残酷さを嘆く前に、俺自身に染み付いた「リディル」という名の傲慢と決別し、一から自分を作り直す必要がある。
前世は、人のために生きて死んだ。ならば二度目の人生も、人のために生きて死にたい。
身分や血筋なんて関係ない。誰もが笑い合い、感謝を伝え合える場所を作るため、俺のちっぽけな善意でこの暗い世界を照らすのだ。
「……すまなかった」
俺はベッドから身を起こし、震えるクロエの目を真っ直ぐに見つめた。
「えっ?」
「今までのひどい振る舞いも、本当にすまなかった。急に信じろとは言わない。だが、俺はこれからの行動で必ず示すよ」
そう言い残し、俺はシルクの寝巻きを脱ぎ捨て、クローゼットから動きやすい簡素な服を引っ張り出した。
そして、自らの手で袖を通し、不器用にボタンを留め始めた――その瞬間だった。
「ぼ、坊ちゃまッ!? な、何をなさっているのですか……ッ!?」
先ほどまでの怯えすら吹き飛ぶほどの驚愕で、クロエが悲鳴のような声を上げた。
無理もない。この世界の、それも大貴族の人間が「自分で服を着る」などという行為は異常中の異常なのだ。それはすべて使用人の役割であり、自ら行うことは貴族の矜持を捨てる「卑しい真似」とされている。ましてやこれまでの俺なら、着替えの手際が少し悪いだけでメイドを蹴り飛ばしていたのだから。
血相を変えて飛んできた彼女を手で制し、俺は静かに首を振った。
「いいんだ。これからは自分の身の回りのことは、極力自分でやる。服を着せてもらうのを待って、ボタンのかけ違いで君たちに当たり散らすような俺は、もう今日で終わりにする」
口先だけで「世界を照らす」などと夢想しても意味がない。自分一人で服も着られないような人間に、他人の痛みがわかるはずがないのだ。
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