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第24話「偽の危機で、本物の英雄を演じる」

 八件目の記録を書き終えたのは、夜半を過ぎた頃だった。


 鉛筆の芯はまた短くなった。石の角で削る回数が増えている。リネットが端末の画面を暗くし、「少し寝なさい。交代で見張る」と言った。ツカサは横になるつもりだったが、結局うまく眠れなかった。


 石のベンチは冷たいし、右足の踵がずっと鈍く疼いている。


 何より、東の空が見えないことが落ち着かなかった。


 南向きの小窓から差し込む月明かりの角度が変わって、壁を這う影が短くなった頃。リネットの声がした。


「波形が変わった」


 ツカサは目を開けた。眠っていなかったから、一瞬で意識が戻る。


「どう変わった」


「収束パターンの間隔が詰まってる。昨夜は約三十分周期だった。今、八分。安定した加速カーブを描いている」


 リネットは端末を膝から持ち上げ、画面をツカサに向けた。波形のグラフが表示されている。規則正しい波の山が、時間軸に沿って徐々に間隔を狭めていく。心拍が上がるときの脈に似ていた。


「これは」


「準備段階よ。結界を段階的に薄くして、特定のエリアに魔物を誘い込んでいる。いきなり開くんじゃない。少しずつ匂いを撒くみたいに——」


 リネットが言葉を切った。端末の画面が一瞬明滅する。


「——中継魔導具に起動信号が入った。現場のものだけじゃない。周辺の中継基地局三つにも同時に。全国中継の準備に入ってる」


「まだ何も起きてないのに?」


「ええ。まだ魔物は一匹も出てきていない」


 その一言が、全てだった。


 危機が起きてから中継の準備をするなら、報道だ。危機が起きる前から準備するなら、それは演出だ。


 ツカサは石のベンチから立ち上がった。


「行くぞ」


「……分かってる」


 リネットも立ち上がり、端末をコートの内ポケットにしまった。《星環計》の欠片が包まれた布包みを確かめるように胸元に触れ、それから木戸を押し開ける。


 まだ暗い。空の東端がわずかに青みを帯びている程度だ。低い潅木の間を抜けて丘陵を登り、街道を避けて裏手の稜線沿いに東北へ向かう。


 干し肉の最後の一切れを半分に割って、歩きながら噛んだ。硬い。顎が疲れる。リネットも黙って自分の半分を咀嚼している。パンと干し果物は温存する。いつ次の食料を手に入れられるか分からない。


 右足の踵が、一歩ごとに鈍く響く。角質化した豆が靴底に押し潰される感覚にはもう慣れたが、慣れたことと痛くないことは違う。


 小一時間も歩いた頃、稜線が途切れて視界が開けた。


 東に、農村地帯が広がっている。


 まだ薄暗い中で、畑の区画と集落の屋根がうっすらと見えた。麦畑が風に揺れている。点在する農家の煙突から細い煙が上がり始めていて、朝の支度が始まっているのが分かる。


 その向こう——北東の方角に、王都ヴェルディアの城壁が霞んでいた。


 朝焼けの中でも、不自然に白い光が城壁の上空に滲んでいる。英雄叙事炉の出力が夜空を染めていた残光だ。


「ここにしましょう」


 リネットが丘の頂上付近、低木が生い茂る一角を指した。身を隠しながら農村を見下ろせる。ツカサは頷いて、木の根元に腰を下ろした。


 リネットは端末を開き、波形データのリアルタイム表示に切り替えた。


「間隔、四分。さらに詰まってる」


「あとどのくらいで——」


「推定だけど。このカーブの減衰率から逆算すると、結界が実効的に開くのは一時間から二時間後。朝の活動が始まって人の目が集まる時間帯に合わせてる」


 ツカサは農村を見下ろした。畑の間を歩く人影がちらほら見える。朝の水汲みだろうか。何も知らない顔で、普通の一日を始めようとしている。


「規模は」


「昨夜の予測と同じ。甚大だけど壊滅的じゃない。農地の三割から四割が踏み荒らされる程度の被害域。家屋の全壊は出ない。死者も——」


 リネットが眼鏡の位置を直した。


「出さない範囲に、制御されてる」


「……制御されてるってことか」


「ええ。死者が出れば英雄譚の格が上がるけど、代わりに聖堂と王家への批判が出る。被害は派手だけど人死にはギリギリ出ない——その閾値が設計されてるの。結界操作で魔物の誘導範囲を絞って、集落の中心部には入らないようにしてある」


