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第3話「村は守れた。けど、燃えなくていいものまで燃やされた」

 馬車は二日間、揺れ続けた。


 硬い木の座席と、ろくに効かないサスペンション。腰が死ぬ。異世界にもクッションくらいあるだろうと思ったが、勇者パーティの馬車は「実戦向けの移動用」という名目で、快適さを完全に無視した仕様だった。


 俺は荷台に近い末席に座っていた。


 レオは当然のように中央の広い席を占領し、前衛の二人と斥候が左右を固めている。リネットは反対側の隅席で、左手首の端末に視線を落としていた。


 出発前、騎士団の装備官が旅装を配り始めた時、俺の分だけ「サイズの合うものがない」と言われた。採寸すらされていないのだから当たり前だ。結果、俺は制服のシャツ一枚と、右手に持ったハリセンだけで二日間の野外行軍に放り込まれている。


 寒い。


 夜は特に寒い。


 それでも文句を言う気にはなれなかった。文句を言う相手がいない。レオは俺の存在を空気として処理しているし、前衛の二人は俺と目を合わせない。斥候に至っては、名前すら聞いていない。


「着いたら俺が先に降りるから、お前らは後から来い」


 二日目の午後、レオが誰に言うでもなくそう宣言した。窓の外には煙の匂いが混ざり始めている。


「先にって、何を先にするんだ?」


 俺が聞くと、レオは不思議そうな顔をした。


「救うんだよ、村を。俺が真っ先に飛び込んで、バーンと魔物を倒す。そういうのが大事だろ?」


 斥候が地図を広げた。村は丘を一つ越えた先だという。


「エルデン村まであと半刻ほどです。煙が見えますので、被害は継続中かと」


「よし。じゃあちょうどいい」


 ちょうどいい。


 その言葉が、妙に引っかかった。


 村が燃えていることが、「ちょうどいい」。


 馬車の窓から見える空に、煙の柱が一本、細く立ち上っている。その煙の向こう——正確には、煙よりもずっと上の空に。


 半透明の文字列が、浮いていた。


 昨日まではなかった。王都を出てからずっと空を見ていたが、街道の上空にラベルはなかった。


 それが今、村の方角に向かって、三つ。


 一つ目——【被害拡大】。


 二つ目——【勇者の劇的到着】。


 三つ目——【涙の感謝イベント】。


 どれも薄い金色に縁取られ、空気の中で、ゆっくりと脈動している。


 俺以外の誰も、あれを見ていない。レオは窓の外の煙を見て「いい絵になるな」と笑い、前衛は剣の柄に手をかけ、斥候は地図に目を落としている。


 リネットだけが、端末の画面を凝視していた。小さな光の線が、端末上を走っている。何を読んでいるのか、ここからでは分からない。


 ただ——俺の目に映るあの三つの文字列と、彼女の端末が捉えている何かが、同じものを指しているのかもしれないという直感だけが、胸の底で鳴っていた。


 根拠はない。ただの予感だ。


 でも、あの【被害拡大】というラベルが、今この瞬間も、少しずつ明るくなっているように見えた。


  *


 馬車が丘の手前で停まった。


 降りると、風に乗って焦げた匂いが直接鼻を突く。煙は一本ではなく、三本に増えていた。村のあちこちで何かが燃えている。


 遠くから、悲鳴が聞こえた。低い獣の唸り声も。


「よし」


 レオが馬車から飛び降りた。訓練用の剣を腰に佩き、マントを翻す。逆光の中でその姿は確かに絵になった。


「ここは俺が先陣を切る。最高のタイミングで助けに入るから、お前らは少し待ってろ」


「待つ?」


 俺は思わず聞き返した。


「今すぐ行けよ。燃えてるだろ、あの村」


「分かってるって。だから言ってんだろ、タイミングが大事だって」


「タイミングって何だ。早ければ早いほどいいだろ、火が広がる前に——」


「演出ってもんがあるだろ」


