表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永田町クエスト ――ボンボン二世議員、父のノートで国を取り戻す  作者: 九条ケイ・ブラックウェル
第二章「東京湾の罠」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
70/74

第34話:帰ってきた秘書

浅野恭子の声は、電話の向こうでひどく遠く聞こえた。

『陸さん。遅くなりました』

陸は、受話器を握ったまま、しばらく言葉を失っていた。


「浅野さん……今、どこに」

『近くです。二十分ほどで伺います』

それだけを告げると、通話は切れた。

神田の事務所に、重い沈黙が落ちた。美鈴は端末の前で動きを止め、千鶴は腕を組んだままドアの方を見ている。剛は自然と入口のそばへ立った。

誰も、何も言わなかった。


浅野恭子。


父・高遠誠二の秘書として、三十年近く高遠家を支え続けた女性。陸が最も苦しかった時、厳しく、そして静かに導いてくれた人。その彼女は、ある日突然、事務所を去った。

「ゲームの中でなら……いつでも、会えますから」

あの言葉を残して。

それから、彼女は姿を消した。


レトロゲームの中に、浅野は確かにメッセージを残していた。励ましだけではなく、父の最後のファイルへ続く道標まで残していた。


だが、本人はどこにいるのか。

生きているのか。

敵に捕まったのか。

それとも、まだどこかで戦っているのか。


その答えが、今、扉の向こうから来ようとしていた。

古い壁時計の針が、やけに大きな音を立てて進んでいく。


やがて、廊下に足音が響いた。

コン、コン。

小さなノック。


陸は、ゆっくりとドアを開けた。

そこに、浅野恭子が立っていた。

以前のような、隙のない秘書の姿ではなかった。頬は少し痩せ、髪もわずかに乱れている。コートの袖口には擦れた跡があり、目の下には深い隈があった。


だが、背筋はまっすぐだった。

そして、その目だけは、以前よりもずっと強かった。

浅野は、陸を見て、深々と一礼した。


「陸さん。遅くなりました」


陸は、声を出すまでに時間がかかった。

「……お帰りなさい」


その言葉を聞いた瞬間、浅野の目が、ほんのわずかに揺れた。

だが彼女は、すぐにいつもの静かな表情へ戻った。

「ただいま戻りました」

事務所の中へ入ると、浅野は初めて美鈴と千鶴を見た。


陸が紹介した。

「鈴木美鈴さんです。今のうちの、技術面の要です」

美鈴は立ち上がり、少し緊張した面持ちで頭を下げた。

「初めまして。鈴木美鈴です」

浅野も丁寧に頭を下げる。

「浅野恭子です。陸さんを支えてくださって、ありがとうございます」


次に、陸は千鶴を示した。

「港野千鶴さん。元税関職員で、東京港のことを一番よく知っている方です」

千鶴は、浅野をじっと見つめた。

「港野千鶴だよ。あんたが、あの浅野さんかい」

「お名前は伺っておりました。港を守るために戦ってくださっていると」

「こっちこそだよ。あんたがいなかったら、陸さんはここまで来られなかったんだろうね」


浅野は、少しだけ微笑んだ。

「私は、先生と陸さんの背中を少し押しただけです」

「その少しが、政治じゃ一番大きいんだろ」

千鶴の言葉に、浅野は何も言わず、もう一度深く頭を下げた。

剛も黙って頭を下げる。


その場にいる全員が、それぞれ違う道からこの戦いに来た人間だった。

政治の裏側から。

サイバーの闇から。

港の現場から。

そして、三十年前の記憶から。

浅野はコートを脱ぎ、椅子に座る前に、陸へ言った。


「消えたのではありません。消えなければ、追えなかったのです」