 ツカサの奥歯が鳴った。


「……村と同じだ」


「ええ」


「規模がでかくなっただけで、やってることは同じだ。被害は出す。でも『死なせない範囲』に調整して、最後にあいつが颯爽と現れて全部持っていく」


 エルデン村の光景がよみがえった。焼けた畑。崩れた納屋。黒焦げの写真立てを握って泣く老婆。命は助かった。でも生活は壊された。冬支度の備蓄も、思い出の品も、あの土地で生きていく理由も——全部、灰になった。


 あのとき、最後に魔物を斬ったレオだけが拍手を浴びていた。


 今度は全国中継つきで、それをやろうとしている。


「中継魔導具の配置を確認したわ」


 リネットの声は平坦だった。感情を消しているのではなく、観測者としての精度を優先している声だ。


「現場周辺に七基。うち三基は固定台座つきで、設置に半日はかかるタイプ。昨日の夕方に騒ぎが始まった時点で既に検知していたから、設置自体はおそらく一昨日かそれ以前よ」


「……一昨日」


「つまり、この『危機』のスケジュールは最低でも三日前には決まっていた。魔物がいつ来るか分からないから備えた、なんて話じゃない。いつ何匹をどこへ送り込むかが先に決まっていて、それに合わせて中継設備を建てた」


 朝日が稜線を越えた。


 農村が橙色に染まる。畑に出る農民の数が増えていく。子供が走り回っている。犬の鳴き声がかすかに届く。


 何も知らない。今日がどういう日になるか、誰も知らない。


 ツカサは拳を膝の上で握った。


「止められないのか」


「ツカサ」


「分かってる。分かってるけど——」


 指名手配されている。現場に顔を出せば「異端者の乱入」として処理される。止めに行くこと自体が、レオ側に利用される。八件目を記録したのは自分だ。今は証拠を積むフェーズだと、頭では理解している。


 でも、目の前で危機が仕込まれていて、それを丘の上から見ているだけというのは——。


「波形、跳ねた」


 リネットの声が鋭くなった。端末の画面に目を落とす。


 波形のグラフが、それまでの滑らかな加速カーブから一気に跳ね上がっていた。


 同時に、東の農村から——


 低い振動が空気を伝ってきた。地面が微かに震える。


「結界、開放。北東の森林帯から……五、六——いえ、八体以上。中型の獣型が主体、大型が二体混じってる」


 丘から見下ろすと、森の縁から黒い影が溢れ出していた。朝靄の中を、四足の獣がまとまって走っている。


 農村の誰かが叫んだ。甲高い声だ。水汲みに出ていた女性が桶を放り出して走り始めた。


 子供の泣き声。犬が吠える。


 農民たちがばらばらに逃げ出す。統制など取れていない。ただの恐慌。


「避難方向が——」


 リネットが眉を寄せた。


「北側の街道方向に集中してる。東と南は森と丘で逃げ場がない。西の農道は——」


「狭い」


「ええ。でもあの道を使えば隣村まで抜けられる。なのに誰も西へ行かない。西の農道入り口付近の魔力値が不自然に高い。結界操作で、あの方向だけ微かに恐怖を煽る仕掛けが——」