 レオは笑った。悪意のない、本気の笑顔だった。


「ギリギリのところで俺が現れて、一撃で全部片付ける。そうすりゃ村人も安心するし、士気も上がる。最高じゃん」


 前衛の二人が頷いた。斥候も異論を唟まない。


 俺だけが、丘の向こうに浮かぶ三つのラベルを見ていた。


 【勇者の劇的到着】——その文字列が、レオの言葉に呼応するように、一段明るくなった。


「乾。お前は後方で待機。戦闘スキルがないんだから、前に出るな」


 レオがそう言って、丘の頂上へ向かって歩き始めた。前衛と斥候が続く。


 ゆっくりと。


 村が燃えている方向へ、ゆっくりと。


 リネットが最後に馬車を降りた。端末を見つめたまま、数秒だけ立ち止まり——小さく眉を寄せた。


 何かを見た顔だった。


 だが何も言わず、パーティの後を歩き始める。


 俺は一人、馬車の横に残された。


 後方で待機しろ。


 戦闘スキルがない。


 その通りだ。ハリセン一本で魔物を倒せるとは思っていない。


 だけど。


 あの村の上空に、【被害拡大】の文字が、どんどん明るくなっていく。


 俺の目にしか見えないあの文字列が正しいなら——今この瞬間にも、「被害」は広がり続けている。


 レオが「最高のタイミング」で現れるまでの間、ずっと。


 走った。


 馬車の横を離れ、パーティとは別のルートで丘を駆け上がった。息が切れる。だがパーティの連中はレオの「タイミング」に合わせてゆっくり歩いている。全力で走れば先に着ける。


 丘の頂上を越えた瞬間、煙の壁が視界を塞いだ。眼下に広がるエルデン村は、三カ所から火の手が上がっていた。斜面を一気に駆け下り、村の北端の柵を乗り越えて中に入った。


 世界が変わった。


 煙。熱。獣の咆哮。木材が爆ぜる音。泣き声。


 石畳の大通りは魔物——犬を三回り大きくしたような黒い獣が三体、暴れ回っていた。赤い目。鉤爪。訓練場で見たものと似ているが、背中の制御紋様がない。本物だ。


 住民たちは逃げ惑っていた。だが逃げ方がおかしい。村の中央に向かって逃げている人間が何人もいる。外へ逃げればいいのに、なぜかUターンして、火の近くに戻ってくる。


 空を見上げた。


 【被害拡大】のラベルが、俺のすぐ頭上で金色に脈動していた。


 こいつが——こいつが光るたびに、何かがおかしくなっている。


 根拠は分からない。因果関係も証明できない。でも、ラベルが一段明るく光った直後に、風向きが変わった。さっきまで東へ流れていた炎が、西の倉庫に向かって舌を伸ばし始める。


 物理的にありえない風向きの変化。


 倉庫の前で老人が立ち尽くしていた。


「じいさん! こっち!」


 叫んで駆け寄った。老人の腕を掴んで引っ張る。ハリセンを腰に挟み、両手を使って老人を倉庫から離した。


「わ、わしの麦が……冬の分が全部あそこに……」


「命のほうが先だ、走れ!」


 老人を大通りから外れた裏路地に押し込んだ。石壁に囲まれた細い道は、まだ火が回っていない。


 振り返ると、倉庫が燃え始めていた。さっきまでは煙だけだったのに。


 ラベルが光ったタイミングと、炎が倉庫に届いたタイミングが、完全に一致していた。


 偶然だと思いたい。


 思いたいが、足が動いた。


 裏路地を走った。路地の奥に納屋があり、その中から子供の泣き声が聞こえた。


「誰かいるのか!」


 納屋の戸を開けた。藁の山の陰に、五歳くらいの女の子が蹲っていた。頬に煤がついて、目が真っ赤だ。


「おかあさんがいない……おかあさんが……」


「分かった、分かったから。外に出るぞ、ほら」


 女の子を抱え上げた。五歳児でも、両腕にずしりと来る。ハリセンを咄嗟にシャツの背中側へねじ込んで、両手で子供を抱き直した。汗で腕が滑る。女の子がしがみついてくる小さな手に力を込められて、ようやく安定した。裏路地を走った。


