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キラーハート The Killer In Smiling MAN S  作者: 曇天紫苑
The Killer In Smiling MAN S 大笑編
52/77

エピローグ1



 銃声が響き渡り----数発の銃弾が、その部屋に入った男、エドワースに直撃し、彼の懐から仮面を滑り落とした。


「がっ……! ぁ……!?」


 致命傷にはならないが、動きを縛り付けるのには十分な傷だ。足を崩しかけたエドワースは意地で無理矢理に体を立たせて、銃弾を放った相手を、ボスを見る。


「……お前等、撃たなかったな?」

「ええ、あなたが仲間を撃てるのかどうかの確認ですからね、ああ、これで我々は安心できる」

「撃ってないさ、当然だろ。俺にはもう、Mr.スマイルをどうこうする気は無い」


 銃を構えているのはケビン、アール、プランクの三人だったが、実際に引き金を引いたのはエドワースのボスであるケビンだけだという事がすぐに分かった。

 Mr.スマイルでもあるエドワースは、指の動きが見えていたのだ。射線が見切れたからと言って、体はそれに付いていけなかったのだが。

 ケビンは、彼の懐から落ちたMr.スマイルの仮面を一瞥すると、銃を構え続けている。その目は本当に悲しそうでありながらも、一つの覚悟に満ちている。


「……俺達が出る幕じゃなさそうだな」

「ええ、そうですね」


 言いながら、アールとプランクは自分の懐へ銃を仕舞い込んだ。どうやら、ケビンが部下を撃てるのかどうかを確認する為だった様だ。

 もし彼が撃たなければ、二人分の銃弾を浴びる事になった。エドワースは、軽く安堵の息を吐く。その場合は間違いなく死んでいただろう。何とか彼の命は繋がったのだ。

 しかし、この場に居れば殺されてしまうだろう。事前に聞いていた『生き残った者達でパーティ』というのは嘘ではなかった様で、三人のボスの部下達もその場には居る。


----やばい、ヤバい、ヤバい! バレた、ボスに! 逃げる、逃げるぞ!


 強烈な命の危険を感じたエドワースは、自分が銃弾を受けている事も忘れて後方へ飛ぼうとした、幸い、彼はまだ入り口付近に現れたばかりだ。

 まだ、逃げられる。仮面を落とし、コートはエィストに奪われている為にMr.スマイルになる事は出来ないが、逃げ足だけは早いつもりだ。

 しかし、逃げられる筈が無い事は彼自身も完全に分かっていた。何故なら、入り口のすぐ近くにはリドリーが居たのだから。


「お前、もしかして本気で隠す気があったりしたのかねぇ」

「な、何?」


 逃げようとしたエドワースの腕を、リドリーが掴む。その目は哀れむ様な色が含まれているが、恐らくはそれも演技だ。


「残念ながら、仲間が犯人っていうのは定番の一つだから、ねぇ?」


 急に奇妙な物言いを始めたリドリーへ思わず疑問の声を上げると、返ってきたのは腕を固定した上での右ストレートだった。

 予想もしなかった一撃を受けて、エドワースは弾き飛ばされる様に壁へ追突する。煉瓦造りの壁は壊れる事も無く、その代わりにエドワースへ激痛をもたらす。

 凄まじい痛みを感じたエドワースは、リドリーを睨み付けた。が、その視線など気にもしない様子でリドリーは空を見て、まるで死人に語りかける様な口調で呟いている。


「どうだい、ジェーン。殴ってやったぞ。これで良いんだよな」


 やはり少し悲しそうだが、どこか演技の様な色が含まれている。しかし、それに気づいたのは彼の目を見る事が出来るエドワースだけだろう。言葉自体は迫真の演技で、違和感が余り無いのだ。

 何を言っても話が通じる様子が無い。関わっていては逃げられない。そう判断したエドワースはリドリーを無視して逃げる事にする。

 だが上手くいかない物で、逃げようとしたエドワースは今度は後ろから肩を叩かれて体を硬直させてしまう。

 その手の感覚や、叩く雰囲気で、誰なのかはすぐに分かった。エドワースは怒りを纏って振り返り、そこに居た人物に殺気を向けた。勿論、そこに居た人物には何の影響も及ぼせない物でしか無いのだが。