「避難経路を絞ってる」


「北へ逃げた農民が街道で王都からの騎士団とぶつかる。泣きながら逃げてくる農民の群れ。そこへ颯爽と騎士団が到着する。絵面として最高のタイミング」


 ツカサは立ち上がった。


 立ち上がって——動けなかった。


 丘の上から、農村がよく見えた。畑を横切る魔物の影。必死に走る農民。転ぶ老人を若い男が引き起こす。泣き叫ぶ子供を母親が抱えて走る。


 そしてその全てが、一人の男の見せ場のために用意された舞台装置だった。


 北の街道から、土煙が上がった。


「来たわ」


 リネットの声には感情がない。端末を注視している。


「騎士団の先遣隊。……中継魔導具が反応を拾った。全国配信、開始」


 リネットが端末を操作し、画面を切り替えた。中継映像の受信画面だ。リネットの端末は学院修了者用の高機能品で、公開中継の受信も可能だった。


 画面の中に、白銀の鎧が映った。


 深紅のマント。金髪。逆光を浴びて、聖剣ルクス・プリマの刃が朝日を反射する。


 神城レオが、馬上から農村を見下ろしていた。


「——皆、もう大丈夫だ」


 中継越しに、その声が響いた。


 よく通る。声量も、間も、完璧だ。台詞を吐くタイミングが、農民の悲鳴がわずかに途切れる一瞬にぴたりと嵌まっている。


「俺がいる。騎士団もいる。一人も死なせない」


 レオが馬から飛び降りた。着地の瞬間、マントが弧を描いて広がる。中継魔導具の角度がそれを正面から捉えている。知っていなければ撮れないアングルだ。


 聖剣を一閃。


 光の斬撃が、先頭を走っていた魔物の胴を薙ぎ払った。獣が二つに分かれて転がる。血飛沫が朝日に煌めいて、赤い霧になった。


 丘の上のツカサの目に映った現実は、端末の映像とは少し違った。距離があるから、音が遅れて届く。光の一閃が見えて、それから一拍遅れて斬撃音が響く。


 その時差が、妙にはっきりと——「観ている」という感覚を際立たせた。


 中継の中のレオは、輝いていた。


 騎士団が展開する。左右に分かれて農村を挟み込むように魔物を包囲していく。レオはその中心で、次々と魔物を斬り伏せた。一体ごとに聖剣の軌跡が光の弧を描き、中継魔導具がその全てを追いかける。


 泣きながら北へ逃げていた農民たちが、足を止めた。振り返る。


 光の中で戦う金髪の勇者を見上げて——泣いた。今度は恐怖ではなく、安堵で。


「勇者様……!」


「勇者様が来てくれた……!」


 膝をつく老人。子供を抱きしめたまま座り込む母親。手を合わせる男。


 中継の画面が、その群像を丁寧に映していく。


 泣く農民、戦う勇者、蹴散らされる魔物。救済の物語が、完璧な編集で紡がれていく。


「……最後の二体は大型だ」


 リネットが画面を見ながら呟いた。淡々とした口調だが、こめかみに血管が浮いている。


 大型の魔物——角の生えた黒い牛のような獣が、畑を踏み荒らしながら突進してきた。地面が揺れる。農地が抉られる。麦が泥ごとめくれ上がる。


 レオは逃げなかった。


 正面に立ち、聖剣を構え——二体目の突進が来る直前に横へ跳び、すれ違いざまに首を断った。首のない巨体が勢いのまま滑り、畑に突っ込んで止まる。


 そして最後の一体。


 角を下げて突進してくる獣の額に、レオは聖剣を真っ直ぐ突き刺した。光が爆ぜた。獣が動きを止め、崩れ落ちる。


 静寂。


 それから、歓声。


 農民が、騎士団が、中継越しの誰かが——一斉に叫んだ。


 レオは聖剣から手を離さず、獣の額から刃を引き抜いた。刃についた血を一振りで払い、空を仰ぐ。


 汗を拭った。


 そして——笑った。


「俺がいる限り、誰も死なせない」


 その声が、全国に流れた。


 端末の画面の中で、農民がレオの足元にすがりついていた。「ありがとうございます」「勇者様」「命の恩人です」と口々に言う。レオは一人ひとりの手を取って立たせ、「大丈夫だ」と繰り返した。


 完璧だった。


 誰一人として死んでいない。魔物は全滅。勇者は傷一つない。救われた者たちは涙で勇者を讃える。


 中継映像としては、百点満点の英雄譚だった。


 ツカサは丘の上に立ったまま、拳を握り潰していた。


「……踏み荒らされた畑は」


「概算で三割強。麦が全滅した区画が六つ。収穫期の前にやられてる。あの農家は今年の実りを丸ごと失った」


「家畜は」


「囲いが壊れて逃げたのが見える。何頭かは魔物に——」


「あの笑ってるおばさん、畑が半分潰れてるの分かってるか」


「……今は分かっていないでしょうね」


 リネットが端末を閉じかけて、やめた。データは記録し続けなければならない。


「レオの到着タイミングと結界操作のタイムラインを照合する。結界が開いてから到着まで、十七分。騎士団の編成が整っていたから事前に集合済み。移動速度から逆算すると王都を出発したのは結界開放の三十分以上前。つまり——」


