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第2章 妻の沈黙

 雨は昼過ぎには上がったが、空気にはまだ湿り気が残っていた。  

 高梨悠斗は、会社のデスクに座りながら、午前中の出来事を何度も反芻していた。  

 白石の言葉。  

 92%という数字。  

 自分の知らない誰かの影。

 

 パソコンの画面に映るメールの文字は、まるで別の言語のように頭に入ってこない。  

 同僚たちの話し声が遠くで響き、キーボードを叩く音が雨粒のように散発的に聞こえる。  

 そのすべてが、どこか薄い膜の向こう側にあるようだった。

「高梨さん、大丈夫ですか?」

 隣の席の後輩が声をかけてきた。  

 気遣うというより、探るような目つきだった。

「ああ……ちょっと寝不足で」

 そう答えると、後輩は曖昧に笑って席に戻った。  

 その笑いが、妙に引っかかった。  

 まるで、自分のことをすでに“何か知っている”ような。

 昼休み、スマホを開くと、またORACLEから通知が来ていた。


 《本日のストレスレベル:高》

 《深呼吸を推奨します》


 その文面は、まるで自分の内側を覗き込んでいるようだった。  

 深呼吸をしろと言われて、逆に息が詰まった。

 午後の仕事はほとんど手につかなかった。  

 定時で会社を出ると、空は薄い夕焼けに染まり始めていた。  

 街路樹の葉が湿った風に揺れ、アスファルトにはまだ雨の名残が光っている。

 家に帰る途中、何度もスマホを取り出しては画面を見た。  

 赤い数字は、相変わらずそこにあった。


 犯罪発生確率:92%


 その数字は、まるで自分の人生に貼られた“値札”のように思えた。

 マンションのエントランスに入ると、いつもより照明が冷たく感じた。  

 エレベーターの鏡に映る自分の顔は、朝よりさらに疲れて見える。

 玄関の鍵を開けると、リビングからテレビの音が聞こえた。  

 妻の美咲が帰っている。

「ただいま」

 声をかけると、美咲はソファに座ったまま振り向いた。  

 髪を後ろでまとめ、仕事帰りの疲れが少し残った表情。  

 だが、その目はどこか硬かった。

「おかえり」

 短い返事。  

 いつもなら「今日はどうだった?」と続くはずなのに、言葉がそこで途切れた。

 悠斗は靴を脱ぎ、キッチンに向かった。  

 冷蔵庫を開け、水を一口飲む。  

 喉が乾いているのに、味がしない。


「……何かあった?」

 美咲が言った。  

 テレビの音量は小さく、部屋には二人の呼吸音だけが残った。

「別に」

 そう答えた瞬間、自分でも嘘だとわかった。  

 美咲も気づいているはずだ。

 美咲はテレビを消し、こちらを向いた。

「今日、保険会社から連絡が来たの。あなたの……その、判定のこと」

 胸が締めつけられた。

「……知ってたのか」

「うん。会社の方から“家族にも通知が行く仕組みです”って」

 美咲の声は落ち着いていたが、その奥に微かな震えがあった。

「どういうこと、あれ」

 その問いは、責めるというより、理解しようとする響きだった。  

 だが、悠斗には答えられなかった。

「俺にも……よくわからない。AIの誤判定らしい」

「誤判定で、92%なんて出るの?」

 美咲の言葉は静かだったが、鋭かった。  

 その鋭さは、悠斗の胸の奥にある“鈍い塊”を刺激した。

「白石って人が言ってた。俺のデータに、誰かのログが混ざってるって」

「誰かって……誰?」

「わからない。でも、その人は……未遂犯らしい」

 美咲の表情がわずかに強張った。  

 その変化は一瞬だったが、悠斗は見逃さなかった。

「……怖い?」

 自分でも驚くほど弱い声が出た。

 美咲は少しだけ目を伏せた。

「怖いとかじゃなくて……ただ、どうしたらいいのかわからないの」

 その言葉は正直だった。  

 責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を述べている。

「あなたがそんな人じゃないことは、わかってる。でも……」

「でも?」

「AIがそう言ってるなら、何か理由があるんじゃないかって……思ってしまう」


 その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。  

 美咲の言葉は正しい。  

 正しいからこそ、痛かった。

「俺は……何もしてない」

「わかってる。でも、AIは“傾向”を見るんでしょ? あなたの中に、何か……その、抑えてるものがあるとか」

 美咲の声は震えていた。  

 その震えは、悠斗の心を深く刺した。

「……俺のこと、怖いのか」

 美咲はすぐには答えなかった。  

 沈黙が、部屋の空気をゆっくりと冷やしていく。

「怖いわけじゃない。ただ……距離を置いたほうがいいのかなって」

 その言葉は、刃物のように鋭かった。  

 だが、美咲の表情は泣きそうだった。

「ごめん。どう言えばいいのかわからなくて」

 悠斗は、何も言えなかった。  

 言葉を探そうとすると、胸の奥の“鈍い塊”が重くのしかかり、呼吸が浅くなる。

 美咲は立ち上がり、寝室へ向かった。  

 扉が静かに閉まる音が、妙に大きく響いた。

 リビングに残された悠斗は、しばらく動けなかった。  

 部屋の空気は冷たく、静かで、どこか他人の家のようだった。

