エピローグ 休暇の終わり
整備工場の広い空間に、一台のバスが鎮座していた。
一週間ぶりに見るその姿は、まるで別物のようだった。
外装は新品同様で、傷一つない滑らかな表面が照明を反射して輝いている。タイヤも新しく交換され、窓ガラスは透明度を取り戻していた。
機動七班のメンバーが、それぞれバスの周囲に集まっていた。
臥龍岡孔明は、タブレットを手に七罪へ近づいた。
「逢魔警部」
孔明は淡々と言った。
「請求書だよ」
七罪は気だるげにタブレットを受け取ると、視線を画面へと落とした。
いつも通りのポーカーフェイス。だが、並んだ数字の桁を目にした瞬間、その端正な眉がわずかに、しかし明確に跳ねた。
「……高い」
「フルメンテナンスに加えて、特注の装甲材も一部新調したからね。相応の額さ」
孔明は肩をすくめた。
澪は不思議そうに二人を見た。
「あの……どうして逢魔警部が、個人的に請求を受けているんですか?」
澪の問いに、孔明は眼鏡の位置を直しながら答えた。
「このバスはね、逢魔警部の私物なんだよ」
孔明の淡々とした言葉に、澪は絶句した。
思考が一瞬停止する。理解が追いつかない。
「え」
澪は目を丸くした。
「私物、ですか」
「ああ」
孔明は頷いた。
「警察の公用車ではなく、あくまで個人のものとして利用している。だから維持費や修理費、燃料費に至るまで、すべて逢魔警部に請求されることになっている」
孔明は苦笑した。その表情には、わずかな皮肉が混じっていた。
「そうでなければ、他班から金を使い過ぎだと非難されただろうからね。警察組織というのは、どうしても平等性を重視する。特別扱いは嫌われるんだ」
「他の班は?」
「東京を拠点として、出張扱いでダンジョン事件の調査に当たっている」
孔明は説明した。
「宿泊費や交通費は支給されるが、それでも不便は多い。我々だけが、このバスで全国を移動している。ある意味では特別待遇だよ。もちろん、その代償として逢魔警部が費用を負担しているわけだ」
澪は改めてバスを見た。
巨大な車体。特注の内装。最新の設備。
このすべてが、七罪の私物。
その事実は、七罪という人物の輪郭をさらに曖昧にした。一体どれほどの資産を持っているのか。そもそもなぜ、ここまでして機動七班を支えているのか。疑問は深まるばかりだった。
その時、纏が真っ先にバスへ駆け出した。
「……やっと……帰れる……」
纏の声は、安堵に満ちていた。猫耳フードが揺れ、その小柄な身体が軽やかにバスへ向かう。
だが次の瞬間、纏の身体が宙に浮いた。
七罪が、纏の首根っこを掴んでいた。
まるで子猫を持ち上げるような仕草。纏の足が地面から離れ、空中でばたばたと動く。
「ちょっと待った」
七罪は気だるげに言った。
そして請求書を纏の目の前に突きつけた。
「これ、何?」
纏は画面を見た。
そこには、最新型のワークステーションPC三台、高性能サーバー機器一式、大容量ストレージシステム、そして各種周辺機器が、合計数百万円で購入されたことが記載されていた。
纏の顔が、青ざめた。
「……必要……経費……」
纏の声が、震えていた。
「まあ、纏を誘った時の条件だからいいけど」
七罪は肩をすくめた。
「これ、本当に必要? 『量子』の異能があれば良くない?」
七罪の疑問は、もっともだった。纏の異能『量子』は、通常のコンピュータを遥かに凌駕する演算能力を持つ。ならば、高価な機器など不要ではないのか。
「ソレハ……」
纏が何か言いかけた時、ラプラスのホログラムが割り込んだ。青白い光が空中に浮かび、少女の姿を形作る。
『シチミン、説明するね☆』
ラプラスは空中に図表を表示した。CPUのアーキテクチャ図、メモリ構成図、ネットワーク帯域の比較グラフが次々と現れる。
『纏の「量子」は確かに高速演算が可能。理論上は現代のスーパーコンピュータを超える処理速度を発揮できる。でもね、持続時間と処理範囲に限界があるんだよ☆』
ラプラスは図表を指しながら続けた。
『纏の異能は集中力に依存する。長時間の監視タスクを走らせ続けることはできない。大規模データベースの構築には、数日から数週間かかる場合もある。リアルタイム解析の同時並行処理も、纏一人では対応しきれない。だから専用ハードウェアが必要なの☆』
ラプラスはさらに詳しく説明を始めた。
