第34話:帰ってきた秘書
浅野恭子の声は、電話の向こうでひどく遠く聞こえた。
『陸さん。遅くなりました』
陸は、受話器を握ったまま、しばらく言葉を失っていた。
「浅野さん……今、どこに」
『近くです。二十分ほどで伺います』
それだけを告げると、通話は切れた。
神田の事務所に、重い沈黙が落ちた。美鈴は端末の前で動きを止め、千鶴は腕を組んだままドアの方を見ている。剛は自然と入口のそばへ立った。
誰も、何も言わなかった。
浅野恭子。
父・高遠誠二の秘書として、三十年近く高遠家を支え続けた女性。陸が最も苦しかった時、厳しく、そして静かに導いてくれた人。その彼女は、ある日突然、事務所を去った。
「ゲームの中でなら……いつでも、会えますから」
あの言葉を残して。
それから、彼女は姿を消した。
レトロゲームの中に、浅野は確かにメッセージを残していた。励ましだけではなく、父の最後のファイルへ続く道標まで残していた。
だが、本人はどこにいるのか。
生きているのか。
敵に捕まったのか。
それとも、まだどこかで戦っているのか。
その答えが、今、扉の向こうから来ようとしていた。
古い壁時計の針が、やけに大きな音を立てて進んでいく。
やがて、廊下に足音が響いた。
コン、コン。
小さなノック。
陸は、ゆっくりとドアを開けた。
そこに、浅野恭子が立っていた。
以前のような、隙のない秘書の姿ではなかった。頬は少し痩せ、髪もわずかに乱れている。コートの袖口には擦れた跡があり、目の下には深い隈があった。
だが、背筋はまっすぐだった。
そして、その目だけは、以前よりもずっと強かった。
浅野は、陸を見て、深々と一礼した。
「陸さん。遅くなりました」
陸は、声を出すまでに時間がかかった。
「……お帰りなさい」
その言葉を聞いた瞬間、浅野の目が、ほんのわずかに揺れた。
だが彼女は、すぐにいつもの静かな表情へ戻った。
「ただいま戻りました」
事務所の中へ入ると、浅野は初めて美鈴と千鶴を見た。
陸が紹介した。
「鈴木美鈴さんです。今のうちの、技術面の要です」
美鈴は立ち上がり、少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「初めまして。鈴木美鈴です」
浅野も丁寧に頭を下げる。
「浅野恭子です。陸さんを支えてくださって、ありがとうございます」
次に、陸は千鶴を示した。
「港野千鶴さん。元税関職員で、東京港のことを一番よく知っている方です」
千鶴は、浅野をじっと見つめた。
「港野千鶴だよ。あんたが、あの浅野さんかい」
「お名前は伺っておりました。港を守るために戦ってくださっていると」
「こっちこそだよ。あんたがいなかったら、陸さんはここまで来られなかったんだろうね」
浅野は、少しだけ微笑んだ。
「私は、先生と陸さんの背中を少し押しただけです」
「その少しが、政治じゃ一番大きいんだろ」
千鶴の言葉に、浅野は何も言わず、もう一度深く頭を下げた。
剛も黙って頭を下げる。
その場にいる全員が、それぞれ違う道からこの戦いに来た人間だった。
政治の裏側から。
サイバーの闇から。
港の現場から。
そして、三十年前の記憶から。
浅野はコートを脱ぎ、椅子に座る前に、陸へ言った。
「消えたのではありません。消えなければ、追えなかったのです」
その一言で、事務所の空気が変わった。
浅野は、鞄から古びた封筒を取り出した。
角は擦れ、封筒の表面には何度も持ち歩かれた皺がある。
「先生の最後のファイルを追っていました」
陸は息を呑んだ。
「最後のファイル……別添四ですか」
「はい。陸さんたちがゲームの中で見つけたものは、その断片です。私が辿り着いたものも、完全ではありません。ですが、互いを補うことはできます」
美鈴が身を乗り出した。
「確認してもよろしいですか」
「もちろんです」
浅野は封筒から、数枚の複写資料と、古いメモの束を取り出した。
美鈴が慎重にスキャンを始める。