 路地の出口に、母親らしき女性が半狂乱で駆けてきた。


「ミーナ! ミーナ!」


「ここにいる! この子だろ!」


 女の子を渡した。母親が抱きしめて泣き崩れる。俺は二人の背中を押して、村の外縁——畑と森の境界あたりを指差した。


「あっちに逃げろ。大通りは魔物がいる、裏を回れ」


 母親は頷いて走っていった。


 背中からハリセンを引き抜いた。


 振り返る。


 空の【被害拡大】が、また一段、明るくなった。


 同時に、大通りの向こうで家屋が一軒、屋根から崩れ落ちた。


 偶然じゃない。


 あのラベルが輝くたびに、この村の何かが壊れていく。


 殴りたい。


 あの文字列を、このハリセンで。


 だが手が届かない。空に浮いた文字列を、地面から殴る方法を俺は知らない。ハリセンを振り上げたところで、空気を叩くだけだ。


 だったら——ラベルを壊せないなら、壊される側を先に動かすしかない。


 走った。


 次の路地。次の家。次の老人。次の子供。


 声をかけた。手を引いた。背中を押した。道を教えた。


 名前も知らない人たちの手を、片端から掴んで、火のない方角へ送り出した。


  *


 何人目か分からなくなった頃、膝が笑い始めた。


 ローファーの底が石畳で滑る。学校指定の革靴は、燃える村を走るようにはできていない。右足の踵に豆ができているのが分かる。


 シャツは煤で灰色に変わっていた。汗が目に入る。拭う手が煤で汚れているから、余計に滲みる。


 大通りに出た。


 魔物はまだ三体、暴れていた。


 レオはいない。


 まだ来ていない。


 「最高のタイミング」は、まだらしい。


 【勇者の劇的到着】のラベルが、空で静かに脈動していた。明るさは安定している。まだ「到着の条件」が満たされていないような——そんな不気味な安定感があった。


 魔物の一体が、俺の方を向いた。


 赤い目と、目が合った。


 足が止まった。


 訓練場の獣と違って、背中に制御紋様はない。止めるスイッチがない。人を噛む本物の顎と、人を裂く本物の爪を持った、本物の化け物だ。


 走った。


 反対方向に。


 全力で。


 裏路地に飛び込んで、壁に背中をつけた。心臓が暴れている。足が震えている。


 ……格好悪い。


 分かってる。戦闘スキルがないんだから、逃げるのは正しい。でも、格好悪い。


 壁の向こうで、魔物が何かを壊す音がした。木材が砕ける音。誰かが叫んでいる。


 行かなきゃ。


 行って何ができる。魔物は殴れない。ハリセンの一撃で倒せるような相手じゃない。


 でも、魔物の前で立ち尽くしている人間がいたら、声をかけて逃がすことはできる。


 膝の震えを無視して、裏路地を走り抜けた。大通りの反対側に出ると、雑貨屋の軒先で腰を抜かしている老婆がいた。


「立てるか!」


「あ、足がね、もう……」


「掴まれ!」


 老婆の腕を肩に回して、引きずるようにして裏路地へ連れ込んだ。背中越しに、魔物が雑貨屋の棚を踏み潰す音が聞こえた。


 間に合った。


 間に合ったが、雑貨屋は潰れた。


 老婆の手から、小さな布袋が落ちた。中身が零れる。乾燥させた薬草と、縫い針と、色褪せた刺繍糸。何十年も使い込んだ裁縫道具だ。


「ああ……」


 老婆が手を伸ばす。だが路地の外は魔物の領域だ。取りに戻れない。


「すまん、後で……」


 言いかけて、やめた。後で取りに行ける保証なんかない。


 老婆を安全な方向へ送り出して、振り返った。


 雑貨屋の跡地は、もう火が回り始めていた。


  *


 空を見上げた。


 【被害拡大】のラベルが、出会った時より三段は明るくなっている。


 そして【勇者の劇的到着】が——ゆっくりと、ゆっくりと、明滅のリズムを速め始めていた。


 まるでカウントダウンだ。


 村の損害がある水準に達したら、勇者が来る。