『新しいサーバーは冗長化システムを採用していて、一部が故障しても全体が停止しない。RAID構成でデータの安全性も確保されてる。バックアップも自動化されていて、万が一の時も復旧が可能。セキュリティも最新規格で、外部からの侵入を防ぐ多層防御を――』
「分かった分かった」
七罪は手を振った。
「もういい。買ったものは仕方ない」
纏の足が地面に着く。纏は一瞬よろめき、それから体勢を立て直すと、即座にバスへ駆け込んだ。まるで逃げるように。
バスの中は、外装と同様に綺麗に清掃されていた。
床は磨かれ、僅かな埃も残っていない。窓は曇り一つなく、外の景色が鮮明に映る。空気清浄機が新しく設置され、微かに柑橘系の香りが漂っていた。レモンとオレンジを混ぜたような、爽やかな匂いだ。
纏は自分の部屋へ直行した。扉が閉まる音が響く。
澪は廊下を歩きながら、バスの変化を確認した。
壁紙が一部張り替えられている。照明も新しくなり、以前よりも明るく感じる。床のカーペットも交換されており、足に伝わる感触が柔らかい。細部まで手入れが行き届いている。一週間のメンテナンスの成果だった。
澪はミーティングルームへ向かった。
扉を開けると、七罪が既に椅子に座っていた。
窓の外を眺めている。その横顔は、いつもの気だるげな表情だった。外の景色――整備工場の他の車両、作業する整備士たち、遠くに見える道路――を、何を考えるでもなく眺めている。
澪は七罪の正面に座った。
テーブルを挟んで向かい合う形になる。
沈黙が落ちる。
工場の機械音が、微かに聞こえる。誰かが工具を落とす音。遠くで笑う声。日常的な雑音が、静寂を縁取っていた。
澪は深く息を吸い、決意を固める。
「逢魔警部」
澪は真剣な目で七罪を見た。
「私の父親について、聞かせて下さい」
七罪の表情が、わずかに変わった。
眉が動く。視線が澪に向けられる。
「……『アレ』から何か吹き込まれた?」
七罪の声には、警戒が滲んでいた。
「一色彩が、ですか?」
澪は不思議そうに首を傾げた。
「いえ。一色彩からは、何も」
澪は首を振った。
「修行中も、父のことについては何も言われませんでした」
七罪は澪を見た。
その目は、何かを探るようだった。
「逢魔警部は、魔人に詳しいですよね」
澪は続けた。
「それに、皇帝の近衛なんですよね?」
「……」
七罪は何も答えなかった。
ただ、澪を見つめている。
「だから、父のことを知っていたら」
澪の声が、わずかに震えた。
「教えて下さい」
沈黙。
七罪は少し考えた後、静かに言った。
「知らない」
澪の表情が、曇った。
希望が、しぼむ。
「でも」
七罪は続けた。
「全ての魔人のことは、皇帝は把握してる」
「皇帝が、ですか」
澪は身を乗り出した。
七罪は自分の指先を眺めた。
そこには傷一つない。滑らかで、完璧な肌。
だが、かつて。
その指先に、わずかな傷を残した存在がいた。
「――もしも」
七罪はゆっくりと言った。
「もしも澪が――私の指先にでも傷をつけられたら」
七罪は澪を見た。
「皇帝に掛け合って、澪のお父さんのことを皇帝に聞いてあげる」
「――本当ですか!」
澪は身を乗り出した。
椅子がわずかに後ろへ滑る。
「私は一度交わした契約は反故にはしない」
七罪の声は、静かだった。
だがその言葉には、確固たる意志が込められていた。
「どうする?」
「わかりました」
澪は拳を握りしめた。
「絶対に、逢魔警部に傷を負わせてみせます!」
その声は、力強かった。
決意が、言葉に宿っている。
「期待してるよ、澪」
七罪は小さく笑った。
その笑みは、いつもの気だるげな表情とは少し違っていた。
どこか、楽しそうに見えた。
まるで、興味深い実験の結果を待つ研究者のような。
あるいは、成長を見守る教師のような。
『システムオールグリーン☆』
ラプラスの声が、バス全体に響いた。
スピーカーから流れる明るい声が、バスの隅々まで行き渡る。
『出発進行~☆』
バスが動き出す。
エンジンの低い唸り声。タイヤが地面を捉える感触。
低い振動が床を伝い、景色がゆっくりと流れ始めた。
整備工場の出口へ向かう。外の光が、フロントガラスを通して差し込んでくる。
ミーティングルームの壁に掛けられたモニターに、日本地図が映し出された。
各地で発生している事件が、赤い点で表示されている。
大阪。京都。名古屋。東京。仙台。
日本全国に、事件は散らばっていた。
孔明がタブレットを操作しながら、優先度を定めていく。警察庁と連絡を取り、調整を進める。それが孔明の役割だった。