「あはは、残念だったね。エドワース君」

「お前……! バラしたんだな!」


 殺気混じりの睨みを受けても、エィストは揺るがない軽い口調で話しながら笑っている。鬱陶しいくらいに明るい笑みがより怒りを強めるが、彼女に対しては無意味な事だ。


「いや、私は何も言ってない。アレさ」


 エドワースの言葉に対してエィストは軽く指を横に向けて、楽しそうにしながらも残念そうな色が混じり込む表情をしていた。

 思わず釣られたエドワースは、エィストの指さした方向を見る。そこには、家庭用のスクリーンがあった。本来は映画再生用に買った物なのだろうが、今流れている物は違う。


「な……あ……!」


 そこで流れている映像を見て、エドワースは思わず息を呑んだ。

 船の中で、最初にエドワースがMr.スマイルとなった瞬間の映像だ。音声は入っていない様だが、確たる証拠として機能する物だ。

 編集した物だと主張しようにも此処にはその手の事を見抜く者も居る。今更、Mr.スマイルの正体を誤魔化す事は出来そうもない。

 少し揺れがちなカメラが、それを撮影した者の正体を知らせている。彼が船内でMr.スマイルになった時、その場にはもう一人の人間が居たのだ。


「俺を忘れてないよな、エドワース」


 そう、たった今目の前まで歩いて来たサイモンである。


「残念だったな。撮影済みだよ馬鹿が」


 侮蔑の籠もった瞳を向けながら、サイモンは声をかけて来た。

 映写機をよく見ると、そこには一つの四角の物体が繋がれていた。サイモンの手の中で踊っていた物と、同じ柄をしたルービックキューブだ。

 自分が完全に失敗した事を、エドワースは悟った。

 サイモンは確かに正体を知ったが、エィストよりはまだ黙らせる必要を感じられない相手だった。悪名は聞いていたし、自分の普段の性格を知る者が信じる筈がないと頭の片隅で考えていたのだ。


「ま、俺はお前をどうにかする気はない。お前の処刑はお前のボスが、だ」


 まさか、撮影されているなどとは思わなかった。唇を噛むエドワースに対して、サイモンはそれだけ言ったかと思うとすぐに背を向けて、プランク達の居る椅子へ歩いて行った。


「……エドワース」


 代わりに、とばかりに現れたのは、どこか苦しそうな顔をしたケビン、いやエドワースのボスだった。瞳はらしくない程に揺れていて、内心を表している。

 彼の手には変わらず銃が握られていた。怒りと、『まだ言葉に出来ない謎の感覚』に包まれてエドワースは気づいていないが、エィストとリドリーは銃の射線に巧妙に入り込む事でエドワースが殺される事を防いでいたのだ。

 彼らが邪魔になって撃てない事を理解したケビンは、エドワースの側に寄る事を選んだのである。

 しかし、目の前に来るとやはり引き金を引くのには相当の覚悟が必要なのか、どうも無意識の内に深く呼吸をしている。


「本当に、気づかないと思っていたのか?」


 言葉の奥には深い悲しみがあった。それはまさしく彼の心の中にあるエドワースへの気持ちそのもので、口にする言葉はおまけでしか無いのだろう。

 エドワースはまた一つ、自分の失敗を悟った。


「俺が、お前の腕を見間違うと思っていたのか? お前の部屋に腕が転がってたからって、お前のだと考える、そう思っていたのか?」


 彼の、言葉通りだ。エドワースは自分のボスを甘く見ていた。偽装しても、変装をしても、彼を騙せる訳が無かったのだ。

 それはエィストやサイモンの様な正体を知る者達を黙らせる、などという方法が最初から間違っていた事を示していた。そもそも、隠したい相手が勝手に気づいてしまうのだ。


「……見くびりすぎだぞ、エドワース。俺は、お前等の馬鹿な部分も、見てきてるんだよ」


 どれほど隠したとしても、無意味だ。それを、彼のボスの言葉は強烈なまでに表していた。


「……」


 思わず、エドワースは黙り込んだ。Mr.スマイルとしても、自分自身としてもボスを殺す事は出来ない。反撃もしたくないのだ。

 例え、悲しみの余りケビンの立ち回りから隙が見え隠れしているとしても、その気持ちは変わらない。

 ほんの数秒間、周囲の空気が止まったかの様に静かになる。彼らの部下達もじっと二人を見つめていて、雑談を交わす事すらない。


「……やりすぎ、なんだよ」


 エドワースの事を見つめていたケビンは、静かに言葉を紡いだ。それを聞いたリドリーとエィストは何故か顔を見合わせて、何か機会を窺うかの様に意志を交わしている。

 それに気づかず、エドワースは黙ってボスの言葉を聞いた。どう頑張って逃げ道を探そうとしても、耳は勝手に機能する。恐らく、心の底ではボスの言葉を聞いておきたいと考えているのだろう。


「お前がリドリーの所で踏みとどまってれば、まだ庇い様もあったんだ。だが、お前は踏み入れてしまった」


 リドリーに腕を捕まれ、肩をエィストに固められたエドワースは、動く事も出来ずにボスの言葉を聞く。

 意味は、理解出来た。確かに彼の部下はエドワース自身を含めて妙な拘りや性格の持ち主ではあるが、Mr.スマイルの様に人を虐殺する程の恐ろしい事をする者はそうは居ない。

