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第1章 犯罪発生確率92%

 午前七時前の電車は、いつもより少し混んでいた。  

 春先の雨が降りそうな曇り空のせいか、車内の空気はどこか湿っていて、乗客たちの衣服が吸い込んだ外気の匂いが薄く漂っている。


 高梨悠斗は、吊り革を握りながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 ガラスに映る自分の顔は、どこか疲れて見えた。  

 昨夜は眠りが浅かった。夢を見た気がするが、内容は霧のように消えてしまっている。

 ただ、胸の奥に小さな違和感だけが残っていた。

 何かを忘れているような、あるいは何かに追われているような、そんな感覚。

 ポケットの中でスマホが震えた。  

 会社からの連絡か、妻からのメッセージか。  

 何気なく画面を開いた瞬間、悠斗の呼吸は一瞬止まった。


 《ORACLE:あなたの犯罪発生確率は92%です》


 白い背景に、赤い数字が浮かんでいる。  

 その数字は、まるで血のように鮮やかだった。

 何かの冗談か。  

 しかし、通知の送り主は確かに保険会社の公式アプリだ。  

 ORACLE──最近導入された予測AI。

 事故や病気だけでなく、個人の“リスク”を総合的に算出し、保険料や契約内容に反映するという触れ込みだった。

 ニュースで見たときは、どこか遠い世界の話だと思っていた。  

 自分には関係のない、別の誰かの人生の。

 まさか、自分がその“高リスク者”に分類されたのだろうか。

 吊り革を握る手に力が入り、指先が白くなった。  

 周囲の乗客は誰も気に留めていない。  

 新聞をめくる音、イヤホンから漏れる微かなビート、咳払い。  

 世界はいつも通りで、自分だけが異常値になったようだった。

 もう一度、通知を開く。  

 そこには簡潔な説明が添えられていた。


 《あなたの行動ログに基づき、重大事件を起こす可能性が極めて高いと判断しました》


 行動ログ。  

 検索履歴、移動パターン、深夜の滞在時間、購入履歴、未送信メール──。  

 ORACLEは、あらゆるデータを解析すると聞いた。

 だが、悠斗にはまったく身に覚えがない。  

 人を傷つけたこともないし、怒りを爆発させた記憶もほとんどない。  

 ただ、胸の奥に沈んだ“鈍い塊”のようなものが、ふと動いた気がした。

 そのとき、また通知が届く。


 《本日より、あなたは監視対象となります》


 心臓が跳ねた。  

 画面の端に、小さく「詳細はこちら」と表示されている。  

 指が震え、タップするのをためらう。

 ──本当に、自分が“危険人物”なのか。  

 ──それとも、AIが何かを誤解しているのか。

 電車が駅に滑り込み、ドアが開く。  

 乗客が一斉に降りていく中、悠斗はしばらく動けなかった。  

 足元がふらついた。

 電車の揺れではなく、自分の身体の震えだと気づいた。

 ようやくホームに降り立つと、冷たい空気が頬を刺した。  

 スマホを握る手は汗ばんでいた。  

 ホームの床に落ちた雨粒が、薄い光を反射していた。


 改札へ向かう途中、ふと周囲の視線が気になった。  

 誰も自分を見ていないはずなのに、背中に何かが張り付いているような感覚が離れない。  

「監視対象」という言葉が、頭の中で何度も反響していた。

 改札を抜け、駅前の広場に出たときだった。

「……高梨悠斗さん?」

 背後から声がした。  