澪はモニターを見た。
赤い点が、いくつも点滅している。
それぞれの点の向こうに、人々の困難がある。危機がある。
そして、自分たちが向かうべき現場がある。
「一週間の、長いようで短かった休暇は終わりだな」
迅が呟いた。
休憩スペースから、その声が聞こえてくる。
バスは整備工場を出て、一般道へ入った。
そして高速道路への入口へ向かう。
速度が上がり、景色が速く流れていく。
澪は窓の外を見た。
流れる街並み。走る車。歩く人々。
日常の風景。
だがその日常の裏側に、ダンジョンという非日常が潜んでいる。
一週間の休暇。
澪にとって、それは様々な経験の詰まった時間だった。
母の死を思い出した。病室の白い天井。母の最期の言葉。「愛している」という、震える声。
勇華との出会いを思い出した。高度警戒迷宮での敗北。「運命から目を逸らすな」という、優しくも厳しい言葉。
そして彩との修行。屈辱的なコスプレ。何度も叩きつけられた床。それでも諦めなかった自分。
自分の中で、何かが変わった。
怒りを、少しだけ制御できるようになった。
力を、少しだけ理解できるようになった。
そして、目標ができた。
七罪に傷を負わせる。
そうすれば、父のことを知ることができる。
澪は拳を握りしめた。
まだ遠い目標。
七罪の強さは、計り知れない。深層のモンスターを一瞬で倒し、彩を一言で瀕死にする。その力に、どうやって傷をつければいいのか。
だが、諦めない。
「澪」
七罪が声をかけた。
「はい」
「一つ、忠告しておく」
七罪は澪を見た。
その目は、真剣だった。
「お父さんのことを知ったら、貴女は多分、苦しむことになる」
澪は息を呑んだ。
その言葉の重みが、胸に刺さる。
「それでも、知りたい?」
澪は少し考えた。
母の言葉を思い出す。「お父さんは魔人なの」。
その言葉が、ずっと澪を苦しめてきた。
真実を知れば、もっと苦しむかもしれない。
だが。
そして、頷いた。
「はい。知りたいです」
澪の声は、はっきりしていた。
迷いはなかった。
「そう」
七罪は窓の外を見た。
「なら、頑張りなさい」
バスは走り続ける。
高速道路を、一定の速度で進む。
次の現場へ。
次の事件へ。
機動七班の日常が、再び始まった。
だがその日常は、もう以前とは違っていた。
澪は成長した。彩との修行で、憤怒の力の片鱗に触れた。
纏は阿頼耶を経験した。皇帝の城という、禁忌の領域に足を踏み入れた。
迅は彩と出会った。過去と向き合い、そして前に進むことを選んだ。
七罪は、様々なことを思案していた。
それぞれが、確かに変わっていた。
一週間という短い時間。
だがその時間は、それぞれにとって重要な意味を持っていた。
バスの中に、穏やかな時間が流れる。
纏は自分の部屋で、新しいシステムを構築している。キーボードを叩く音が、微かに聞こえる。
迅は休憩スペースで、本を読んでいる。ページをめくる音。時折、小さく笑う声。
孔明は仕事を続けている。タブレットを操作し、警察庁と連絡を取り、次の現場の準備を進める。
そして澪は、ミーティングルームで七罪と向かい合っている。
「逢魔警部」
澪が口を開いた。
「次の現場では、私、もっと役に立てると思います」
「そう」
七罪は気だるげに答えた。
「期待してる」
その言葉は、いつもの調子だった。
だがその目には、わずかな期待が宿っていた。
澪の成長を、七罪は確かに認めている。
まだ不十分かもしれない。
だが、確実に前進している。
その事実が、七罪の期待となっていた。
休暇は終わった。
バスは走り続ける。
日本各地で起きる、ダンジョンに関わる事件へ。
特定未開領域犯罪捜査課、通称・未領域課。
その機動七班は、今日も走り続ける。
終わりなき日常の中で。
そして、その日常の向こうに待つ、非日常へ。
窓の外を流れる景色を見ながら、澪は思う。
母は、何を思って父のことを告げたのか。
勇華は、今どこにいるのか。
彩は、何を探しているのか。
そして七罪は、何を知っているのか。
疑問は尽きない。
だが、それでいい。
疑問があるから、前に進める。
答えを求めるから、成長できる。
澪は窓の外を見た。
空は青く、雲が流れている。
バスは走り続ける。
終わりのない旅の途中で。
読んでいただきありがとうございました。
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