 リドリーも基本的に戦う相手は敵という『役』の相手で、エィストはそもそも、より楽しむ為に人を殺さない道を選ぶのだ。

 どれほど歪んだ理由でも、彼らは『殺したがり』ではない。それを、エドワース、Mr.スマイルは軽々と越えてしまったのだ。


「お前はやりすぎた、野放しには出来ない。だから、俺は……お前を……」


 ボスの言う事を理解出来たエドワースは、次にボスが言う言葉を読み取る事が出来た。

 頭の中で、奇妙な気持ちがせり上がってくる。それはボスを悲しませた事への自嘲なのかもしれないし、もしかするとMr.スマイルになった事への悔いだったのかもしれない。

 その気持ちの正体を見抜こうとした、その瞬間だった。

 頭の中で何かが組み上がり、言葉に出来ない謎の感覚は、言葉に出来る感覚と成り果てたのだ。


----そうか、そうだったのか。


 どうして、執拗にボスにバレたくないと感じていたのか、その理由をエドワースは理解した。

 無意識の内に、自分が自分でなくなってしまう事を恐れていたのだ。それは、エドワースの臆病さの最後の抵抗だったのかもしれない。

 もう、彼は臆病と呼んで良い存在ではないのだ。

 何も気づいていないケビンが、静かな覚悟を言葉に乗せる。

 だが、彼にとっては今がこんなにも----



「俺は、お前を殺してでも、止める」


 

 ----『楽しい』。




「ふ、ふふ」




 自然と、口から奇妙な笑い声が飛び出していた。狂気の様な何かを感じさせるそれを耳にした者達は一様に目を見開く。どこかで見た様な、異様さだ。

 その正体を理解出来た者達は何かに気づいてしまったのか、一斉にエィストを見た。サイモンに至っては二丁の銃をエィストとエドワースに向けかけたが、隣に居るアールに寸前で制されている。


「く、はは、あははっ! はははっ!」


 エドワースの口から、全ての状況を忘れ去ったかの様な笑い声が上げる。

 自分がどれだけ愚かな思考に至ったのか。分かっていても、エドワースは魂の奥底から湧き出る享楽的な感情と、どうしようもない楽しさに身を任せる。自分の命が危険に晒されているというのに、気にした様子は欠片も無かった。

 仮面が無い為に声はエドワースの物である事を明らかにしているが、笑い声はまるであの仮面を付けていた時にあった凄惨さをそのまま連れ出してきた様な物だ。


「エドワース君……ふふっ」


 彼の肩を掴んでいるエィストが嬉しそうに微笑んでいる。二人の姿はまるで悪魔と、それに魂を売った人間をそのまま図にしたかの様だ。不気味で、心に重い物を感じさせる。

 自分を掴むエィストの手をエドワースは静かに取って、どこまでも幸せそうにその手を撫でる。

 それはまさしく信仰の対象に出会った信徒の様に恭しい手つきであり、くすぐったそうにはにかんだ顔をするエィストとは空気が違う。


「これが、そうか。そうなんだな? 楽しい、面白い。追い詰められるのが、恩人に糾弾されるのが、何より自分の愚かさが!」


 彼女の手をぎゅっと握ったまま、エドワースは壊れきった笑みと共に声を発した。その目はボスを見ていて、サイモンを見ていて、アールを、リドリーを見ていて、何より自分に対して目を向けていた。

 余りにも不気味過ぎる雰囲気が彼からは発せられている。仮面を被っていなくとも、彼はどう見てもMr.スマイルだった。


「……あいつ」

「……なんであんな事に」


 その姿を遠くから見ていたスコットとパトリックは小さく声を上げる。彼の事は記憶に残っていた。少年時代も今も、彼は臆病さが特徴の男だった『筈』なのだ。それが彼の良い所であり悪い所であると二人は今も昔も、思っていた。

 だが、視界の先に居るエドワースの不気味な笑顔と来たら、臆病という性質を全く感じさせない物だ。どこまでも残酷な笑い声は耳障りで、だがとても楽しそうである。

 何が臆病な物かと二人は軽く拳を握る。あれはまるで、人間ではないかの様だ。彼を変質させてしまった物の正体が簡単に予想できるだけに、余計にそう感じられる。

 仲の良い友達だった者がおぞましい何かになっていく。例え彼がMr.スマイルだったとしても、過去の記憶は悲しみを覚えてしまう。そんな彼らの感情を無視するかの様に、流れはどんどん進んでいく。


「楽しいのかい? 私も楽しいよ、エドワース君」

「ああ、楽しい! 今すぐ殺されてもっ! 拷問を受けてもっ……! 地獄に落ちても!! この、ああ、この感情は! 止まりそうにないんだ!!」


 誰よりも楽しそうなエィストとエドワースは仲が良さそうに笑い合っている。いつもエィストを避けていた彼からは想像も出来ない姿だ。

 これには流石にリドリーも驚いたらしく、関心した顔をしている。普段のエドワースはエィストを避けていて、苦手な顔をしていた。それが、今はコレだ。

 全員の視線がエドワースに集中する。彼がMr.スマイルである事など関係無く、今の彼は目を離せない存在に成り果てている。

 自らに集まった視線に対して、今までのエドワースなら震えていただろう。だが今の彼はそうではなく、あくまで楽しいと感じる意志を振りまいていた。

 そして、彼は周囲の全てに見せつけるかの様に言い放った。


「楽しい、楽しいぞ。くはははは! 楽しいじゃないか! 楽しい! 楽しい気分だ!」


「こんな時は……逃げるに、限る!」


 笑い声と共に声を発したかと思うと、エドワースは凄まじい勢いでリドリーの腕を振り払い、入り口へ飛び込んだ。

 勿論、彼を逃がす程ケビン達は甘くない。銃弾は彼が動くと同時に放たれている。だが、実際に銃弾が貫いたのはエドワースではなかった。


「痛っ! 何するのさもうっ!」


 そう、銃弾を受けたにも関わらず緩い笑みを浮かべる女など一人しか、エィストしか居るまい。

 タイミングにせよ位置にせよ、傍目には彼女がエドワースを庇った様に見えるだろう。だが、実際には違う。自分が殺される事を分かっていたエドワースはわざとエィストの手を取って、自分が動くと同時に彼女を盾にしたのだ。

