入学と、それから家出 6
「これで試験もばっちりですね」
高校の授業の予習と、なぜか、中学の授業の復讐までさせられて机に突っ伏していると、伸びをしていた光莉がそんなことを言い出したので。
「試験? 中間は五月末だろ?」
星海高校では、三年以外、年五回の大きな試験がある。
一学期中間、一学期期末、二学期中間、二学期期末、そして学年末試験だ。
もちろん、授業中の小テストなんかはいくらでもあるだろうけど、普通、それを試験とは言わねえだろ?
「外部の試験、模試ですよ。詩信くん、もしかして先生の話を聞いていなかったんですか?」
生徒が自主的に受けに行くものではなく、学校のほうでも年に何度か、定期試験とは別で、その外部模試とやらを実施していて、その第一回目(一年生にとっては)が四月中に行われるらしい。
内容は不明らしいが、光莉の予想によれば、中学の復習と高校の教科書のさわり部分が出題範囲のようだ。
勉強なんて、基本その場しのぎだから、全然覚えてねえぞ。さすがに、基礎的なことはわかってると思うが。
「大丈夫ですよ。高校にはちゃんと受かったんですから、一緒に頑張りましょう?」
一年のころからそんなに頑張る必要なんてあるか? とは思うが、将来使う云々の、勉強の話題で必ず上がる話はおいておくとして、たしかに、赤点を取っての補修になると時間が奪われて困ることになる。
それに、一人でやるというのならばともかく、同級生の賢い奴が教えてくれるというのであれば、それは僥倖以外の何物でもねえ。
ほかにやることとか、趣味が――まあ、格闘とか、喧嘩……は、まあ、おいておくとして、そういう漫画を読むことはあるけど、そのくらいだしな。
しかし。
「詩信くん。勉強なんてやりたくないって思ってますね?」
「……そんなことはねえよ」
嘘をついた。
同学年の光莉がここまで言ってくれているのに、俺ひとり、さぼるわけにはいかねえ。
「そうですか。良かったです。やりたくないと思ってやるより、前向きな理由で臨むほうが結果も出ますから」
光莉に微笑まれ、なんとなく、乗せられたような気はしないでもないが、一度口に出してしまったことを曲げるわけにはいかねえからな。
俺はため息をひとつ吐き出し。
「すぐ準備する」
今は一階に降ろしている俺の荷物の中から、教科書とノートを引っ張り出す。
まだ授業が行われていないため、なんの書き込みも、落書きもなく、真っ白な教科書とノートだ。それを机の上に並べて広げ。
「詩信くんの得意教科はなんですか?」
「体育」
運動系全般は、それなりにできるほうだ。
もちろん、専門の部活やら、クラブチームやらに入ってるやつには負けるが、それでも小学校から、たいへんよくできました、よくできました、もしくは、五か四しかとったことはねえ。
「毎日走ってますもんね。では、五教科の中ではなにかありますか?」
五教科ってなんだ? 体育美術音楽技術家庭科か? 高校に技術はねえか。美術と音楽も選択だし。
「詩信くん。真面目に言ってますか?」
「……国数理社英だろ。その中で俺が得意な科目があると思うか?」
光莉が頬を膨らませるので、素直に白旗を上げる。
「前にも言ったかもしれねえけど、できるやつは暗記するだけとか簡単に言うが、そもそも、できないやつはうまく頭ん中に入らねえから、暗記どころじゃねえんだよ」
そりゃあ、生まれたときから暮らしてるこの町の地理を覚えられてねえのか、なんて聞かれたら、当然、暗記してるっつうか、身体が覚えてるってもんだが。
どこそこに人が集まりやすいとか、逆に人気や人通りは少ないとか、建物の配置やバスの時間、そのくらいは――まあ、時刻表は感覚だが――見慣れているしな。
しかし、それが歴史上の事件の内容だとか、数学の公式だとか、古語、化学式、英文法だとかになると、さっぱり覚えられなくなるのは、努力不足っちゃあ、そのとおりかもしれねえけども。
「私は格闘技のことはわかりませんが、詩信くんは武術を習っていますよね。それも、技を覚える、でいいのでしょうか、身に着けるためには地道な反復練習が必要なのではありませんか? 勉強も同じですよ。毎日、少しづつでいいんです。いっぺんにやっても、覚えるのは難しいですから」
そう言って、光莉は教科書とノートを閉じる。
気がつけば、もう二時間経っていた。いや、二時間しか経っていなかった、といったほうが感覚的には正しいか。
俺は自分で書きこんだノートを見返す。
べつに、書き込んだ量がイコール勉強して身についた量ってわけじゃねえが、こんなにやってたのか。
一人じゃあ、まず、為し得なかった量だ。そもそも、一人だったら、課題や定期試験前でもねえのに勉強しようって気が起こらねえからな。しかも、復習どころじゃなく、まだ授業すら始まっていないにもかかわらず、その予習だ。
「光莉、おまえ教えるのうまいな」
はっきり言って、中学の教師より数段マシだと思う。
もちろん、学校の教師でも、凄まじい人はいたが。おかげで、俺たちの通っていた中学で、俺たちの代の国語の成績は他の中学と比べて一つ抜けていた、というのが、高校受験前の模試を受けた際、学校の先生から聞いた話だ。
しかし他の教科に関しては、明らかに、教師の話より頭に入ってくる。
こんなことを言うと、教師を馬鹿にしてるんじゃねえかと言われかねないが、本当に丁寧で、俺の(あるいはできないやつの)躓く箇所が、頭ん中を覗いてんじゃねえのかってくらい、よくわかってるしな。
教師よりも教師に向いていると思う。なにせ、俺に理解できたくらいだ。
「それは多分、私たち生徒のほうが先生方よりも、今、この瞬間に学んでいることが多いからだと思います。もちろん、先生方がどれほど真剣でいらっしゃるのかは、私に押し量れる程度のことではないと思ってもいますが、やはり近い目線での努力というのは、伝えやすいですし、伝わりやすいですから」
そういうもんなのか。
正直言って、その話はよくわからなかったが、光莉の解説はよくわかった。
「それに、詩信くんも自分で言うほどにひどい状態ではありませんよ。高校受験の内容がまだ残っている証拠ではありませんか? 彩希さんの教え方が良かったのと、詩信くん自信の頑張りのお陰でしょうか」
光莉が小さく笑みをこぼす。
そうなのか? 俺は終始光莉に教えられてばっかりって印象だから、まったく自分ができているとは思っていないんだが。
「プラシーボ効果、という言葉があります。簡単に言うと、自己暗示のことです。できる子だと言われて育てられた生徒は優秀な成績を出し、駄目なやつだと言われ続けた生徒の成績は悪くなる、という実験結果もあります。まず詩信くんは、自分ができるのだということを認めてあげてほしいです」
「……自分ができるやつだとかって言うのは、ナルシストみたいで嫌なんだが」
危ないやつだ、とか思われるんじゃねえのか?
「それなら、私が言います。詩信くんはやればできる人です。それは、今日やった問題、ノートが証明しています」
そうストレートに言われると、さすがに照れるんだが。
俺は誤魔化すように難しい顔を作り、光莉から顔を逸らし。
「……先生が優秀だったから、生徒の出来が良くなっただけだろ」
蛙の子は蛙っていうだろ?
「詩信くん。その諺は、子は親に似るという意味で使われるもので、この場合には適さないと思いますよ」
「そうなのか」
なんだか負けた気がするが、口ではどうやら敵わないらしい。
ちらりと窺えば、光莉が嬉しそうにしていたので、俺はまた顔を逸らした。