そこには、陸たちがこれまでに見つけてきた言葉と同じものがあった。
一時保護区画
有事対応時
保護対象者リスト
京浜政策朝食会
そして、ところどころ欠けた図面の一部。
浅野は静かに語り始めた。
「三十年前の京浜政策朝食会に関わっていた方を、何人も訪ねました。すでに亡くなっている方も多くいました。生きている方の多くは、口を閉ざしていました」
彼女は、一度だけ視線を落とした。
「ある方は、私が面会を申し込んだ翌週に海外へ出ました。別の方は、面会の前日に急病で入院しました。もう一人は、玄関先でこう言いました。“君も高遠先生と同じ道を歩く気か”と」
千鶴が低く呟いた。
「脅しだね」
「はい」
浅野は淡々と答えた。
「その後、私の携帯電話は追跡され始めました。銀行口座も動きを見られている気配がありました。ですから、携帯も口座も住まいも捨てました」
「それで、連絡が取れなかったんですね」
陸が言うと、浅野は小さく頷いた。
「レトロゲーム会社に残した仕掛けは、連絡不能になった時のための保険でした。陸さんなら、必要な時に辿り着けると信じていました」
その言葉に、陸は胸を突かれた。
浅野は、ずっと自分を信じていた。
政治家としてではなく、父の息子としてだけでもなく、ゲームを読む人間としての自分を。
その時、美鈴が画面を見ながら言った。
「浅野さん。この追加断片、桜井議員のメモと一致する箇所があります」
画面には、三つの資料が並んでいた。
橘が命がけで撮った第三埠頭の映像。
桜井が渡した京浜政策朝食会の非公開議事メモ。
そして、浅野が持ち帰った別添四の断片。
三つの資料に、同じ言葉が現れている。
一時保護区画 A-3
美鈴の手が止まった。
「これで、昨夜の映像が三十年前の計画と繋がります」
「ただし、まだ全体像ではありません」
浅野が言った。
「私が持ち帰ったのは、欠けた断片です。先生が本当に掴んでいたものの全てではない」
「それでも、十分大きな前進です」
美鈴は画面を見つめたまま答えた。
「いえ」
浅野は静かに首を振る。
「本当に大きなものは、ここからです」
陸は、彼女の表情を見た。
「浅野さん。李明瑞という名前を、知っていますか」
その名前が出た瞬間、浅野の顔からわずかに血の気が引いた。
美鈴が陸を見る。
陸は、皆に向けて説明した。
「瑞樹秀が死んだ後、俺の元に一通のメモが届きました。震えた筆跡で、こう書かれていた。“李明瑞を調べろ。彼が全ての鍵だ”と」
千鶴が眉を寄せる。
「瑞樹って、あの国会議員の?」
「はい。彼は元々、李傑という名で中国から日本へ送り込まれた工作員でした。死の直前、検察へ接触しようとしていた。そして消された」
美鈴が続けた。
「その後、私が調べたところ、同じような偽の家族史で日本に入った子供が、少なくとも五十人以上いる可能性が見つかりました。李明瑞は、その中核にいる人物かもしれない。でも、今まで名前以外の手がかりはほとんどありませんでした」
浅野は、ゆっくりと息を吐いた。
「知っています」
事務所の空気が、さらに重くなる。
「一度だけ、話しました」
陸は、椅子の背に手をかけた。
「李明瑞と?」
「はい。電話でした」
「どこから?」
「分かりません。ただ、国内ではないと思います。回線の揺れ方も、間の取り方も、普通ではありませんでした」
浅野は、記憶をたどるように目を伏せた。
「あの声は、若い声ではありませんでした。けれど、老人の声でもなかった。ひどく静かで、まるで、自分自身を遠くから見ているような声でした」
誰も口を挟まなかった。
浅野は続けた。
「彼は最初に、こう言いました」
そして、ゆっくりとその言葉を再現した。
「私の名前を呼ぶ日本人は、もういない。あなたの主君が、最後だった」
陸の胸が、強く脈打った。
「父が……彼を知っていたんですね」
「少なくとも、先生は彼を知っていました。そして彼も、先生を忘れていません」
浅野は、さらに言った。
「彼は、私にこう尋ねました」
浅野の声が、初めてわずかに揺れた。