 逆に言えば——村の損害がその水準に達するまで、勇者は来ない。


 証拠はない。因果関係を証明するデータも持っていない。


 だが俺の目に映る光景は、そうとしか読めなかった。


 被害が十分に広がって、絶望が十分に深まって、「もうダメだ」と誰もが思った瞬間に、勇者が颯爽と現れる。


 そのための——この火災は、そのための舞台装置なのか。


 吐き気がした。


 煙のせいじゃない。


 走れ。考えるな。走れ。一人でも多く、火の外に出せ。


 ラベルを壊せないなら、ラベルが描いた「絶望」の頭数を減らすしかない。


 田畑の脇を走った。畑は魔物に踏み荒らされて、冬蒔きの麦が泥に沈んでいた。柵が倒れ、家畜が散っている。鶏が火に追われて空を飛んだ。飛べない鶏が、パニックで飛んだ。


 畑の奥の小屋に、少年が一人いた。十歳くらいの、痩せた男の子。腕に何かを抱えている。


「おい、逃げろ!」


「ばあちゃんの! ばあちゃんの漬物壺が!」


 腕に抱えているのは、土の壺だった。少年の胴回りほどもある。痩せた腕が壺の重さに震えて、その場から一歩も動けずにいた。


「壺は置いていけ!」


「やだ! ばあちゃんが毎年漬けてるやつなんだ! これがないと冬越せないって……!」


 少年の目は真剣だった。命の話じゃない。生活の話だ。この壺一つが、この家族の冬を支えている。


 そんなものを置いていけと言えるのか。


 言えない。


 壺を少年から受け取った。重い。両腕で抱え込まないと支えられない。


「走れ、先に行け。俺が持っていく」


 少年が走り出した。俺は壺を両腕で抱えて、その後を追った。


 ローファーが泥に沈む。壺の重さで膝が折れそうになる。ハリセンが腰からずり落ちて、地面に落ちた。


 ——置いていくしかない。


 両手が塞がったまま、泥の畑を歩いた。走れない。壺の重さと足場の悪さで、早歩きが精一杯だった。背中の方向で何かが崩れる音がする。振り返る余裕はない。


 畑を南へ突っ切って、森との境まで出た。ここなら村の火は届かない。


 少年と合流して、壺を地面に下ろした。腕が痺れている。


「ここなら火は来ない。壺と一緒にここにいろ。絶対に村の中に戻るな」


 少年は泥だらけの顔で「ありがとう」と頷き、壺の横にしゃがみ込んだ。


 俺は来た道を引き返した。畑の泥の中に落としたハリセンを探す。泥に半分埋まっているのを見つけて、引き抜いた。


 ふう、と息をついた。


 膝に手をつく。視界の端が暗い。酸素が足りない。煙を吸いすぎた。


 立ち上がって、村の方向を見た。


 家が、五軒は燃えていた。


 倉庫は完全に炎に呑まれていた。


 田畑の半分は踏み潰されていた。


 俺がどれだけ走り回っても、「被害」そのものは止められない。人を逃がすことはできる。でも、家は逃がせない。倉庫は逃がせない。畑は逃がせない。思い出は逃がせない。


 空の【被害拡大】が、一際強く光った。


 ——そして、その隣の【勇者の劇的到着】が、ぱちん、と弾けるように輝いた。


  *


 村の北側——俺が越えてきた丘の上から、光が降った。


 金色の光。


 畑の端から振り返って見上げると、村の家屋の屋根越し、遠くの丘の頂上に人影があった。剣に光属性の輝きが宿っている。逆光のシルエット。マントが風に翻る。


 レオが来た。


 丘から村の中心までは、下り坂を真っすぐ駆ければすぐだ。あいつは速い。新品の脚で全力で走れる。


 俺は村の反対側にいる。畑から大通りまでは、村の中を突っ切らないと辿り着けない。


 まだ逃げ遅れた住民がいるかもしれない。戻らなければ。


 畑を横切り、村の南端から中に入った。だが思うように進めない。煙が目と喉を灼く。一度通ったはずの裏路地が、崩れた家屋の瓦礫で塞がっていた。別の路地へ迂回する。足が重い。ローファーの底が泥と煤で滑る。踵の豆が潰れたらしく、一歩ごとに鋭い痛みが走った。