「『魔物が出たから駆けつけた』んじゃなくて、『出る時間を知っていたから出発した』」


「そういうこと。全部、一つの台本に乗ってる」


 ツカサは農村を見下ろした。


 畑は荒れている。柵は壊れている。家畜の死骸が転がっている。泥と血と折れた麦穂が混ざって、朝日の中でぐちゃぐちゃに光っている。


 でも誰もそれを見ていない。全員がレオを見ている。レオの笑顔を。レオの聖剣を。レオの声を。


 エルデンの繰り返しだ。


 あのときは——ツカサは裏路地を走り回って子供や老人を避難させた。死者は出さなかった。でも家屋も倉庫も田畑も燃えた。冬支度の備蓄が灰になった。何人もの村人がその土地を捨てるしかなくなった。


 それでも拍手はレオにだけ鳴った。


 今回も同じだ。三割の畑が潰されて、何軒かの農家が来年の種籾を失って、家畜が死んで——でも人間は死んでいないから、勇者の手柄になる。


 踏み荒らされた畑を耕し直すのは農民自身だ。死んだ家畜の代わりを買う金は誰が出す。来年の収穫までどうやって食いつなぐ。


 そんなことは英雄譚に映らない。


 ツカサの足が動いた。


 丘を降りかけた。


「ツカサ」


 リネットの声が追いかけてきた。止めるでもなく、急かすでもない。ただ名前を呼んだ。


「分かってる。分かってるけど——」


 あの畑の端で呆然と立っている老人が見えた。麦が潰された区画の前で、ただ立ち尽くしている。周囲の農民がレオに駆け寄っていく中で、一人だけ動けずにいる。


 あの人はエルデンの老婆と同じ顔をしている。


 命は助かった。でもそれだけだ。


 ツカサは斜面を駆け下りた。


 丘の中腹まで降りたとき——視界の端に、それが浮かんだ。


 空中に、透明な文字が揺れている。


 今まで見たどのラベルとも違う配色だった。深い紫に縁取られた、禍々しい書体。


  **【邪魔者乱入補正】**


 足が止まった。


 ラベルの下に、さらに小さな文字列が付随している。


  **〈対象:物語外からの介入者/効果:介入行為を「悪意」「妨害」「異端」として周囲に認識させる〉**


 ツカサは息を飲んだ。


 これまで見てきた補正は、特定の人間や状況に貼りついていた。舐めプ補正は魔族の斥候に。ラッキースケベ補正はあの場面に。批判者矮小化は「レオを批判する文脈」に。


 だがこのラベルは、ツカサ自身の周囲の空間に浮いていた。


 自分が近づくだけで発動する。


 足元の草を踏む音がした。振り返ると、街道から外れて巡回していた聖堂の騎士が二人、斜面の下に立っていた。兜の面頬越しでも、こちらを見上げていることが分かる。


「——止まれ」


 低い声。


「その顔は……布告の!」


 もう一人が腰の剣に手を伸ばした。


「異端者だ! 勇者様の英雄譚を妨害しに来たぞ!」


 声が響いた。農村の方から農民の何人かが顔を上げた。街道にいた騎士の小隊もこちらに気づく。


「まずい——」


 ツカサは後ずさった。騎士たちの目が、普通の警戒ではなかった。布告を見て異端者だと知っている以上の何か——敵意が、瞳の奥から湧き上がるように濃くなっていく。


 補正が効いている。


 ツカサが近づいたという事実だけで、「邪魔者が来た」「英雄譚を壊しに来た」という認識が周囲に伝播していく。


 農民の一人が石を拾った。


「出ていけ! 勇者様の邪魔をするな!」


 その声は、恐怖から生まれていた。魔物に襲われた直後の人間が、ようやく見つけた「安心の物語」を壊されることへの恐怖。レオが英雄でなかったら、さっきの恐怖は何だったのか——その問いから目を逸らすために、怒りの矛先が必要だった。


