入学と、それから家出 5
いなされて、掴まれ、投げられる。
受け身を取り、間合いを測り、虚実を織り交ぜ仕掛ける――が当然のように読まれ、突き飛ばされる。
バランスを立て直し、踏み込んで潜り込めば、わかっていたかのように膝を合わせられ、床に転がる。
やはり、高校に上がったからといって、急に実力が上がるわけでもなく、今日も完敗を喫した。勝負にもなっていなかったかもしれねえ。やはり稽古だ。
しかし、相手には余裕があっても、こっちは真剣だ。まだ、参りましたなどとは言えねえ。
「やはり、まだ心が乱れているようだね、詩信くん」
何度目になるかわからねえ投げを喰らったところで、この道場の主でもある不動玄師匠がやれやれと肩を竦める。
ほとんど毎日、道場には通っているので、当然、光莉が同居していることは知られている。他の門下生――健太郎以外の――には言ってねえけど、一応、師匠には言っておいたほうが良いだろうと思って。
学校とは違って、知られてもそれほど被害はねえからな。いや、学校だと不都合があるってことじゃねえけど。
「ふっ、詩信。そんな有様じゃあ、今日は俺の勝ちだな」
さっき師匠に組み伏せられて落ちていた健太郎は、他の門下生のありがたい気付け(背中から気合いを入れ、水をぶっかけて起こすというもの)により、すでに意識を取り戻している。
こんな有様だが、健太郎も不真面目なわけじゃねえ。俺だって、勝敗は五分くらいだと思っている。
「あっ? 馬鹿言ってんじゃねえよ」
だが、俺だって腑抜けているつもりはねえ。
師匠には見抜かれたが、その程度、すぐに切り替えられないようじゃあ、相手に付けこまれるだけだからな。
心を落ち着かせ、目の前に立った健太郎に集中する。
中身はナンパ野郎だが、こうして稽古に当たるときは、まあ、八割くらいは本気だ。気の抜ける相手じゃねえ。
とはいえ。
数分間、全力で組み手をこなし、相手を変え、また組み手を繰り返す。
ボロボロになり、へとへとに倒れ伏し、どうにか息を整え、庭に見える水道の水を頭からかぶる。
「とーさま、わたしにもいっておねがいいたします」
俺たちが掃けたところで師匠の妻である瞳さんに連れられて入って来たのは、ひとり娘である鳴だ。たしか、今年で四歳とかだったか?
「お母さんには稽古をつけてもらったのか?」
「はい。いっぽんもとれず、はいぼくをきっしました」
やはりかあさまはつよいです、と鳴は笑顔だった。
師匠も、瞳さんも、当たり前だが、稽古では一切手を抜かねえ。もちろん、全力だと俺たちは死ぬだろうから、そういう意味での手心が加わってねえって意味じゃねえけど。
もちろん、それは、自身の家族であってもだ。いや、家族だからこそ、余計に厳しいとも言えるかもしれねえ。
そんなことは当然、鳴も承知の上だろうが、そして、やはり今日も一本の取れず、パタパタと瞳さんのところへ戻っていった。
「で? 詩信。光莉ちゃんとはあれからなにか進展とかあったのか?」
健太郎が発したひと言に、周りで倒れていたやつらが反応するが、俺は無視する。
「あるわけねえだろ。つうか、進展ってなんだよ」
「馬鹿野郎。あんなに可愛い子とひとつ屋根の下で暮らしておいて、なにもねえわけねえだろ。ばったり風呂場で出くわしたり、一緒の布団で寝たり、朝食作って起こしてくれたり、そういうイベントがあるでしょうが」
なにを言ってんだ、こいつは。
「だから、そんなもん――」
あるわけねえだろ、と言いかけて、そういや光莉は母さんを手伝って食事の準備をしていたことを思い出す。
「おい、こいつ言い淀んだぞ。もしかして、香澄ちゃん以外の女の子に手え出してんじゃねえだろうな」
「なんか隠してやがるな? 吐け、楽になっちまいな」