 何本目かの裏路地を抜けて、ようやく大通りに面する路地の突き当たりに出た。壁の角に肩をつけて、大通りを覗き込んだ。


 戦闘は、もう終わりかけていた。


 二体の魔物がすでに倒れている。最後の一体を、前衛の一人が盾で押さえ、もう一人が突きで隙を作り、斥候が足を射って動きを止めていた。レオが光を帯びた剣を振り上げ——一閃。最後の獣が、光の中で崩れ落ちた。トドメはやはり、レオだった。


 リネットは——いた。大通りの反対側、家屋の影で端末を操作していた。俺がいる路地の入口から、斜め向かいに見える位置だ。


 最後の一撃の直後だった。空気が一瞬だけ歪んだのが見えた。淡い青の薄膜。訓練場で見たのと同じだ。レオの光の斬撃が飛ばした瓦礫が、不自然に軌道を変えて、避難中の住民の頭上を逸れた。


 彼女は、また裏方をやっている。


 誰にも見えないところで、誰かの命を守っている。


 光の残滓が散る。


 沈黙。


 そして——歓声。


「「「勇者様ーーーッ!!」」」


 村人たちが大通りに集まってきた。泣いている。笑っている。レオの名前を叫んでいる。


 空の【涙の感謝イベント】が、柔らかな金色に光っていた。


 涙を流す村人。膝をついて感謝する老人。レオの手を握って離さない子供。


 全部が——本当の感情だ。嘘泣きじゃない。命を救われた安堵は本物だ。


 でも。


 でも、あのラベルが光っている限り、この「感謝」は一方向にしか流れない。レオに向かってしか流れない。


 俺が何人の住民を逃がしたか、誰も覚えていない。


 リネットが瓦礫の軌道を逸らしたことも、俺以外は誰も見ていない。


 前衛の二人が魔物を食い止めた時間も、斥候が的確に足を止めた射撃も——全部が「勇者が助けてくれた」に吸い込まれていく。


 レオは笑っていた。汗一つかいていない涼しい顔で、村人の感謝を受けていた。


「大丈夫、もう安心だ。俺が来たからな」


 その言葉に、村人たちが泣きながら頷く。


 俺は路地の入口から大通りへ踏み出していた。


 膝は泥だらけで、シャツは煤だらけで、右手のハリセンは泥に汚れていた。足の踵が痛い。肺が煙で焼けるように熱い。


 誰も、こっちを見ない。


 別にいい。見てほしくて走ったわけじゃない。


 ただ——振り返ると、燃え尽きた倉庫が見えた。


 あの爺さんの冬の麦は、全部灰になった。


 雑貨屋は潰れた。


 五軒の家は焼け落ちた。


 田畑の半分は使い物にならない。


 家畜は散り散りだ。


 人は——生きている。俺が走り回った分だけ、死者はゼロだ。確認した。一人も死んでいない。


 でも、生きているだけだ。


 生活は灰になった。


  *


 夜になった。


 村人たちは焼け残った集会所に集められ、騎士団から配られた毛布にくるまっていた。焚き火が二つ。食料は——レオの鶴の一声で、パーティの携行食が配られた。足りない。全然足りない。でも「勇者様が分けてくださった」と、それだけで涙を流す人がいた。