「高遠陸という人は、誰かを救えると思いますか」
陸は言葉を失った。
美鈴も、千鶴も、剛も、黙って浅野を見ている。
「私は……答えられませんでした」
浅野は、正直に言った。
「なぜなら、あの人が救われたいのか、救われたくないのかさえ分からなかったからです」
「李明瑞は、敵なんですか」
美鈴が問う。
浅野は、すぐには答えなかった。
「ただの敵ではないかもしれません。ですが、味方でもありません」
少し間を置き、続ける。
「あの人は、自分が何者なのかを、まだ決められずにいる」
千鶴が腕を組み直した。
「自分が何者か、か」
「はい」
浅野は頷いた。
「工作員という言葉では足りません。もっと古いものです。作られた人間。けれど、作られたままではいられなかった人間」
陸は、田中の顔を思い出した。
瑞樹の怯えた顔を思い出した。
そして、玲子の手紙に書かれた幼い雅人を思い出した。
作られた子供たち。
その連なりの先に、李明瑞がいる。
陸は、浅野へ尋ねた。
「浅野さんは、俺が誰かを救えると思いますか」
事務所が静まり返った。
浅野は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「分かりません」
その答えは、陸の予想とは違っていた。
浅野は続ける。
「ですが、陸さんは、救おうとする人です」
彼女の目は、まっすぐだった。
「それだけは、先生と同じです」
陸は、何も言えなかった。
その時、美鈴の端末に着信が入った。
病院の橘からのビデオ通話だった。
画面に、ベッドの上の橘が映る。片腕は固定され、顔色は悪い。それでも、目つきだけは相変わらずだった。
『よう、帰ってきたな。幽霊秘書』
浅野は、画面へ丁寧に頭を下げた。
「橘さんも、相変わらず無茶をなさいますね」
『無茶しなきゃ、あんたの隠しダンジョンまで辿り着けなかったぜ』
浅野は、わずかに微笑んだ。
「それは、恐縮です」
橘も少し笑ったが、すぐに真顔になった。
『浅野さん。その資料は、議会で使えるのか』
浅野は、画面越しの橘を見た。
「そのままでは無理です。断片ですから」
『だろうな』
「ですが、桜井議員の証言があれば、使えます」
陸は、その言葉を噛みしめた。
桜井の証言。
結局、そこへ戻る。
映像。
台帳。
別添四。
玲子の手紙。
浅野の断片。
そして、桜井の沈黙。
全ては、まだ一つの武器にはなっていない。
橘が、画面の向こうで低く言った。
『つまり、あのタヌキを最後に立たせるしかねえってことだな』
「はい」
浅野は答えた。
「三十年前に沈黙した人間が、三十年後に証言しなければ、この資料は本当の意味では届きません」
その時、美鈴が、解析していた画面の前で固まった。
「ん?…陸さん」
彼女の声が変わっていた。
画面には、三つの資料が並んでいた。
桜井メモ。
橘の映像。
浅野の追加断片。
三つの文言が、一つの線で繋がっている。
一時保護区画 A-3
有事対応時・重要インフラ管理者一時保護区画
保護対象者リスト 暫定案
美鈴は、ゆっくりと言った。
「これ、避難施設じゃありません」
陸は画面を見た。
「どういう意味ですか」
美鈴の顔色が変わっていた。
「“保護”という言葉の意味が、違うんです」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
浅野が持ち帰った資料の中で、白い文字が画面に浮かんでいる。
保護。
その優しい言葉の下に、別の意味が眠っている。
東京港の地下にあった、あの白い壁の奥。
一時保護区画 A-3。
それは、人を守る場所なのか。
それとも、人を閉じ込める場所なのか。
陸は、画面を見つめた。
三十年前、父が見ようとした闇が、今、少しずつ形を持ち始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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