 つい数分前までの彼であればエィストとはいえ仲間を盾にする事に罪悪感の一つでも抱いたのだろうが、今はその行為が楽しすぎて頭がおかしくなりそうだ。エドワースの顔は間違いなく、そう言っている。

 盾にされたエィストは気にした様子も無くエドワースを見る。素早く去っていこうとするエドワースと目が合ったのは一瞬だったが、その間に二人は意志を交わしていた。



----ようこそ、こっち側へ! とでも言っておこうかな?

----ああ、ありがとうな。俺は今、本当に幸せだ。

----おめでとう、そして……さようなら、かな?



 何やら意味深げなエィストの意志を受け取って、エドワースはその事すら楽しいと感じながら走り去っていった。自分から組織を飛び出して行く事に何の迷いも無い。

 恩人や仲間達への未練や苦しみ、悲しみが無い訳ではなかったが、その感情すらも楽しめてしまう。『楽しい』が感情を塗り潰していく。それが楽しくてたまらなくて、エドワースは笑った。



「待てっ!」



 そのエドワースを、ケビンは必死に追っていった。

 周囲の者達がおぞましい物と扱おうが、彼にとっては元部下なのだ。追わねばならず、またケビン自身にも彼を放置する理由はどこにも無い。

 だが何より、例え刺し違えてでも、エドワースを止めなければならない。その覚悟をさせる程、今のエドワースは危険な存在だった。

 そう、Mr.スマイルではなくエドワースとしての彼が、とても危険なのだ。








「身内にサイコキラーが居たってのは……悲しい話だな」


 記者のアール・スペンサーという名前を持っているホルムス・ファミリーのボスは、そう呟いて彼らの喜と楽を眺めながら酒に口を付けていた。

 既に、銃を持っていた時の威圧感は発せられていない。その事に喜びを感じながらも、隣に居るサイモンはエドワースが消えていった入り口を見つめて、呟いている。


「あのおぞましさ、Mr.スマイルでもあそこまでは行かなかった様な……何がエドワースをそこまで」

「まあ、原因はあいつしか居ないだろうがな」


 小さな呟きを耳聡く聞き取ったアールは静かに声を返す。同じ様に視線は入り口付近に注がれているが、目はエィストに向けられている様だ。

 瞳の中を何度見ても、数日前の憤怒は見えてこない様に思えた。Mr.スマイルへの怨念を何とか振り切った彼は何やら奇妙な言動を取ったエドワースに対しても冷静に観察する事が出来たのだ。

 その事が彼に絶対の落ち着きをもたらしていた。実際、エドワースが変質した時に最も平静を保っていたのも彼だった。


「もう、ボスの事は心配要らないな」


 その様子を、サイモンは嬉しそうに見る。この時だけは、やはりエィストやエドワースの事よりもアールの方を優先する事が出来ている。

 完全に冷静な感情を取り戻したアールはサイモンの手が必要ではない程に精力的に動き回っていた。少なくとも、今回、Mr.スマイルに殺された者の遺族への対応は粗方終わった所だ。

 顔に疲れを宿した様子は何処にも無い。実は、パトリックを入れた三人は丸二日間寝ずに組織の復旧に尽力した為に疲れを溜めている筈なのだが、この二人は僅か数時間の仮眠で全快に見える程度まで回復している。


「……アールさん、本当に追わなくても良いのですか? いや、我々としては貴方の方が話しやすいので大歓迎ですが」


 満足そうな目をするサイモンを余所に、プランクはアールへ声をかけた。何も感じさせない冷たい声ではあったが、どこかサイモンの扱いが悪い。

 無理もない。タイミングとしては少なくとも今では有り得ないと分かっていても、『ボス』の為であれば取引相手の命をあっさりと奪う事は伝わって来るのだ。それも、適当に罪を擦り付ける姿まで目に浮かぶ。


「良いのさ。俺がやるべきは復讐じゃなく、あいつらを弔って、組織を守っていく事なんだ。船の上で、気づいたよ」


 とてもではないが、話し合いがしたい相手ではあるまい。プランクの態度に納得しながら、アールは純粋な本音で返事をする。そこにあるのは主に穏やかさだったが、同時にプランクに対する遠慮もあった。


「お前こそ良いのか? 部下を俺の娘に……」

「脱出した時にも言ったと思いますが、『この町の組織同士協力』ですよ。船での事は船での事、沈んだ船の賠償なんて請求しても全額戻ってくるのは何年後ですか、そんな無駄な事はしません」