その一言で、事務所の空気が変わった。


浅野は、鞄から古びた封筒を取り出した。

角は擦れ、封筒の表面には何度も持ち歩かれた皺がある。


「先生の最後のファイルを追っていました」

陸は息を呑んだ。

「最後のファイル……別添四ですか」

「はい。陸さんたちがゲームの中で見つけたものは、その断片です。私が辿り着いたものも、完全ではありません。ですが、互いを補うことはできます」

美鈴が身を乗り出した。

「確認してもよろしいですか」

「もちろんです」

浅野は封筒から、数枚の複写資料と、古いメモの束を取り出した。


美鈴が慎重にスキャンを始める。

そこには、陸たちがこれまでに見つけてきた言葉と同じものがあった。


一時保護区画

有事対応時

保護対象者リスト

京浜政策朝食会


そして、ところどころ欠けた図面の一部。

浅野は静かに語り始めた。


「三十年前の京浜政策朝食会に関わっていた方を、何人も訪ねました。すでに亡くなっている方も多くいました。生きている方の多くは、口を閉ざしていました」


彼女は、一度だけ視線を落とした。

「ある方は、私が面会を申し込んだ翌週に海外へ出ました。別の方は、面会の前日に急病で入院しました。もう一人は、玄関先でこう言いました。“君も高遠先生と同じ道を歩く気か”と」


千鶴が低く呟いた。

「脅しだね」

「はい」

浅野は淡々と答えた。

「その後、私の携帯電話は追跡され始めました。銀行口座も動きを見られている気配がありました。ですから、携帯も口座も住まいも捨てました」

「それで、連絡が取れなかったんですね」


陸が言うと、浅野は小さく頷いた。

「レトロゲーム会社に残した仕掛けは、連絡不能になった時のための保険でした。陸さんなら、必要な時に辿り着けると信じていました」


その言葉に、陸は胸を突かれた。

浅野は、ずっと自分を信じていた。

政治家としてではなく、父の息子としてだけでもなく、ゲームを読む人間としての自分を。


その時、美鈴が画面を見ながら言った。

「浅野さん。この追加断片、桜井議員のメモと一致する箇所があります」


画面には、三つの資料が並んでいた。


橘が命がけで撮った第三埠頭の映像。

桜井が渡した京浜政策朝食会の非公開議事メモ。

そして、浅野が持ち帰った別添四の断片。


三つの資料に、同じ言葉が現れている。


一時保護区画 A-3


美鈴の手が止まった。

「これで、昨夜の映像が三十年前の計画と繋がります」

「ただし、まだ全体像ではありません」


浅野が言った。


「私が持ち帰ったのは、欠けた断片です。先生が本当に掴んでいたものの全てではない」

「それでも、十分大きな前進です」


美鈴は画面を見つめたまま答えた。

「いえ」

浅野は静かに首を振る。

「本当に大きなものは、ここからです」

陸は、彼女の表情を見た。

「浅野さん。李明瑞という名前を、知っていますか」


その名前が出た瞬間、浅野の顔からわずかに血の気が引いた。


美鈴が陸を見る。

陸は、皆に向けて説明した。


「瑞樹秀が死んだ後、俺の元に一通のメモが届きました。震えた筆跡で、こう書かれていた。“李明瑞を調べろ。彼が全ての鍵だ”と」


千鶴が眉を寄せる。

「瑞樹って、あの国会議員の?」

「はい。彼は元々、李傑という名で中国から日本へ送り込まれた工作員でした。死の直前、検察へ接触しようとしていた。そして消された」


美鈴が続けた。

「その後、私が調べたところ、同じような偽の家族史で日本に入った子供が、少なくとも五十人以上いる可能性が見つかりました。李明瑞は、その中核にいる人物かもしれない。でも、今まで名前以外の手がかりはほとんどありませんでした」