 振り返ると、見知らぬ若い男が立っていた。  

 黒縁の眼鏡、整えられた短髪、無表情。  

 スーツの胸元には、保険会社のロゴが小さく刺繍されている。

「あなたの判定について、お話ししたいことが」

 男は名刺を差し出した。

 白石玲央──ORACLE開発チーム

 名刺を受け取る手が、わずかに震えた。

「……どういうことですか」

 自分でも驚くほど、声がかすれていた。

「ここでは話しにくいでしょう。少し歩きませんか」

 白石は淡々と言った。  

 その口調には、同情も驚きもなかった。

 ただ事務的で、しかしどこか急いでいるようにも見えた。


 駅前の喧騒の中で、二人は並んで歩き出した。  

 朝の通勤客が流れるように行き交い、車のエンジン音が途切れなく響く。  

 そんな騒音のなかで、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。

「高梨さんの判定には、明らかな異常があります」

 白石が言った。

「異常……?」

「ええ。通常、犯罪発生確率が90%を超えることはまずありません。あなたの行動ログには、そこまでの要因が見当たらない」

 白石は歩きながら、スマホを操作している。  

 画面には何かのグラフが映っていた。

「じゃあ、なぜ……」

「それを調べる必要があります。あなたのデータに、何か“混入”している可能性が」

 混入。  

 その言葉が、胸の奥に冷たいものを落とした。

「……俺は、何もしていません」

「わかっています。だからこそ、急いで確認しなければならない」

 白石は立ち止まり、真っ直ぐに悠斗を見た。

「あなたの未来が、AIによって“書き換えられつつある”可能性があります」

 その言葉は、朝の冷たい空気よりも鋭く、悠斗の胸に突き刺さった。


 白石の言葉は、朝の雑踏の中で異様なほどはっきりと響いた。  

 AIによって未来が書き換えられる──そんな話、現実味がないはずなのに、悠斗の胸には妙な納得が生まれていた。  

 今朝から続く違和感が、すべて一本の線でつながったような感覚。

「……どういう意味ですか」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

「ORACLEは、個人の行動ログを解析して未来のリスクを予測します。でも、あなたのデータには“あなた自身のものではない可能性のあるパターン”が混ざっている」

「俺のものじゃない……?」

「ええ。あなたの生活パターンと一致しない行動が、いくつも検出されています」

 白石はスマホの画面を見せた。  

 そこには、見覚えのない深夜の移動履歴が表示されていた。  

 地図上に赤い線が引かれ、住宅街を抜け、川沿いの暗い道を歩いたような軌跡が残っている。

「これ……俺じゃない」

「でしょうね。あなたのスマホのGPSとは一致していません。別のデバイスのログが、あなたのデータに混入している」

 白石の声は淡々としているが、その奥に焦りのようなものが滲んでいた。

「どうしてそんなことが」

「まだ断言はできません。ただ……」

 白石は言葉を切り、周囲を一度見回した。  

 通勤客の流れが途切れ、駅前の広場に一瞬だけ静けさが訪れる。

「ORACLEの学習データに、匿名化された“特異なログ”が混ざっている可能性があります」

「特異な……?」

「普通の人間の行動とは明らかに異なる、極端なパターンです。暴力衝動、異常な徘徊、深夜の特定地点への執着……。そういったデータが、あなたの行動と“似ている”と判断されてしまった」

