プロローグ
――夏の夜の事だった。
その街の名前は比良坂という。都心から離れた内陸の小さな田舎街。熱いアスファルトと涼しげな雑木林が三対一くらいで混在するような中途半端な街。
時は夜、もうすっかり明かりが消えている。しかしこの時間になっても、昼間照りつけた陽光が与えた熱気が地表付近に居座り続け、まるで蒸し風呂のようだった。
ただ頭上に光る白い月だけは涼しげに街を照らしている。
羽化した蝉は七日間の地上生活を謳歌するように鳴いている。
余談だが蝉の鳴き声の大きさは実に異常だ。その体躯は五センチ程度、人間と比べれば三十から三十五分の一程度の大きさである。その小さな命が数百メートル先に届く大きさで鳴くのだからすごいものだ。縮尺の単純計算では人間なら十キロ近い先まで響く事になる。まあそんな単純な話ではないが。
そんなうだるような暑さの中、駅前のカラオケの灯りに吸い寄せられたように若者たちは集まり、とある噂について語り合っていた。
退屈な街に住む若者のほんの一時の退屈しのぎ、ありふれた怪異譚だ。平たく言えば都市伝説の類で、伝言ゲームで肉付けされリアリティを加えられる。
そして今回の話はこの街に吸血鬼が居るという話だった。
***
時を同じくしてある少年が比良坂市中の住宅地を歩いていた。
比良坂は主に三つに分けられる。駅や大きめの店が立ち並ぶ南の《本町》、川を挟んで北側の国道が通る《旧本町》、そしてそのさらに北の山を切り崩して作った住宅地の《丘》。
そして彼が今居るのが《丘》だ。《丘》は出来てから年数が浅く、住居の多くは建造間もない新築ばかりだ。したがって住む人間も越してきて間もない人間が多い。
その例に漏れなく彼もちょうど一年前に越してきたばかりだった。彼の名前は灰村零士、今年で十七になる高校二年だ。
やや毛先が青みがかった灰色の髪を目元まで垂らし、目を細くしている。顔は悪くない方だと言えるが、その疲れた表情がどんよりとした印象をもたせる。学校指定の学ランを着込んで、両手には近所のスーパーの買い物袋を携えていた。
彼がそんな疲れた表情を浮かべているのは、両手に持った合わせて五、六キロほどの重量の買い物袋のせいだった。《丘》にある零士の家から一番近い《旧本町》にあるスーパーまでの距離がざっと一.五キロ。その短くはない距離を、軽くはない荷物を抱えて歩いたのだから疲労は当然の結果だと言える。
「くっそお重いんだよおおお!」
零士はぐっと足に力を入れ、視線を水平に見据える。目の前に広がるのは夜の暗闇と終わりの見えない灰色の坂。《丘》に行くまでの関門、心臓破りの坂である。これがあるために距離以上の疲労を伴う事になるのだ。
坂を下る行きはその分爽快感を味わえるが、今日に限っては自転車も修理に出しているので苦痛しかない。零士は額に汗を浮かべながら、立地を見ずに場所を決めた自分を呪った。車かバイク、せめて原付の類があれば楽なのだが、県の運動で高校生の免許取得は叶わない。
「こんなんだからネットで未開の地とか言われんだよ……」
目を脇にやれば見えるツタの茂った雑木林といい、何処までも付いて回る蝉の鳴き声といい鬱陶しさが三割増量キャンペーン中真っ只中だ。連日、今年の最高気温を更新していき、今日に至っては三十八度を記録した。真夏日通り越して、猛暑日通り越し、焦熱地獄である。
十分から二十分ほどかけ坂を登り切り、零士は腕も足も棒になりながら。汗で湿ったシャツを抜ける風に至福の笑みを浮かべた。《丘》は碁盤の目のように家が並ぶ平地になっているので、後は家までの短い距離をゆっくり歩くだけで良い。