 張り付けた様な笑みを浮かべるプランクは、どこか憂慮する様なアールの視線を笑い飛ばすかの様に返事をして見せた。

 その笑みは何の暖かみも、それどころか人間味ですら無い物だが、少なくとも先程のエドワースよりはずっと信じられるだろう。


「おや、映画の様ですね。彼の所の部下でしょうか」

「だろうな、あいつしか居ない」


 つまり、プランクが浮かべているのはそういう笑顔だった。





「……ふ、ふふ。そうだよねぇ、メインイベント。ラストの結末無しに終わる筈が無い。これが良いんだ、これが……」


 消えていったエドワースを幻視するかの様な目で、リドリーは虚空を見つめていた。どこか演技臭さの漂う気配はよく感じ取ってみると一人の少女を捉えている様だ。

 だが、それ以上に『物語』の最後を自分の目で見れない事への残念そうな空気を纏っているのが印象的だった。

 勿論、それは彼を余程注目した者のみが理解出来る事である。そして、もう彼へ強く視線を送る者は居ない。リドリー自身が存在感を薄くして、出来るだけ目立たない様にしているのだ。

 異様に悪目立ちする彼が目立たないというだけで十分な努力だ。そこには、一つの企みを完全に成功させる為の理由がある。


----ジェーンに、うまくやって見せて欲しいねぇ。


 そう、船から生き残った少女の命の使い所、最後の目的、それを果たす事こそ、この『物語』をエンディングに導くとリドリーは信じている。

 だから彼はエドワースをわざと逃がした。掴んだ腕の力を気づかれない様に緩めて、出来るだけ彼が逃げやすい位置にリドリーは立っていたのだ。

 これはエィストも同じで、二人は事前にあの状況からMr.スマイルを、リドリーを逃がす手段を準備していた。

 何故か妙な方向へ覚醒してしまったエドワースに対して少々惜しい気持ちもあったが、リドリーはそこまで欲を張っていない。少し迷ったが、ジェーンの『ラストシーン』を優先する事に変わりない。

 きっと、これがバレたらまた殴られる。そう感じたリドリーは軽く自分の頬に触れた。余り目立たないが、そこには確かに強烈な拳を叩き込まれた記憶と痣が残っている。

 かなり痛かったが、だがそれでもリドリーは行動を改めるつもりは欠片も無かった。世の中を『物語』とする『登場人物』の彼にとっては、親愛の籠もった拳ですらもある種のイベントなのだ。


「……よし、次の物語は何時になるのか……いや、今も上映中か」


 彼は、腫れた頬など気にもせず、独り言を呟きながらジェーンの事を頭から消し去っていた。彼女の最後のシーンを見る事は出来なくとも、まだまだこの世界の登場人物として、リドリーにはやらねばならない事があるのだ。

 何より、明日にはどうなったかだけは分かる。そう判断したリドリーは映写機として置かれたプロジェクターへ近づいていき、皆が各自で騒いでいる空間の中へ溶けて行く。

 だが、混じり合った色の中に黒色を混ぜ込む様な存在感がリドリーから発せられて、周囲に居る者達の視線は彼へと集中した。


「……まあ、色々あったがそれは良しっ! 今日のメインイベントはみんなで映画鑑賞だよねぇ!」


 自分の存在感を誇示する様に大声を上げると、リドリーは映写機を操作する。瞬く間にスクリーンには慣れた者では無くとも一瞬で分かる映画会社のロゴが画面に映し出された。


 どうやら、最初から皆で映画を見ようと映写機を設定、準備を整えていたらしい。リドリーの仲間達の顔を見た限りでは、誰にも告知していなかった様だ。

 油断も隙もないのだが、全員が予想はしていたのだろう。どこか諦観の混じった者や、嬉しそうに身を乗り出している者まで居る。慣れているのだろう。


「あのリドリーという男……何だろうな、ちょっと、嫌な感じだ。ボスが大丈夫って言うなら、大丈夫なのかもしれないが……」

「不安な感じは、あるよな」


 そんな観察をしていたパトリックとスコットは、リドリーに対して不気味そうな目を向けた。エィストよりは幾分か関わりやすいが、危険度ではそう大した差は無い。

 どちらに関わるにせよ、自分が破滅する事は覚悟しなければならないのだろうな、と、リドリーと関わった為に海の底へ沈んだジェーンの事を思い起こして、パトリックはとても悲しくなる。

 そう、彼女は海へ沈んだのだ。共に沈んだ筈のリドリーが生きているというのに、彼女はパトリックの中では死んだ事になっていた。

 不思議だと思わない訳ではなかったし、助けた者がエィストと名乗る存在では言葉に信憑性が無い。だが、それでもボスが『ジェーンは死んだ』と言うのだから、納得したのだ。

 悲しいが、パトリックにとっては納得せざるを得ない言葉だった。





「そうだ、コルム君! 一緒に飲まないか? いや、君には迷惑をかけてしまった。すまないと思ってるんだ、奢るよ」

「い、いや……俺は、何だ……勘弁してくれよ」

「そう言わずに、ね? 駄目?」


 一方、エィストは軽やかな笑みを浮かべながらコルムへ絡んでいた。

 彼女もまた、エドワースの盾になる事で彼を逃がす事に成功している。もうこれと言ってやらねばならない事はなく、後はこの場所で生き残り記念パーティを楽しむだけだ。

 そう決めたエィストはそれはもう幸せそうにコルムへ話しかけている。彼やプランクに対しては本性を見せる機会が無かったからか、『カナエ』の狂人という評価を覆す勢いだ。

 だがやはりと言うべきか、コルムは船の上でのカナエに対してトラウマを負ってしまった様で、嫌そうに距離を取ろうとしている。もうかなり入っている酒の効果なのか逃げる事はしないが、それだけだ。