 レオは集会所の中央で、村長と話をしていた。笑顔で、堂々と。明日には王都から支援物資が届く手配をすると言っている。


 多分、本当に手配するだろう。レオにはそういう「勇者らしい事後処理」を完璧にやる能力がある。


 だから余計にたちが悪い。


 事後処理が完璧なら、誰も「そもそも被害を防げたのでは」と問わない。


 俺は集会所の外にいた。焚き火の明かりが届かない、村の外れ。


 焼け跡が広がっていた。


 家だったもの。壁だったもの。屋根だったもの。全部が炭と灰に変わって、月明かりの下で静かに冷えていた。


 その中に、一人。


 老婆が座っていた。


 焼け落ちた家の前。瓦礫の隙間に腰を下ろして、両手で何かを握りしめている。


 近づいた。


 黒焦げの写真立てだった。


 木枠は半分炭化して、ガラスはひび割れて、中の絵——この世界の絵なのか写真なのか分からないが——は端が焼け焦げて、真ん中だけがかろうじて残っていた。


 若い男女が笑っている絵だった。たぶん、若い頃の老婆と、隣にいるのは——もういない誰か。


 老婆は泣いていた。


 声を上げずに、肩も震わせずに、ただ涙だけが皺の間を流れ落ちていた。


 俺は何も言えなかった。


 何を言えばいい。「大丈夫」か。大丈夫じゃない。「また建て直せる」か。何十年分の記憶は建て直せない。


 黙って、隣に立った。


 老婆が俺に気づいた。涙を拭いもせず、ゆっくりと口を開いた。


「——でも。命があるだけ、ありがたいんだよね」


 声が震えていた。


「勇者様のおかげだよね。間に合ってくれて……」


 自分に言い聞かせている。


 目の前の灰を見ながら、自分の痛みに蓋をして、「感謝しなければいけない」と自分を説得している。


「勇者様がいなかったら、わたしらは……」


「……あんた。逃がしたのは、俺だよ」


 言ってから、後悔した。これじゃ恩着せがましい。そういうことが言いたかったんじゃない。


 でも老婆は、きょとんとした顔をした。


「あんた? あんた、誰だい?」


 覚えていない。


 大通りで腰を抜かしていた老婆——さっき俺が裏路地に引きずり込んだ、あの人だ。裁縫道具を落とした、あの人だ。


 でも、覚えていない。


 顔も、声も、手を掴まれた感触も。全部がレオの光の下に塗り潰されている。


「……いや、何でもない」


 そう答えた。


 老婆は写真立てに視線を戻して、また静かに泣き始めた。


「……おじいさんと撮った、最後の一枚だったんだよ」


 焦げた写真立ての中で、若い男女が笑っている。


 もう二度と撮り直せない。


 この世界にはスマホがない。クラウドバックアップもない。あの一枚が燃えたら、おじいさんの笑顔は老婆の記憶の中にしか残らない。


 その記憶だって、いつか薄れる。


 命があるだけありがたい。


 勇者様のおかげ。


 本当にそうか。


 レオが「最高のタイミング」を待たずに突入していたら——あの家は燃えなかったかもしれない。あの倉庫は残っていたかもしれない。あの写真立ては、今も棚の上にあったかもしれない。


 でもそうはならなかった。


 空にラベルが浮き、「被害」が広がり、「到着」のタイミングが演出され、「感謝」が一人に集約された。


 人は死ななかった。


 だが人生は燃えた。


 それでも「美談」として処理される。勇者が来た。村は守られた。命は助かった。めでたしめでたし。


 俺はハリセンを握っていた。


 泥と煤で汚れた、張りぼてのハリセン。文化祭の小道具。こんなもので魔物は倒せない。剣にもならない。盾にもならない。


 でも。


 あのラベルを——空に浮かんでいた、あの不自然な文字列を。


 もし、これで殴れていたら。


 「被害拡大」を叩き割れていたら、あの倉庫は残っていたか。


 「勇者の劇的到着」を壊せていたら、レオはもっと早く来ていたか。


 「涙の感謝イベント」がなかったら、老婆は自分の痛みを「ありがたい」で塗り潰さずに済んだか。


 分からない。


 全部、仮定の話だ。


 でも——あのラベルが「ただの幻覚」だとは、もう思えなかった。訓練場で見た【注目誘導】。宴で見た【主人公補正】。どれもレオに都合のいい方向に世界を歪めている。


 そしてこの村では、レオの「見せ場」のために、人の生活が燃料にされた。


 握ったハリセンが、少しだけ軋んだ。


 殴れなかった。


 今日は——殴れなかった。


 老婆の背中が小さく震えていた。月明かりが焼け跡を白く照らしていた。どこかで梟が鳴いている。


 俺は拳を握りしめたまま、その場を離れることができなかった。

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