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3-1

 李絳の矢神の里行きが決まった夜ーー紅家は昼間の賑やかさを収め、ひっそりとしている。

 それもそのはずで、時間は既に深夜を迎えている。この時間になっても仕事場に残っているのは、当主を含めた数人だけである。


 梨淑は己の執務室でいつものように仕事をしていた。ふと、手を止めて窓の外を振り返る。

 しんと静まり返った闇だけが顔を覗かせているのを確認して、小さく息をついた。

 まるで彼の一族を思わせる景色に昔を、あの少女を思い出す。

 紅家が藍家を離れる前に一度、そして惨劇の夜に一度――二度、顔を合わせた彼女に関する記憶は、まだ幼さを残した姿と交わした会話、そして、何の感情も示さない冷たい無表情だった。


 かつて、紅家は藍家が居を構えていた藍の里に別邸を建て、本家と行き来しながら暮らしていた。それは、この東の地に立った時から変わることはなかった。

 だが、藍家の先代――藍夏崔(らんかさい)が当主を退いた頃から今までのようにはいかなくなった。藍家に纏わりつく不穏な空気に、疑問を感じ始めたのだ。

 そして、先代の早すぎる死の知らせを受け、紅家は藍家を離れる決意をした。実際にはそれから数年して藍家を離れることになったのだが、それ以上ともにいれば、紅家は藍家の滅びに巻き込まれていただろう。

 そして、また数年が経って梨淑は藍家を離れる際に言葉を交わした、あの少女に再会した。

 藍家当主の亡骸の傍に彼女は立っていたのだ。数えきれないほどの死体の中を進み、またも多くの死体の中、彼女は当主の傍に立ち、それを見下ろしていた。


 顔をぴくりともさせず無表情に立つ彼女の姿を思い出して、梨淑は苦々しげに顔をしかめた。

 振り切るように首を振って、再び窓の外に広がる闇を見つめた。


「見守っているのか、はたまた、覆い尽くそうとしているのか。……闇が、彼らのようだ」

「――何の話だ?」


 ひとり呟く自身におかしく思った時、思考に水を差す者がいた。晴燕である。

 彼は扉を閉めると、まっすぐこちらに向かってくる。手にしていた湯呑を片方、こちらに示した。


「雅楽が茶を淹れてくれた」

「まだ残ってるのか。今日はもう帰したと思ったのだが」

「他にもいつもの奴らは残ってるぞ。今、下で休憩してんだろ」


 ということはまだ帰らないつもりらしい。梨淑は湯呑を受け取って苦笑した。

 晴燕や雅楽を始めとした彼らは、当主の――つまり、梨淑の補佐である。晴燕は護衛の意味合いの方が強いが、彼らは皆優秀だ。昔からともに行動してきただけあって、非常に助かる存在なのだ。

 ただ一人、雅楽だけは武芸者でも一族の出でもなかったが、よく働いてくれている。


「で、何の話だ?」

「……彼らの話だ」


 視線を外に向けると、それで理解して晴燕は頷いた。そして、ふと思い出したように梨淑を見た。


「伝えたのか?」

「いや、憶測で物を語るべきではないからな。それに真実を知っているのは彼女だけだ」

「つったって、姫さんに聞いたことははっきりしてるだろ。――待て、じゃあ姫さんのことも言ってないのか?」


 息子たちに告げた内容は、最小限に留めてある。梨淑がふっと息をつくと、晴燕は面白がるような、同情するような笑みを浮かべた。


「怒られるぞー、絶対。どうせ、お前の言いようから男だと思ってるぞ。しかも姫さん、そんな状態の李絳たちに会ったら絶対、名乗らねぇだろ」

「李絳なら簡単に騙されるかもしれん。だが彼女はあれの前に出なければならない。恐らく、あの時と同じように」

「まぁ、どう見てもあの里で"異質"な姫さんは李絳もほっとけないだろうし、気付かないほどバカじゃない」

「それこそ気付かなければ仕置きだな」

「ふ、徹底的に鍛え直してやろう。……李絳はどうするかな」


 最後の晴燕の呟きは、ただの確認に思えた。


「あれが姫の思い通りに動くとは思えないだろう。李遊は分かっててあえて誘いに乗るかもしれないが、李絳ならそうそううまく事が運ぶことはない」

「うまい具合に李絳に任せたな。しかも、何も聞かせないとはな」

「すべては姫を守ることの方が先決だからな。それには先入観など必要ない。……いや、あってはいけないんだ」


 何も知らない人間の方が、今の彼女には言葉が届くはずだ。誰かを通して、告げられる言葉は時に不信に繋がることもある。


「俺たちじゃ、姫さんを知り過ぎてるからな。それに先のことも考えると、姫さんには別の人間が必要だ。だが、万が一のことを考えなくていいのか?」

「それは、どちらの意味だ? ――姫は色家に手を出せないし、李絳についても同じだ。姫を守らずにはいられない。それでも、万が一、というなら彼女次第だな。彼女が約束を守っている限り、希望はある」


 どちらの身も心配してる彼らにとって、一番重要なのはそこだった。



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