「ね、お話をしよう? 君には一杯怖い思いをさせちゃったから、私、反省してるんだ。それに、私は怖い奴じゃないって知って欲しいの」

「だ、誰か助けてくれ……コイツやばい、頼む……」


 すり寄る勢いのエィストに対して、何とか距離を保ちながらコルムは周囲へ助けを求める。彼の周りで酒を飲み交わしているのは主に売人達で、その間に船員が何人か居る。

 仲は良好な様で、楽しく酒を飲めている様だ。が、コルムからの助けを求める声を聞き取った彼らは一斉にコルムを視界に入れない様にして、口だけは哀れむ声を上げた。


「コルム……頑張れよ」

「骨は拾って……やれないな、大人しく骨までしゃぶられろよ」

「おや、どうやら彼は余程エィストが恐ろしい様だ。そうだろう、私も恐ろしいと考えている。同情的な気持ちを抱いた私だが、手を貸す事は無い。頑張ってくれと声をかける以外には出来る事が無いのだ。悪いとは思いつつも、私は酒を口に一度、ああ、忘れてしまった」

「いや、まあ何だ。外見だけは最高なんだから、大人しく一緒に飲んで……いや、悪い。忘れてくれ」


 心の底から哀れむが、絶対に助けない。関わりたくない。彼らの目はそう言っている。コルムにとっては退路が絶たれたに等しい状況だ。

 エィストは硬直するコルムにしなだれかかって、微笑んだ。どこか甘える様な態度が異様で、だがコルムに対する物としてはこれ以上無い程に有効的に思えた。


「ね、君は私に、こう言ってくれたよね?」


 動かないコルムのすぐ側にまで来てしまったエィストは、コルムの顔をじっと見つめ、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 少しであっても、周囲がそれとなく距離を置く程度にはエィストは異様な空気を放っていた。コルムはもう体が硬直しているのか、不思議と異様な空気に動じる様子は無い。

 が、次にエィストが言った言葉にはいい加減に慣れてきたコルムでも思わず頭を抱えそうになる物があった。


「……『理性があったら、魅力的な美人だ』って言ってくれた。あれ、言われた時ね、嬉しかったんだ」


 悪戯っぽい不敵な笑みを浮かべた彼女は、そんな事を言ってコルムの顔を覗き込んだ。それは紛れもなく、相手の反応を楽しむ顔であり、それ以外の感情は見られない。

 ただ、嬉しかったのは本心だったらしく、少し笑みの調子が『ニヤケた』方向性を帯びているのは気のせいではないのだろう。


「ほらほら、私には今、理性があるよ? 今なら、どう思う?」


 硬直するコルムに対して、追い打ちを仕掛けるかの様にエィストは両手で頬を包み込んで視線を合わせた。

 感触としては軽く触れる程度だが、それが逆に『絶対に逃がさない』と言っているかの様で、纏う雰囲気は不気味を通り越して神秘的な程である。

 そんな絶体絶命、の様な状態に陥ったコルムは硬直したまま、何事かを考えている。少なくとも、周囲に居た者達の目にはそう写った。

 その時、少し離れた場所でスクリーンに映画が映った。


「ん? あ、リドリー君。持ってきたんだ、ふふっ。私もあの映画は好き」


 数秒間、エィストの注意がスクリーンに向けられる。両手の頬に触れる感触は先程よりずっと弱い物となっていて、今ならば逃げる事も出来そうだ。

 そう考えたのか、コルムは自然体の動きでエィストの拘束からあっさりと抜け出す。焦っている様で、心根では冷静だったらしい。

 コルムが立ち上がると、ようやくその動きに気づいたのかエィストが注意を戻す。不満そうな顔ではなく、むしろ楽しそうではあるが、やはり恐ろしい雰囲気は拭えない。

 それに対してコルムは何やら一瞬だけ考え込むと、口を開いた。


「……おっと、俺は用事を思い出してしまった。実は今日の夜、薬を欲しがってる奴と会う約束をしていたんだ。名前は……ウォレスだったか、それじゃ、な!」


 どう聞いても白々しい嘘にしか聞こえない内容だった。子供でもまだマシな言葉を思いつくだろう。

 実はかなり酔っているコルムは酔いで逃げる方法すらまともに考えられなかったのかもしれない。哀れむ周囲の者達だったが、コルムの動きは思ったより素早い物だった。

 エィストが止める前に話し終えると、彼女が何かを言う前にこの場所から出ていったのだ。有無を言わさない動きは確かにエィストにも効果があったらしく、彼女は黙ったまま笑みを浮かべてコルムを見つめていた。