 そしてこの補正は、その矛先をツカサに固定する。


 石が飛んできた。ツカサの足元の土を叩いて跳ねた。


「ツカサ!」


 丘の上からリネットの声。鋭い。


「戻って! あなたが近づくほど補正の効果域が広がる!」


 ツカサは動けなかった。


 助けに行こうとした。畑が潰されて呆然としている老人を、せめて声をかけるだけでもいいから——そう思って丘を降りた。


 なのに。


 助けに来た人間が、邪魔者として石を投げられている。


 これがこの世界のルールだ。


 勇者の物語に都合の悪い存在は、理由を問わず排除される。善意で来ても、正しくても、事実を知っていても——「邪魔者」のラベルが貼られた瞬間、全てが反転する。


 もう一つ石が飛んだ。今度はツカサの肩を掠めた。鈍い衝撃。痛みより、その意味の方が重かった。


 騎士が剣を抜きかけた。


「引き返せ」


 リネットが斜面を半分駆け下りてきていた。ツカサの腕を掴む。細い指に力が込められている。


「今ここで捕まったら何もかも終わる。証拠も、記録も、全部——」


「分かってる——」


「分かってるなら足を動かして」


 リネットに引かれて、ツカサは丘を登り返した。低木の陰に入り、視線を切る。騎士が追ってくる気配はあったが、丘の裏手に回ると稜線で姿が見えなくなったのか、追跡は途切れた。王都郊外の警備は中継の護衛が主任務であり、追放された一人の異端者を丘陵の奥まで追う余裕はないらしい。


 丘の反対側の窪地で、二人は足を止めた。


 ツカサは地面に拳を叩きつけた。


 石混じりの土が皮膚を削る。痛い。でも止まらなかった。もう一度叩きつけた。


「……助けに行けない」


 声が震えた。怒りでだ。


「助けに行くと、逆に『妨害した』って処理される。あの畑で立ち尽くしてるおっさんに声一つかけられない。近づいただけで石が飛んでくる」


 リネットは何も言わなかった。


 ツカサの拳が三度目に地面を叩いたとき、そっとその腕に手を添えた。止めるためではない。手の甲に触れるだけの、静かな接触だった。


「……拳、血が出てる」


「いい」


「よくない。あなたの手は、殴るために残しておかなきゃいけないの」


 ツカサは手を見た。指の関節の皮が剥けて、血が滲んでいた。


 殴るために残す。


 その言葉が、頭の中を一回転した。


「……ああ」


 拳を開いた。ゆっくりと。


 殴れない。今は。


 でも——今は。


 それは「永遠に殴れない」とは違う。


 リネットが端末を開いた。画面にグラフが並んでいる。


「収穫は一つある」


 声のトーンが変わった。感情の温度を数段下げて、観測者の精度に切り替えた声だ。ツカサもそれに合わせて呼吸を整える。


「聖堂の結界操作。開放タイミング、魔物の誘導方向、収束パターンの時系列変化——全部、因果波形に残ってる。中継魔導具の起動信号も、結界開放より先に入ったログも。レオの騎士団が出発した時刻と結界開放の時差も」


「仕込みだった証拠」


「ええ。それも、公式中継と同期した因果波形データという形で。ただ『あれは怪しい』と言うのと、時刻が分単位で一致するデータを突きつけるのとでは、重みが違う」


 リネットは端末の画面をスクロールした。


「八件目の追記に、今日のデータを全て統合する。中継魔導具の事前設置、結界操作の段階的開放パターン、避難経路の意図的な絞り込み、騎士団の出発時刻と結界開放の時差——四つの軸で、この『危機』が演出だったことを証明できる」


「……でもそれを公表する手段が今はない」


「そうね」


 リネットの眼鏡の奥で、翡翠色の瞳が細くなった。


「だから、もう一つ」


 端末を閉じて、ツカサの目を見た。


「学院のアクセス権が、まだ生きてる」


「……禁書庫か」


「恩師は、この世界の歪みの根源を追っていた。英雄叙事炉の存在まではこちらの仮説で辿り着いたけど、炉の設計記録も、過去に何が起きたかも、まだ何一つ確認できていない。禁書庫——古文献アーカイブの制限区画には、歴代勇者の正史に載らない記録が残っているはずよ」