 スマホを取り出すと、また通知が来ていた。


 《あなたの家庭内ストレスが上昇しています》

 《感情のコントロールに注意してください》


 その文面は、まるで自分の心の奥を覗き込んでいるようだった。  

 そして、静かに囁いているように見えた。

 ──あなたは、いずれ爆発する。

 悠斗はスマホを伏せ、深く息を吐いた。  

 その息は、どこか自分のものではないように感じた。


 夜が更けるにつれ、部屋の空気はさらに冷たくなった。  

 美咲が寝室に入ってから、悠斗はしばらくリビングのソファに座り、動けずにいた。  

 テレビは消え、窓の外からは車の走る音が時折聞こえるだけ。  

 その静けさが、妙に重かった。

 スマホを伏せたまま、天井を見上げる。  

 照明の白い光が、どこか遠く感じられた。  

 自分の家なのに、居場所がないような感覚。

 ──距離を置いたほうがいいのかなって。

 美咲の言葉が、何度も頭の中で反響する。  

 責められたわけではない。  

 怒鳴られたわけでもない。  

 ただ、静かに、淡々と、事実として告げられた。

 その静けさが、何よりも痛かった。


 やがて、寝室の扉が少しだけ開き、美咲が顔を出した。

「……お風呂、入らないの?」

 その声は、いつもの日常の延長のようで、しかしどこかぎこちなかった。

「ああ……今から入るよ」

「うん」

 それだけ言って、美咲はまた扉を閉めた。  

 その短いやり取りが、妙に胸に刺さった。


 浴室に入り、シャワーを浴びる。  

 熱い湯が肩を流れ落ちるのに、身体の冷えはなかなか取れなかった。  

 湯気の向こうに、ぼんやりと自分の輪郭が揺れて見える。

 ──俺は、本当に“危険人物”なのか?

 そんな疑問が、湯気の中で形を変えながら浮かんでは消えた。

 シャワーを止め、タオルで身体を拭きながら、ふと気づいた。  

 美咲のシャンプーの香りが、いつもより遠く感じる。  

 同じ家にいるのに、距離ができてしまったような。


 寝室に戻ると、美咲はベッドの端に座り、スマホを見ていた。  

 その横顔は、どこか疲れていた。

「……寝る?」

「うん。明日も早いから」

 美咲は布団に入り、背を向けた。  

 その背中は小さく、頼りなく見えた。

 悠斗もベッドに入ったが、眠気はまったく訪れなかった。  

 天井を見つめながら、呼吸を整えようとする。  

 しかし、胸の奥の“鈍い塊”が重くのしかかり、息が浅くなる。

 そのとき、スマホが震えた。  

 画面を開くと、またORACLEからの通知。


 《あなたの睡眠パターンに乱れが検出されました》

 《ストレス要因:家庭内の緊張》


 まるで、部屋の中にAIが潜んでいるかのようだった。  

 自分の心の動きを、逐一監視されているような感覚。

 スマホを伏せ、目を閉じる。  

 しかし、眠れない。

 ──美咲は、俺をどう見ているんだろう。

 その問いが、頭から離れなかった。


 翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。  

 美咲はすでに起きていて、キッチンで朝食の準備をしていた。  

 フライパンの音、コーヒーの香り。  

 いつもの朝のはずなのに、どこか違う。

「おはよう」

「おはよう」

 短い挨拶。  

 その後に続くはずの言葉が、どちらからも出てこない。

 食卓に座り、トーストをかじる。  

 味がしない。  

 コーヒーの香りだけが、妙に鮮明だった。


「今日、病院で研修があるの。帰り遅くなるかも」

「ああ……わかった」

 会話はそれだけだった。  

 美咲は食器を片付け、バッグを肩にかけた。

「行ってくるね」

「気をつけて」

 玄関の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。  

 その音が、胸の奥に沈んでいく。

 リビングに一人残されると、静けさが重くのしかかった。  

 スマホを手に取り、白石からのメッセージが来ていないか確認する。  

 何もない。

 代わりに、ORACLEからの通知が届いた。


 《本日の推奨行動:落ち着いた環境で過ごすこと》

 《他者との衝突を避けてください》


 その文面は、まるで“あなたは危険だ”と言っているようだった。

 悠斗は、思わずスマホを握りしめた。  

 その瞬間、胸の奥の“鈍い塊”がわずかに動いた気がした。

 深呼吸をし、ソファに座る。  

 窓の外では、朝の光が街を照らし始めていた。  

 しかし、その光はどこか冷たかった。

 ──俺は、本当に何もしていないのに。

 その思いが、静かに胸の中で膨らんでいく。

 そのとき、スマホが震えた。  

 画面を見ると、白石からのメッセージ。


 《高梨さん。重要なことがわかりました。今日、会えますか》


 その一文は、朝の静けさを切り裂くように鋭かった。

 悠斗は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。  

 胸の奥の“鈍い塊”が、ゆっくりと形を変え始めているような感覚。

 やがて、短く返信した。


 《行きます》


 その瞬間、何かが静かに動き出した気がした。

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