しばらく歩くと、盤の中央辺りに位置する公園が見えてきた。公園と言っても簡単な遊具と砂場がある程度の簡素な物だ。中央には《丘》のシンボルとなるオブジェが作られるはずだったらしく、台座が用意されたまま放置されている。
零士はこの年になって無邪気に遊具で遊ぶ事こそなくとも、夕暮れ時の公園は中々に良い雰囲気で考え事をするのに時々使うこともある。
逆に難点だが、公園に設置された遊具にある。動物を模したバネ式の遊具なのだが、この動物の顔が異様に不気味なのだ。作った本人はアートのつもりなのかもしれないが、抽象的すぎて元の動物が解らないレベルだ。ピカソにでも頼んだのではないかと零士は思う。ピカソが悪いと言いたいんじゃない、遊具に必要なのは芸術性ではなく親しみ易さだ。
夜などは不気味さに拍車がかかり、不意に視界に入れば心臓が飛び出そうになる事は間違いない。零士は並んで苦悶の表情を浮かべている動物たちを見て、美術の教科書に載っていたあの絵を思い出してからは、ゲルニカと呼ぶことに決めた。
夜は見ないよう足早に通り過ぎるのだが、今回ばかりは少しばかり事情が違かった。
通り過ぎようと零士が歩調を早めた時の事だ。ふと横からギィギィと錆びた金属の軋む音が彼の耳に入った。勿論もう時刻は午後九時を回っているので、こんなとこで遊んでいる子供など居るはずない。
だとするならばだ――音の正体はなんなのかという話になる。ろくな事にはならないのだろうと解っていても、その方向を見ずにはいられない。高鳴る心臓、急に固くなる関節。恐怖心を上回る好奇心を持って一思いに振り向いた。
――ギィ……ギィ……
「ブランコの音か……」
零士は馬鹿みたくビクビクしていた自分が情けなくなった。噂の所為で少しばかし神経質になっていたのだろう。吸血鬼に襲われた人間が居るなんて話を学校で聞いた物だから、もしやと考えてしまったのだ。ホラー映画の後のシャワーで背後が気になるのと同じ事だ。
「驚かせんなよなまったく」
ゲルニカに向けて独り言を呟き、再び歩き出した零士にトンと何かがぶつかる。
下腹部辺りに触れた重み、その重みの場所に視線を落とす。
――それは陳腐な言葉を使えば人形のような少女だった。
髪は色素を奪われたように白く、陶磁器の様に滑らかな肌は薄桃色の血の色を伺わせる。夏だというのにボールガウンを身に纏っている。何より整った顔立ちに嵌め込まれた瞳は、透き通ったワインレッドの宝石のようだ。
「――ッ!?」
先程まで誰も居なかった場所、零士の進行方向に突然現れた少女。周囲に異なる空気感を持つ彼女を前にして再び心臓が高鳴る。どう考えても今のこの状況はまともではない。
日本人離れというより人とは思えぬ少女、人を襲う吸血鬼の噂、そして夜の街。役者も舞台も揃い踏みといったところか。ここまでくれば「異常」である。
じりじりと身を退いていく零士と、反して距離を縮めていく少女。十歩ほど距離を維持したまま移動した後だった、少女の下げられてままの右腕が動く。瞬間、零士の体にヒヤリとした嫌な感覚が走った。反射的に彼は買い物袋を放り出して、手で頭を庇う。
ドサリという音を立てて買い物袋が地面に落ちて数秒、何らかのダメージを覚悟した零士の予想に反して訪れたのは静寂だった。蝉だけがうるさく鳴いている。
顔を覆っている手を恐る恐る解いて再び視界を開くと、そこには右腕を零士に向けて突き出した少女が居た。そして突き出された先の手のひらには、キャラ物のキーホルダーの付いた鍵が握られたいた。
「それ……俺のか、君が拾ってくれたの?」
こくりと頷く少女、どうやら気付かない内に落としていたらしい。
「そっか、ありがとう。君、名前はなんていうの?」
