第1話 休暇
大阪府警本部の裏手に停められた二階建てバスは、夜の冷気に溶け込むように静まり返っていた。
金属と塗装の匂いが混じった空気の中、窓ガラスには街灯の淡い光が薄く反射している。
車体の影が地面に長く伸び、アスファルトの黒に溶け込んでいた。府警本部の非常灯だけが、無機質な白さでその輪郭を縁取っている。
このバスは、機動七班にとって単なる移動手段ではない。
拠点であり、待機所であり、時に戦場の最前線でもあった。内部に積まれた機材や武装、簡易的な生活空間――それらすべてが彼らの日常を形作っている。
道頓堀ダンジョンでの騒動から、すでに三週間が過ぎている。
あの混乱の余波はまだ完全には消えていないが、主犯・荒蒔の捜査は峠を越え、大阪府警への引き継ぎも滞りなく終わった。
捜査資料の束が段ボールに詰め替えられ、押収品の目録が電子署名とともに転送されていく。捜査の重みが少しずつ別の机上へと移されるのを、機動七班の面々は無言で受け止めていた。
彼らに課せられた大阪での任務は、ここで一区切りついたのだ。
一階のミーティングスペース。使い込まれたステンレス製のテーブルを囲み、紙コップから立ち上る湯気が冷えた空気に溶けていく。
天井灯はやや白く、夜更けの時間帯特有の静けさが支配していた。
班長の臥龍岡孔明は、手にしたカップを指先で温めるように持ちながら、穏やかな声で告げた。
「一週間の休暇だ」
「一週間の休暇、ですか」
鈴仙澪は、その言葉を思わず聞き返した。声の端に、普段よりもわずかに硬さが混じる。
休暇――警察学校を出てから、まとまった休みを取った記憶はほとんどない。機動七班に配属されてからはなおさらだ。荒蒔の一件は重大で、魔人が絡んだ特殊事件でもあった。緊張の糸は、ようやく今になって緩み始めている。
孔明は肩を軽くすくめ、遠くを見るような目で続けた。
「そうだ。私たちは日本各地を巡るから、休みはまとめて取る形になる。まあ、トラックの運転手みたいなものだよ」
口調は軽い。だが、その目の下には薄い隈があった。
大阪府警との調整、内閣府との連絡、探索者協会との協議――そのすべてを裏で捌いてきたのは彼だ。班員たちはそれを知っているからこそ、冗談めいた例えにも素直に頷けた。
投影されたホログラムが、軽やかに声を弾ませる。
黒いフードと悪魔の仮面をまとったアバター、ラプラス。遊佐纏の分身であり、このバスの管理を担うAIでもある。
ホログラムの輪郭は淡く揺れ、空気中に散る光の粒が微かに瞬く。
『あ、じゃあボクはスリープモードに入るから――』
その首元を、逢魔七罪が無造作に掴んだ。
光の像に、生身の指が食い込む。
その瞬間、車内の通信ログが一拍だけ乱れた。澪の端末に、原因不明のノイズが走る。ホログラムの輪郭が一瞬だけ歪み、空間が微細に軋む。
「却下」
『生身でホログラムに干渉しないで☆』
澪はその光景に、いまだに慣れない。
七罪が普通ではない存在であることは理解している。だが理解と実感は別だ。
生と虚の境界を軽々と跨ぐ彼女の所作は、日常の断片の中でこそ不気味さを帯びる。
七罪は気だるげに言った。ポニーテールが揺れ、細い目がわずかに細まる。
「休暇は外に出て、太陽の光を浴びて、ダンジョンに潜って魔素を吸収するという契約でしょう」
『ヤダ☆』
即答だった。
ラプラスの抗議は軽快だが、その実、本体である纏の本音でもある。
孔明が笑って首を振った。
「遊佐巡査にも悪いけど、せっかく大都市大阪に来ているんだ。この機会にバスをフルメンテナンスしてもらうことにした。ここからは出て行ってもらうよ」
ラプラスのホログラム上に大きく文字が浮かぶ。
『これが孔明の罠☆』
「ははは。畏れ多い。私は三国志の天才軍師の百分の一の才もない凡人だよ」
孔明は自嘲気味に笑った。
冗談の裏に、班長としての責任がある。
階段にもたれていた蓮見迅が、低い声で口を挟んだ。
「このバスが使えないのなら、俺たちはどこで寝泊まりすればいいんだ?」
問いは率直だ。
この車体こそが彼らの生活圏だった。拠点を離れることは、戦場から降りることに近い。
「ホテルは予約してある。場所と予約情報は各自のスマホに送ってあるから」
澪の端末が震え、画面に市内のホテル情報が表示された。府警本部からも近い、堅実なビジネスホテルだ。
「一ヶ月ぶりのまとまった休暇だ。次にいつ休めるか分からない。悔いのないように過ごしてくれ」
その言葉に、澪は胸の奥で小さく息を呑む。
確かに、彼女たちは走り続けてきた。緊張と戦闘、交渉と報告。その連続だった。
不意に七罪が澪の方を向いた。
「澪」
「はい。逢魔警部」
反射的に背筋が伸びる。
「ラプラス――纏を部屋から引っ張り出すから手伝って」
一階にあるパソコンルーム。遊佐纏はそこに籠もりきりだ。彼女は全く姿を見せない。
『ミオミオは、そんな外道行為に加担しないよね☆』
ホログラムが縋るように揺れる。
澪は一瞬だけ迷った。
ラプラスとは日常的に言葉を交わしている。だが本体である纏とは、全く面識がない。深い引き籠もり。対人恐怖。噂だけは聞いている。