「んー……逃げられちゃった」


 小さく、エィストは呟く。その目は楽しい玩具を見る様な、だがある種の人間への尊重を感じられる視線だった。

 その目を見ているのかいないのか、コルムが逃げ仰せた事を確認した者達の中の背の高い、とても上等なスーツに身を包んだ男が馬鹿にするかの様な顔をする。


「はは、フられちまったな。ざまあみやがれ、でもあのスーツは気に入った」

「おいっ、下手にあいつに関わるなよ……!」


 男がエィストに声を放った途端、隣に居た背の低い男が嫌そうな顔でスーツの男の肩を何度も叩く。だがスーツの男は上機嫌で、改めようともしない。

 背の高い、最高のスーツを纏った男は文字通り、最高の気分の良さを味わっていると全身で表している。強烈な喜びの感情は感染してしまいそうな程だ。

 だが、エィストはそんな男に対して少しばかり『悪い事をしてしまった』と言いたげな顔をした。男が元々着ていた服は、まだ修繕の最中なのだ。

 代わりに彼女は約束通り、知る限り、金が許す限りで最も良いスーツをプレゼントはしたが、それで彼女の気が晴れる訳ではない。

 そちらに関してはあくまで約束を守っただけであり、借りたスーツの方はその限りではないのだから。


「……ああ、その……借りた奴は直して返すから、ちょっとだけ待ってね?」

「あ、いや、別にあれに思い入れがあった訳じゃないから貰っても良いんだぞ? こんな良いスーツと交換したんだと思えば安いさ」


 男は極めて上機嫌な様子でエィストの言葉を跳ね除けた。どれだけ言っても、恐らく今日の彼はそれ以上の事を絶対に言わないだろう。

 そう理解したエィストは、少し後ろめたそうにしながらも別な方向へ歩いていく、そこには、プランクが居た。




「少し意外でした。あなたは人の持ち物など粗大ゴミ程度にも思っていないとばかり」


 エィスト達の会話を横から聞いていたプランクは開口一番そう切り出してきた。言葉の中には純粋に驚く気配が含まれていて、珍しく確かな意志を感じさせる。

 そんな声を聞き取ったエィストはわざとらしいくらいに肩を落とし、不満そうにプランクの顔を覗き込んだ。

 が、何故だか今回はすぐに目を逸らし、少しだけ顔を赤くしながらの返答となった。


「むう、私は物を大事にする気持ちが分からない様な奴だと思っていたんですか?」

「いえ、者と物など、あなたには大した差が無いでしょう」

「その通りですけど……でも、つまり、私は人も粗大ゴミ程度にしか思ってない、なんて思われてたんですか」


 プランクの言葉を肯定しながらも、エィストは何やら落ち込んだ様子で言葉を吐いている。

 独り言なのか、小さく『これでも大事にしているつもりなのに』と呟いている所が何とも彼女らしい。そう感じたプランクは、あえて顔に苦笑いを混ぜた。


「自分の行動を省みてそう感じないとは。ああ、あなたには頭のネジが初めから無い証拠ですね、まあ……」


 そういう所も好きなんですが。

 会話の最後を締める言葉はエィストにしか届かなかった様だが、恐らくはそういう意味合いの物だったのだろう。一気に顔を赤くして、より強く顔を逸らすエィストの態度がそれを物語っている。

 どうやら、直球でそういう事を言われるのには弱いのかもしれない。逸らされた顔は相変わらず楽しそうに笑っている辺りその辺も微妙に怪しいのだが、気にしてはならない。

 数秒間、そのまま沈黙が続いた。気まずい訳でもなく、むしろ幸せな沈黙。すぐ側に居るサイモン達が死にそうな顔をしていたが、二人は気にしない。

 これではまるで初々しい恋人寸前の関係ではないか、そう思ったプランクはそっとエィストの顔を見て、そこにある物から話題を取り出した。


「……ところで、その痣はどうしました?」

「あー……ボスに殴られちゃいまして、ちょっと……悪ふざけが過ぎたかもしれないなぁ、反省、反省っと」


 自分の頬を軽く撫でて、エィストはまるでそんな事を一切合切考えていない口調で反省を口にする。が、プランクは気にしない。

 その代わり、彼は少しエィストから目を逸らす。流石にコレを言うのは少し恥ずかしかった様だが、それでも彼は声に本心を乗せていた。


「……痣くらいじゃ、その美貌と強烈な人格は小揺るぎもしませんよ」

「わ……わわ、わぁ! そ、それって……う、嬉しいなあっ! あんまりそういう褒め方をしてくれる人って居ないから……あぁ!」


 一気に顔を真っ赤にしたエィストは、椅子から立ち上がって幸せそうに笑った。恐らく、今日で一番の笑みだろう。

 それを見る事が出来たのを内心では幸福に思いつつも、プランクは遠くを見る様な目をする。どうも、エィストが側に居るとプランクの魂に熱が籠もってしまう様だ。

 それは恋や愛と呼べる感情なのかもしれないし、もしかするとただ異様な存在に憧れているだけなのかもしれない。プランク自身は恋の確率が一番高いと踏んでいるが、確かではないのだ。