すこし間を置いて少女は答える。
「アルム」
無機質でひんやりとした響きだと思った。
彼女の声は小さかったが、はっきりと通る透き通った声だった。
「それって名前?」
率直に零士が疑問を口にすると、若干不思議そうな表情をしてから、少女は先程と同じくこくりと頷いた。
アルム、不思議な響きだ。もしかするとその外見からして、彼女はどこか外国から来たのかもしれない。彼女から受け取った鍵を、今度は落とさぬようにズボンのポケット深くしまい込みながら考える。
「そうだ、お礼にこれ貰ってくれよ」
地面に落ちた買い物袋の中を探って、溶けかけのアイスを差し出した。零士の手からそれを受け取ったアルムは、不思議そうにパッケージを眺めた。その仕草は赤ん坊が玩具に興味を示す様に近いものがある。
「……冷たい」
頬に当て額に当てて、アルムは温度を確かめるように振れる。
「そりゃあ、アイスだから当たり前だろ」
零士は自分も一つ取り出して、袋を破き棒アイスを口に運ぶ。水色のソーダ味のシャーベットは内から火照った体を冷ましていった。その様子を見ていたアルムも、真似をするように袋を破き棒アイスを小さく齧った。
「……甘い」
アルムはどうやらアイスを食べるのは初めてらしく、表情の差異はわずかながらも、零士には若干ながら彼女が目を見開いているように思えた。
「……そりゃあ、アイスだからな」
並んで道端でアイスを齧りながら、おぼつかない会話をする二人。零士は隣の少女への疑問ならいくらでも湧いてきたが、それを上手く言葉に出来なかった。公園の時計台の秒針が刻一刻と時を刻むたびに、どうこの少女と別れるかを考えていた。
「……名前」
下から覗き込むようにアルムは零士を見つめる。彼女の双眸には真摯な光が宿っていて、真剣さを伺わせた。何より彼女のような美少女が見上げるように見つめてくるというのは、犯罪的だと零士は思った。
「名前?」
零士が聞き返すと、アルムはその顔をぐっと近づけた。お互いの息がかかりそうな距離であり、その間十センチ程度。丁度アイスの棒程の距離しかない。
「……名前は?」
今度は少しだけ強い語調でアルムは言った。ひょっとして零士の名前を聞いているのだろうか? 零士が指で自分を指すと、アルムは首を縦に振り肯定。どうやら零士の推測は合っていたらしい。
「俺は零士、灰村零士」
ゆっくり丁寧に答える。アルムはそれを聞くと少しだけ微笑んだ。その表情の差異はわずかなだけに、彼女の喜びの感情が伝わってきた。
「……レイジ、ハイムラレイジ」
噛みしめるように呟くアルム。
「そうレイジ、よろしくアルム」
零士は微笑みながら手を差し出した。アルムはアイスを咥えながら、差し出された手の意味を考えあぐねたように首を傾げる。それから幾拍か静止したまま向き合い、それが握手なのだと気付いたようで、アルムは零士の手を握り返した。
「よろしく……レイジ」
小さな手のひらから、ひしと伝わってくる力。
弱々しくも確かに伝わるその力に応じて、零士はもう一度握り返す。アルムの小さな手は滑らかな感触で冷たかった。病的な白さと相まって雪のようだと思った。気付けば蝉の声も聞こえなくなり、零士には周りの世界が止まったように感じた。
そしてその時だった。
――シャン、と鈴の音が鳴る。
「アルム、此処に居ましたか」
凛とした透き通った声だった。余りに綺麗な声だったので鈴の音と錯覚した程だ。
零士の背後十メートルほど離れた位置から、その人影はゆっくりと近付いてきた。身にまとったローブのフードで顔は隠れているので確認しようがないが、その声からして女だというのは解る。背丈は零士と同じかあるいは彼よりも高い。