「……引き籠ってばかりでは身体に悪いと思います」
澪の言葉に、ホログラムが大きく揺れた。
『酷い☆』
わざとらしく両手で顔を覆うラプラスに、七罪は小さく鼻で笑うようにして頷いた。
「それじゃあ、引き籠りの不健康児を外に連れ出そうか」
その声音は軽い。だが決定事項を告げるときのそれだった。
七罪は踵を返し、車両後部――一階奥に設けられたパソコンルームへと歩き出す。
機動七班の情報中枢。複数のサーバーラックと高性能端末が並ぶその区画は、普段は纏以外ほとんど立ち入らない半ば聖域のような空間だ。
厚みのある防音扉の前で、七罪は躊躇なく取っ手に手をかけた。
電子ロックの赤いランプが点滅する。
七罪が扉に触れた瞬間、ランプは音もなく消えた。
干渉されたのだろう。解除音は鳴らない。最初から施錠されていなかったかのように、扉は開いた。
暗がりの中、モニターの青白い光だけが空間を照らしていた。
「……ズルい…………力技は……卑怯っ」
か細い声が、機械の駆動音に混じって漏れる。
そこにいたのは、猫耳のついたフードを目深に被った少女だった。
年の頃は十代半ばほどに見える。実際は警察学校を卒業しているはずだから二十歳前後だろうが、長く日光を浴びていない肌と華奢な体つきが、実年齢より幼く見せていた。
指先は細く、キーボードの上に置かれたまま微かに震えている。
幾つものモニターが彼女を取り囲み、監視カメラ映像やログ画面、府警サーバーとの通信履歴が幾層にも重なって表示されていた。
足元にはコード類が絡まり、椅子の周囲には空の栄養ドリンク缶が転がっている。
「この人が……ラプラスの本体……」
澪は思わず呟いた。
いつも陽気に喋るホログラムとは違い、目の前の少女は現実の重力に縛られている。呼吸も、瞬きも、怯えも、生々しい。
纏――ラプラスの本体である少女は、澪の姿を認めた瞬間、びくりと肩を震わせた。
視線が合った刹那、椅子を蹴るようにして立ち上がり、纏は澪の視線から逃げるように動き、七罪の背に隠れた。
その動きは怯えた子猫のそれに似ている。
だが奇妙なことに、七罪の背に触れた瞬間、纏の震えは止まった。
「あの……私、なにかしましたか?」
澪は戸惑いを隠せず問いかける。自分が怯えられる理由に心当たりはない。
だが同時に、胸の奥で小さな痛みが走った。
人間に怯えられる。
それは澪自身が、これまで何度も経験してきたことだった。
――自分の血を知られた時の、あの視線。
自分の中に流れる「魔人の血」を、無意識に感じ取られる瞬間。纏が怯えているのは、そのせいではないか――そんな不安が、一瞬だけ頭をよぎる。
七罪は淡々と答えた。
「ただの対人恐怖症。気にするだけ無駄。会話したいならアプリ経由でラプラスと話した方が早い」
肩を竦めるその仕草は、事実を述べているだけだと言わんばかりだ。
七罪の言葉に、澪は小さく息を吐いた。自分のせいではない。
そう分かっても、胸の奥の痛みは完全には消えなかった。
纏は七罪の背にぴたりと張り付くようにして、小さく首を振る。フードの猫耳が揺れ、か細い声が漏れる。
「ひ、人……むり……画面越しなら……いけるけど……」
七罪はその言葉を最後まで聞かず、素早く腕を伸ばした。
次の瞬間、纏の両腕はあっさりと拘束される。
「え、ちょ……待っ――」
抵抗はある。だが圧倒的な力の差が、それを無意味にする。七罪の動きは無駄がなく、纏の体は半ば持ち上げられるようにして椅子から引き離された。
モニター群が一斉に警告を点滅させる。
ホログラムのラプラスがパソコンルームの空中に再投影され、慌てた声を上げた。
『乱暴反対! 人権侵害だよそれ☆』
「健康管理の範疇」
七罪は素っ気なく返す。
七罪は纏を片腕で抱え込むようにして扉へ向かった。
「や、やだ……外……こわい……」
纏の声は震えていた。フードの下から覗く瞳は、怯えで潤んでいる。
「大丈夫。私がいる」
七罪の声は、いつもの気だるげな調子のままだった。
だがその言葉に、纏は激しい抵抗をやめた。震えは止まらないが、七罪にしがみつくようにして身を任せる。
先ほどまで必死に抵抗していた様は、まるで暴れる猫のようだった。
「ああ。遊佐巡査。バスを整備するに当たって、システムをAIモードから手動にしておいてくれ」
外に出る纏に向かって、孔明が言った。
『……了』
ホログラムがいつもの軽い調子ではなく、落ち込んだ様子で返事を返した。
バスの出入り口近くで、七罪は迅へと聞く。
「迅はどうする。私たちと一緒にダンジョンに潜る?」
「姦しい中に男が混ざってどうする。俺は俺で好きにする。折角の休暇だ」
「そう。あ、もしも風俗に行くのなら気をつけた方がいいよ。大阪一帯の風俗業は全て『色欲』が仕切っているから」
「お前、そういうのは……。ああ、もういい」
追い払うように迅は手を振った。
首を傾げながらも七罪はバスの扉を開けて階段を下りる。
夜の大阪。街の灯りが遠くに見える。
纏は七罪の腕の中で小さく震えながら、外の世界を見つめていた。
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