 自分の感情に戸惑う様な姿を見せる訳にも行かない彼は、それを誤魔化すかの様に話を続ける事を決める。何故かその顔は----傍目には、自分の『楽しい』に戸惑っていたエドワースと被って見えた。


「そうそう、あなたが船を沈めた一件ですが。あちらのケビンさん、いえ、----さんに命を助けられた事と、あなたに免じて許してしまいました」


 だが、プランクは全ての感情を隠しきった声で告げる事が出来た。エィストも珍しく奥にある物を読みとれなかったらしく、軽く頷く。


「へえ、それは助か……っ!?」


 それから礼の言葉を述べようとして、エィストは途中で言葉を止めた。

 彼女がプランクへはっきりと正体を現したのは、全てが終わった後の事だ。その瞬間までは、カナエがエィストである事を彼は知らなかった筈なのだ。

 船が沈んだ時には既にケビン達に対して船を爆破した事を棚に上げて協調を示していたという事をエィストは聞いていた。

 そして、彼女の正体に気づいていたから『許した』のだと、プランクは言っているのだ。つまりそれは、早い段階でエィストの正体に気づいていたという事に他ならない。


「……いつから、気づいていた?」

「おや、私が同じ町に居る重要人物に気づかずあなたを組織に入れた。本当に、そう思いませんか。エィストさん?」


 意味深げに『エィスト』と呼んで来るプランクの声を聞いて、彼女は納得する。恐らく、最初に接触した時から正体には気づかれていたのだろう。

 ある程度は隠していたつもりだった様だが、最初からバレていれば無意味でしかない。こうなると、彼女が壊した店のお手洗いを弁償したのも、彼なのかもしれない。

 彼女の事を分かった上で新たな名前を付け、大人しくする為と称して薬漬けにして来る。好きな子に意地悪をする子供の発想なのだろうか。そんなよく分からない事を考えつつも、エィストはプランクの手を取る。


「ははっ、嬉しいですね。成る程、引っかかってくれた訳ですか。あ、それと……」


 握る手を何度か振って、エィストは自分の顔をプランクの耳元に寄せる。顔が少し赤いが、言葉ははっきりとした意味を持って囁かれた。


「カナエ、で良いですよ。あなたが付けてくれた、大事な名前ですから」


 そう言うと、彼女は顔を元の場所へ戻して微笑む。恥ずかしそうな顔をする姿は、彼女もまたプランクの気持ちに答えようとしている様に思えた。

 そう----『答えようとしている』だけだ。プランクのまだはっきりとしない感情を巧みに受け取り、エィストはそれを楽しみながら返答をしている。

 それはつまり、彼女の意志とは別の所で返事をしている事に他ならない。勿論、ある一定の好意は抱いているのだろうが、此処まであからさまな物ではない筈だ。

 気持ちが届いている様で、実は届いたフリをしているだけなのでる。そんな所が実に小憎らしく、プランクは遠くを見る。

 例えコレが初めて抱く恋心であっても、彼女は本当の意味では真剣な返事をしてくれる事は無いだろう。小さな溜息が漏れ出たが、次の瞬間にはプランクは明るく微笑んでいた。


「ああ、だからあなたが大好きです」


 そうでなくてはならない、プランクの頭はそう考えていた。エィストへ気持ちを向ける理由は彼女の存在、特徴的な人格や、プランクの魂を揺るがした異様な雰囲気にあったのだ。


「……ん? うわっ……!」


 そんな事を思いながらエィストを見ると、何故か彼女が純白のウエディングドレスを着て、普段とは違う怜悧な微笑みを浮かべている様な気がした。勿論、ただの幻想でしかありえないのだが。

 慌ててプランクが心の中で首を振ると、その想像はあっさりと消え失せる。現実に視界に居る彼女はダークスーツを身に付けていて、色合いも雰囲気も全く違う。


「ん? どうしたの?」

「……い、いえ。何でもありませんよ」


 普段通りのエィストの声に返事をしつつも、プランクは「ドラッグにハマってる訳でも無いだろうに」と自戒した。

 が、同時にエィストが見せたのではないか、という疑いが沸き上がって来る事は否定出来なかった。もはや完全に人間扱いされていないが、それはそれである。

 ともかく、プランク自身も自分の気持ちを理解できている訳ではないのだ。まだ答えを探している段階、そんな状態であの様な幻覚を見るほど追いつめられた覚えもない。

 もしかすると今の幻覚こそがその答えなのかもしれないが、そこはあえて無視し、プランクは「自分の戸惑いを楽しもう」と開き直った。



「……あなたの事が大好きですよ。色々な、意味でね」



 そして、プランクは置かれていた酒に口を付ける。

 ある意味で強い気持ちを告白した事が少しだけ恥ずかしかったからか、一度だけエィストから目を離している。視線が行ったのはエドワースが出ていった入り口の付近だ。

 酒に口を付けながらも、プランクはそこにあった物が何時の間にか無くなっている事に気づいた。



----おや、Mr.スマイルの仮面は……どこに?

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