「聖堂がその権限に気づいたら」


「封鎖される。時間の問題だと思う。今日の騒動で聖堂の意識はこっちに向いてる。布告を出した翌日にこれだけの演出を仕掛けてるということは、今の体制は全力で走ってる。隙があるうちに行かなきゃ」


「一人で行くのか」


「あなたは行けないでしょう。指名手配されてる顔で王都の学院に入ったら、出てこれなくなる」


 正論だった。ツカサは黙った。


 リネットが立ち上がった。コートの裾についた土を払い、端末をポケットにしまう。


「明日、行くわ。今夜のうちに戻って準備する。必要なのは学院の身分証と端末だけ。どちらも持ってる」


「大丈夫か」


「大丈夫じゃなくても行く」


 リネットの声は静かだった。でも、底に鉄が入っていた。


「恩師は——ソフィア先生は、あの場所まで辿り着いていた。世界の歪みには発生源がある。それを突き止めようとしていた。でも……結局、何も残せないまま亡くなった」


 リネットの手が、コートの胸元に触れた。《星環計》の欠片がある場所。


「私がここで止まったら、恩師と同じ場所で足踏みしたまま終わってしまう。——あの人が私に託した意味がなくなる」


 風が吹いた。丘の草が揺れて、ざあっと音を立てた。


 ツカサは、リネットの横顔を見た。


 銀灰色の髪が風に流れている。眼鏡のレンズに朝日が反射して、翡翠の瞳が一瞬だけ見えなくなった。


「……分かった」


 ツカサは立ち上がった。


「俺はここで何ができる」


「拠点で待機して、データの整理を続けて。紙の控えに今日の分を追記して、私が戻るまでに告発資料の時系列を完成させて。それと——」


 リネットが少しだけ間を置いた。


「無理に動かないで。あなたが捕まったら、私が禁書庫から何を持ち帰っても意味がなくなる」


「……おう」


「『おう』じゃなくて、約束して」


「約束する」


 リネットが頷いた。


 二人は丘を降り、来た道を戻り始めた。新拠点の石の小屋までは、裏手の稜線沿いに小一時間。


 ツカサは歩きながら、一度だけ東を振り返った。


 農村は朝日の中で静まっていた。魔物の死骸が片付けられ、壊れた柵が立て直されていくのがぼんやりと見える。中継はもう終わったのか、魔導具の光が消えていた。


 レオの姿は見えない。もう帰ったのだろう。


 英雄は危機を救って立ち去る。踏み荒らされた畑の世話はしない。死んだ家畜の後始末も、来年の種籾の心配もしない。


 それは英雄の仕事じゃないから。


 ——違う。


 それを英雄の仕事じゃないと決めたのが、この世界の脚本だ。


 ツカサは前を向いた。


 右足の踵が、相変わらず鈍く痛んでいる。肩に当たった石のあとが、じわりと熱い。


 拳の傷は——リネットが言った通りだ。殴るために残す。


 次に殴るときは、届く距離で殴る。


 そのために今は、証拠を積む。


  *


 石の小屋に戻ったのは、昼前だった。


 リネットは端末を繋いで、今日のデータ全てを時系列に再編成する作業に入った。ツカサは鉛筆を手に取り、紙の控えに八件目の追記を始めた。


 結界操作の段階的開放パターン。中継魔導具の起動信号と結界開放の時差。避難経路の意図的制限。騎士団出発時刻との照合。


 書くべきことは明確だった。書く手は、もう震えていない。


「……リネット」


「何」


「気をつけろよ」


「ええ」


 リネットは端末から目を上げなかった。でもその唇の端が、ほんの少しだけ動いた。


 窓の外は昼の光に満ちている。


 南向きの窓からは、王都の空は見えない。でも、見えなくても分かる。あの光はまだ、空を飲み続けている。


 明日、リネットはその光の下に行く。


 一人で。


 ツカサは鉛筆の芯を紙に押し当てた。


 書く。


 今の自分にできる最良の暴力は、これだ。

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