浅野は、ゆっくりと息を吐いた。

「知っています」

事務所の空気が、さらに重くなる。

「一度だけ、話しました」

陸は、椅子の背に手をかけた。

「李明瑞と?」

「はい。電話でした」

「どこから?」

「分かりません。ただ、国内ではないと思います。回線の揺れ方も、間の取り方も、普通ではありませんでした」


浅野は、記憶をたどるように目を伏せた。

「あの声は、若い声ではありませんでした。けれど、老人の声でもなかった。ひどく静かで、まるで、自分自身を遠くから見ているような声でした」


誰も口を挟まなかった。

浅野は続けた。

「彼は最初に、こう言いました」

そして、ゆっくりとその言葉を再現した。

「私の名前を呼ぶ日本人は、もういない。あなたの主君が、最後だった」


陸の胸が、強く脈打った。

「父が……彼を知っていたんですね」

「少なくとも、先生は彼を知っていました。そして彼も、先生を忘れていません」


浅野は、さらに言った。

「彼は、私にこう尋ねました」

浅野の声が、初めてわずかに揺れた。

「高遠陸という人は、誰かを救えると思いますか」


陸は言葉を失った。

美鈴も、千鶴も、剛も、黙って浅野を見ている。

「私は……答えられませんでした」

浅野は、正直に言った。

「なぜなら、あの人が救われたいのか、救われたくないのかさえ分からなかったからです」


「李明瑞は、敵なんですか」

美鈴が問う。


浅野は、すぐには答えなかった。

「ただの敵ではないかもしれません。ですが、味方でもありません」


少し間を置き、続ける。

「あの人は、自分が何者なのかを、まだ決められずにいる」

千鶴が腕を組み直した。

「自分が何者か、か」


「はい」

浅野は頷いた。

「工作員という言葉では足りません。もっと古いものです。作られた人間。けれど、作られたままではいられなかった人間」


陸は、田中の顔を思い出した。

瑞樹の怯えた顔を思い出した。

そして、玲子の手紙に書かれた幼い雅人を思い出した。

作られた子供たち。

その連なりの先に、李明瑞がいる。


陸は、浅野へ尋ねた。

「浅野さんは、俺が誰かを救えると思いますか」

事務所が静まり返った。

浅野は、すぐには答えなかった。

やがて、静かに言った。


「分かりません」

その答えは、陸の予想とは違っていた。

浅野は続ける。


「ですが、陸さんは、救おうとする人です」

彼女の目は、まっすぐだった。

「それだけは、先生と同じです」

陸は、何も言えなかった。


その時、美鈴の端末に着信が入った。

病院の橘からのビデオ通話だった。

画面に、ベッドの上の橘が映る。片腕は固定され、顔色は悪い。それでも、目つきだけは相変わらずだった。

『よう、帰ってきたな。幽霊秘書』

浅野は、画面へ丁寧に頭を下げた。

「橘さんも、相変わらず無茶をなさいますね」

『無茶しなきゃ、あんたの隠しダンジョンまで辿り着けなかったぜ』


浅野は、わずかに微笑んだ。

「それは、恐縮です」

橘も少し笑ったが、すぐに真顔になった。

『浅野さん。その資料は、議会で使えるのか』

浅野は、画面越しの橘を見た。

「そのままでは無理です。断片ですから」

『だろうな』

「ですが、桜井議員の証言があれば、使えます」

陸は、その言葉を噛みしめた。


桜井の証言。


結局、そこへ戻る。


映像。

台帳。

別添四。

玲子の手紙。

浅野の断片。

そして、桜井の沈黙。


全ては、まだ一つの武器にはなっていない。


橘が、画面の向こうで低く言った。

『つまり、あのタヌキを最後に立たせるしかねえってことだな』

「はい」

浅野は答えた。

「三十年前に沈黙した人間が、三十年後に証言しなければ、この資料は本当の意味では届きません」


その時、美鈴が、解析していた画面の前で固まった。

「ん?…陸さん」

彼女の声が変わっていた。

画面には、三つの資料が並んでいた。


桜井メモ。

橘の映像。

浅野の追加断片。


三つの文言が、一つの線で繋がっている。


一時保護区画 A-3

有事対応時・重要インフラ管理者一時保護区画

保護対象者リスト 暫定案


美鈴は、ゆっくりと言った。

「これ、避難施設じゃありません」

陸は画面を見た。

「どういう意味ですか」

美鈴の顔色が変わっていた。


「“保護”という言葉の意味が、違うんです」

誰も、すぐには言葉を返せなかった。

浅野が持ち帰った資料の中で、白い文字が画面に浮かんでいる。


保護。


その優しい言葉の下に、別の意味が眠っている。


東京港の地下にあった、あの白い壁の奥。

一時保護区画 A-3。


それは、人を守る場所なのか。

それとも、人を閉じ込める場所なのか。


陸は、画面を見つめた。


三十年前、父が見ようとした闇が、今、少しずつ形を持ち始めていた。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