「いや、吐かせろ、ぶっ殺せ、今ならやれる」
さっき、あれだけぶっ倒れていたくせに、元気な連中だ。
そもそも、俺は香澄に手を出したことも一度もねえよ。香澄には手を出してる、みたいに言ってんじゃねえ。
当然、俺は全員、返り討ちにする。
まったく、余計に動かせやがって。
「ぐっ、強え。これが恋人のいるやつの強さか」
「馬鹿言ってんじゃねえ、それだと今後おまえら詩信に勝てねえってことだぞ」
「うるせえ、俺は彼女ができるから勝つんだよ。つうか、さりげなく自分には彼女ができる未来があるみたいに言ってんじゃねえよ」
なんだと、やるか、とそんな感じに再び組手が始まる。
やってられねえ。もっと真面目にやれよ、おまえら。
「あ、詩信、今溜息つきやがったな? 余裕か、てめえ」
「どういうことか説明しろ、こらぁ!」
「そして彼女を紹介してくれ」
それが本音じゃねえか。
健太郎のせいで余計に疲れた。まあ、律儀に一人づつかかってきたから、全員ぶっ飛ばしたけど。くさっても、道場だってことは忘れてなかったらしい。
だが、今日は助かった。立ち合いを数こなしたおかげで、没頭できたっつうか、少なくとも俺自身の動きは良くなった、あるいは、普段どおりに戻ったような感触だった。
「ひとつ言っておくが、光莉は彼女じゃねえ。家族だが、居候だ」
説明してくれっつうから、話してやったら、なに言ってんだこいつ、みたいな表情を返された。
おまえらのほうが謎だわ。
「ふっ、詩信。それを世間では同棲と呼ぶんだ」
「なんだ、健太郎。そのむかつく決め顔は」
ともかく、こいつらが女子との関係に飢えてるってことはわかった。
たしかに、同級生が居候ってのはあまりありえることじゃねえが、言い換えれば、ただそれだけのことでもある。
まあ。
「お帰りなさい、詩信くん。お風呂、今沸いたところですよ」
「助かる」
帰ったときにこうして光莉が出迎えてくれるのは、それなりに悪くねえとは思ってるけど。
「本当に助かるが、光莉。あんまり動きすぎて倒れんなよ」
なんで、きょとんとしてんだよ。心配くらいするだろ、普通。
「ありがとうございます。でも、私は大丈夫です。好きでやっていることですから」
どうやら、料理やら、掃除やら、そういったことが好きらしい。
まあ、本人が好きなら、それで無理をしてねえってんならかまわねえんだけど。
「詩信くんこそ、やりすぎたりしないでくださいね」
「ああ」
それでぶっ倒れでもしたら、その日の鍛練ができなくなるからな。
そう答えると、光莉はわずかに顔を顰めて。
「本当にわかっているんですか?」
「わかってるって。ところで、わざわざ迎えに出てきてくれたのか? なにかしてたんじゃねえのか?」
ワイシャツにスカートという格好だが、膝から下のあたりが若干、赤くなっている。
正座でもして、なにか途中だったんじゃねえのか?
「これはなんでも……」
言いかけて、光莉は少し考え込むようなそぶりを見せてから。
「一応、予習をしていたんです。来週から授業が始まりますから。詩信くんも一緒にやりませんか? 沙織さんからも頼まれていますし」
それは俺としても非常に助かるが。
「いいのか? はっきり言って、俺は勉強できねえぞ? 光莉の邪魔になるだけじゃねえか?」
「そんなことはありません。それに、他人に教えるのは、私の勉強にもなりますから」
光莉は笑顔で、では準備して待っていますから、と戻っていった。
やはり、ギリギリの付け焼刃での合格の俺と、特待生になるほどの優等生である光莉とでは、頭の出来に大分差があるらしい。
「まあ、やるしかねえんだがな」
ちなみに、光莉の指導は非常にわかりやすく、錯覚だろうが、俺も賢くなってんじゃねえかと思ってしまうほどだった。
 