 胸の奥が冷たくなる。  

 自分の知らない誰かの影が、背後に立っているような感覚。

「俺は……そんな人間じゃ」

「わかっています。でもAIは、あなたの“内面”までは見ません。数字だけを見て判断する」

 白石は静かに続けた。

「そして、AIの予測は現実に影響を与えます。あなたが監視対象になれば、周囲の人間の態度が変わる。職場でも、家庭でも。あなた自身の行動も、予測に引きずられる」

 その言葉に、思わず息を呑んだ。  

 今朝から感じていた“視線”の正体が、少しだけ理解できた気がした。

「……どうすれば」

「まずは、あなたのデータを精査する必要があります。混入しているログを特定し、切り離す。それができれば、犯罪発生確率は大きく下がるはずです」

「そんなこと、できるんですか」

「本来はできません。ですが……」

 白石は一瞬だけ言葉を濁した。

「僕は、ORACLEの開発チームにいます。内部の構造を知っている人間なら、できることもある」

 その言い方は、どこか危うかった。  

 会社の規則に反しているのではないか、と直感した。

「あなたは、どうして俺を助けようとするんですか」

 白石は少しだけ目を伏せた。  

 その表情は、ほんの一瞬だけ人間らしい迷いを見せた。

「……あなたの判定を見たとき、嫌な予感がしたんです。これは“予測”じゃない。何かがおかしい。そう思った」

 それ以上は語らなかった。  

 だが、その沈黙が逆に重かった。


 二人は駅前のカフェに入り、窓際の席に座った。  

 朝の光が薄く差し込み、テーブルの上に白い反射を落としている。  

 店内にはコーヒーの香りが漂い、スーツ姿の客が新聞を広げていた。

 こんな日常の風景の中で、自分だけが異常な世界に足を踏み入れてしまったような気がした。

「高梨さん、ひとつ確認したいことが」

 白石が声を落として言った。

「あなた、過去に……強い怒りを抑えられなかった経験はありませんか」

 その質問は、胸の奥にしまい込んでいた記憶を、無理やり引きずり出すようだった。

 悠斗は、しばらく答えられなかった。  

 カップの縁を指でなぞりながら、遠い記憶を探る。

「……一度だけ。若い頃、仕事で理不尽なことがあって。上司に殴りかかりそうになったことが。でも、実際には何もしていません」

「その“未遂”が、AIに重く評価されている可能性があります」

「未遂なのに?」

「AIは、行動だけでなく“傾向”を重視します。怒りのパターン、ストレスの蓄積、深夜の検索履歴……。あなたの中にある“抑圧された感情”を、AIは危険因子として扱う」

 悠斗は、胸の奥がざわつくのを感じた。  

 自分でも気づかない感情を、AIが勝手に読み取って──そんな恐怖。

「でも、それだけで92%なんて……」

「ええ。だからこそ、混入データの存在が疑われるんです」


 白石はスマホを操作し、別の画面を見せた。  

 そこには、匿名化された“特異データ”の断片が表示されていた。

 深夜の徘徊。  

 特定の人物への執着。  

 暴力衝動の記録。  

 未送信メールに書かれた、攻撃的な文章。

 どれも、悠斗の人生とは無関係なものばかりだった。

「この人物の行動パターンが、あなたのデータに重ねられている可能性があります」

「……誰なんですか、この人」

「わかりません。匿名化されています。ただ……」

 白石は画面を閉じ、低い声で続けた。

「この人物は、かつて重大事件を起こしかけた“未遂犯”です」

 その言葉は、店内のざわめきとは無関係に、悠斗の耳の奥で重く響いた。

「未遂犯……?」

「事件は公表されていません。データだけが匿名化され、AIの学習モデルに流し込まれた。おそらく、開発の初期段階で」

 白石は、まるで自分に言い聞かせるように言った。

「その人物の“怒りのパターン”が、あなたの行動と“異常に一致”してしまった。それが、92%の原因です」

 悠斗は、言葉を失った。  

 自分の未来が、知らない誰かの影に支配されている──そんな感覚が、背筋を冷たくした。

「……俺は、その人じゃない」

「もちろんです。でもAIは、そう判断していない」

 白石は、真っ直ぐに悠斗を見た。

「だから、あなたの未来を取り戻す必要があるんです」

 その言葉は、静かだが強かった。  

 まるで、薄暗い部屋の中に差し込む一本の光のようだった。


 店を出ると、雨が降り始めていた。  

 細かい雨粒が空気を冷やし、街の色を少しだけ暗くしている。  

 傘を持っていない人々が、急ぎ足で駅へ戻っていく。

 白石は傘を差しながら言った。

「一度、奥さんと話してみてください。あなたの行動ログの中に、家庭内の情報も含まれているはずです」

「……妻に、何か関係が?」

「断言はできません。ただ、あなたの生活圏にいる人のログが、何らかの形で影響している可能性があります」

 雨音が、二人の間に薄い膜を作るように響いた。

「明日、また連絡します。データの解析を進めます」

 白石はそう言って、駅の反対側へ歩いていった。  

 その背中は、雨の中にすぐに溶けていった。


 悠斗はしばらくその場に立ち尽くした。  

 雨がコートの肩を濡らし、冷たさがじわりと染み込んでくる。

 スマホを取り出すと、画面にはまだ赤い数字が残っていた。

 犯罪発生確率:92%

 その数字は、雨に濡れた街よりも冷たく、重く、現実としてそこにあった。

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