しかし零士が異常を感じたのは背丈ではなく、彼女の姿そのものだ。口元以外をすっかり隠す夜の色と同じローブ、そして彼女が歩み寄るたびに鳴るガチャリ、ガチャリという音だ。恐らく中には鎧の類を着込んでいるのだろう。同時に小さく留め金の音もするので、武器の類を携えて居る可能性もある。
――アルムなんか比にならない「異常」だ。
この平和なご時勢に、日本の片田舎でだ。暑苦しいローブを着込んだ上に鎧を身に纏った人間なんてのは居るはずがない。コスプレという線もあるが、残念ながらここはイベント会場でも何でもない住宅地だ。
「さあ、アルム行きましょう」
彼女は通りすがり際に零士を一瞥してから、アルムに手を伸ばした。その手に嵌められているのは鈍い光を放つ黒色のガントレットだ。ローブのはだけた隙間から見えるのは同色の騎士鎧だった。
アルムは女騎士の顔を見上げて、少しだけその表情を曇らせた。それから零士に身体を向けると、スカートを優雅に摘んでぺこりとお辞儀した。それから少し遅れて女騎士も軽く会釈するように礼をした。
それが済むとアルムと女騎士は、零士に背を向ける。
零士は呆気にとられ、その背中を棒立ちで眺めていた。ここ三十分以内に起きた出来事にはリアリティが無くて夢のようであった。なのにも関わらず、肌に触れる風の感触や空気の熱気だけはしっかりと感じた。
「――そこの少年」
女騎士が口を開く。それが自分に向けられた言葉なのだと気付くまでに、数秒程かかった。その所為で「ひゃ、ひゃい?」なんていう情けない声が出た。羞恥心で零士が顔に血が集まるのを感じていると、女騎士が首だけ振り向く。すると時同じくして身体を煽られそうなほどの突風が吹き抜ける。
その風で女騎士の頭からローブが外れる。
そうして見えた女騎士の顔は、剣の冷たい切っ先に似ていた。アルムがどこか無機的な印象を思わせるのに対して、彼女は自ら感情を押し殺しているようだった。鉄の仮面をつけて自分を押し込めた、そんな表情だった。
「今日見た事は忘れる事だ――死にたくなければな」
言葉と共にもう一度風が吹き抜け、零士は目を閉じる。そしてもう一度目を開いた時にはアルムも女騎士の姿もどこにもなかった。
「どういう事……なんだ?」
いくら問おうとも、零士の疑問に答えてくれる人間はここには居ない。
――プルルルル……プルルルル……。
暫く立ち尽くしていると、零士のポケットの携帯電話が鳴き出した。
路上に置かれている買い物袋とにらめっこして数秒、心臓を握られるような焦燥感と共に忘れていたことを思い出して、携帯の通話ボタンを押した。
『おいレイジ!! たかが買い物に、どんだけ時間けてんだよ!』
接続音から間髪置かずに、携帯のスピーカーから罵声が響く。
「悪い、小夜姉!」
できるだけ言い訳なく謝る。それが電話越しの彼女への対処法だ。虹村小夜、零士の保護者であり姉貴分。元レディースの総長であり、現数学教師の彼女に下手な言い訳は効き目が無いどころか、かえって火に油を注ぐことになるだろう。
『良いからさっさと帰ってこい!』
――ブツン、ツー……ツー……。
切断音を聞いてから、すぐさま零士は買い物袋を拾い上げた。疲れた体に鞭打ち再び歩き出す。今は一秒が生死を分かつ。大急ぎで走り出そうと足に力を込めた時に、ふとある物が目に入る。
先程までアルムが居た位置、アスファルトの上に彼女が食べたアイスの棒だ。
「ゴミはきちんとゴミ箱にだろ……」
見つけた手前放置していくのはバツが悪く、拾い上げて近くのゴミ箱へ投げ込もうと振りかぶる。後は手を放して放るだけというところで、零士はぴたりと手を止めた。
「……って当りじゃねえか」




