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「さて。これだけあれば来るでしょう。」
網に叩き込んであるのは、ゴブリンの死体である。
スノーゴブリンの皮はそこそこの値段で売れるのだが、ワードが喜びそうな素材ではない。臭みをとるのが大変なのと、出来上がるのも質の悪い装備品である。
しかし、量があるというのは良いことだ。セツナはまた一つ新たな巣穴を掃除して手に入れた大量の死体を引きずりながら、その時を今か今かと待っている。しばらく雪原を歩いていると。
……彼女の予想通り、すぐにえさに食いつくモノが居た。脚下から伝わる僅かな振動。急速に、こちらに迫ってきている。
「……来ましたね。フッ!!」
いつもよりも気持ち強めの跳躍。セツナの足元に向かって飛び掛かる何者かを視認するべく、彼女は大きく宙を舞って空中から敵を見下ろす。
敵は、大きい。首元だけで、セツナの倍はあろうかという巨躯。
ファールス連山における雪崩の主犯。Sランク級の魔物、ホワイトワームだ。
……だがSランク級なのは体の大きさとそこから来る破壊力。そして、その雪崩を起こす脅威性からだ。その巨大な体躯故にダメージを与えにくいだけで、装甲も動きもAランク程度の(相対的に見れば)鈍重な魔物である。
「最高ですねッ!!」
まさに、狙っていた魔物を一発で引けたセツナは笑みを浮かべながらその場で体をくねらせ、セツナの方へ一直線に体を伸ばしてくるホワイトワームに刀を向ける。
その瞬間。ホワイトワームは自らの感覚器を疑ったことだろう。Bランク程度の魔力しか持ちえなかった、目の前の”餌”ともいうべき人間が、ランクを一つ。局所的に見れば二つもその身体能力を増価させ、己の身体を縦に割り斬ったのだから。
予想以上の成果。セツナは自身の身体強化、力の操作の技能が、ともに制度を増していることに気が付いていた。
昨日、ウッドパラサイターに追い詰められたあの時に、つかみかけた感覚。
あの時は無我夢中だったので、どうしてそれができたのかセツナにはまるで分らなかったが。
あれが”可能である”というのはセツナに大きな自信を与え、大きな成長の糧となった。
瞬間的ではあるが、Sランクにまで届く身体強化を、セツナはできるようになったのである。
「……うっ!」
とはいえ、やはり2ランクの身体強化は一瞬であってもセツナの体に激痛を走らせる。
ワームを叩き斬った後で、体勢を崩しかけてしまった。1秒間の維持ですら、セツナは全身の骨が砕け散りそうな苦痛を感じていた。
あの時のセツナは、最大出力がSSランクにまで到達していた。一瞬でこれほどの激痛を味わうことも(無痛針の効果だったかもしれないが)なく、十数分もの長時間、それを維持することができていた。
3ランクアップの身体強化など聞いたことがない。だが、火事場の馬鹿力かほかの要員かはともかく、満身創痍の自分であってもできるのだからと、セツナは昨日の夜から試していたのである。
「……まだ感覚がつかみきれませんが。ええ、手ごたえありです。いつか必ず、その領域に手を届かせる……!」
自身の成長に対する確信、そして決断。セツナの新たな目標が決まった瞬間であった。
冷や汗を大量にかきながらも、何とか苦痛を耐え抜いたセツナ。敵の襲撃がなかったのは幸いであった。反動は思いのほか強い。これを使えるのは、長くて一秒。それも、大きな隙を晒して……ということになる。
だが、新たな切り札だ。この技術は、使い方を誤れば即座に自身を破滅させる技術であると同時に、強敵との戦いを切り抜ける最高の武器にもなりうるのだ。
「おっと……これ以上の感傷は、帰ってからにしますか。
……今は、戦いに集中しなければ。」
再び感じる、多方向からの魔物の気配に、セツナはそっと気を引き締める。
生き延び、切り抜け、そして素材を持ち帰らなければならない。
できるはずだ。やって見せる。
……セツナは、己の全身に魔力をいきわたらせながら、襲い来る魔物の軍勢の中に、自らその身を投げ出した。
* * *
「おぇぇえ”っ、?!」
「その程度では先が思いやられるな。」
「ち、ちちうえ、みずっ、みずぅっ……!」
「はぁ……ほれ。」
同時刻。ゼンとアルテミシアは、山の中腹にいた。
標高3万メートルを超えるファールス連山の中腹。すなわち、魔境。平均ランクSSを超える地獄の領域である。
アルテミシアは、一歩でも外に出れば死ぬ。そんな環境の中に幽閉されていた。
魔力密度もAランクと高く、彼女はすぐさま魔力酔いを起こしてしまっている。
人外魔境ともいえる領域でのスパルタ修行。アルテミシアに課されたのは、まずはこの負荷の下で普通に運動できるところからであった。持ち込んだ水には一時的に魔力の流れを整える効能のあるポーションが混ぜられており、この環境下でも少しは楽になるのだ。
今彼らが居るのは、中腹に存在する自然の横穴を利用した広めの洞窟の中だ。外の環境はあまりに厳しく、アルテミシアでは一秒だって生存できない。ゼンが結界を張り、外の環境の厳しさをほぼすべて遮断しているからこそできる修行でもある。
「んぐっ、んぐっ、はぁっ……せ、セツナはこんな修行をしていたのか……?!」
「体のできておる今のおぬしよりもさらに過酷であっただろうな。
あそこに来るまで10年はやっとる。彼女はまだ十代であろう。
つまり、体のできておらん幼少期にこの基礎鍛錬をクリアしたことになるな。」
「はぁっ……うっ。これを、10年も前に……?正気の沙汰では……!」
魔力密度が自身の保有魔力よりも高い場合、普通、環境の魔力が体の中に入り込んでくる。
これを追い出すには自身の中の流れを強くし、入り込む隙を無くさなければならない。
魔力と意志は互いに干渉しあう。環境の魔力に体が侵されるということは、常に不快な精神攻撃を受けているに等しい。人によっては頭痛などもするが、基本的には途方もない吐き気に襲われる。すでにアルテミシアは、昨日の夕食が胃の中に残っていなかった。
「……だが、やらねば彼女には、追いつけないのだろう?」
「然り。……あの娘は……儂の見立てでは、あと2ランク、魔力密度を上げても動けるだろうな。」
「……なら、追いついて見せる。」
「ほほう。妙にやる気ではないか。」
「予感が、あるんだ。」
アルテミシアは、飲み干した水筒を洞窟の岩場に置きながら、己のうちに巣食う不安について語る。
「昨日の彼女の姿。
……私は、あまりにも恐ろしいと感じてしまった。
力が怖いのではない。それも、怖かったのもあるが。
……一番恐ろしかったのは、彼女が消えてしまわないかという不安だった。」
何かを犠牲にしている。アルテミシアが、直感的に感じた、昨日のセツナの発言した、尋常外の力。
あれを目の当たりにした時から、アルテミシアの意識の中に、どこか漠然とした不安があったのだ。
「あの状態を長く続ければ、彼女は、セツナはきっと取り返しのつかない何かを失うことになる。
いずれ、彼女はあの場所にたどり着いてしまうだろう。……そうなる前に、そうならなくてもいいように、隣で彼女を支えられる仲間が、必要なんだ。
そう、思える。」
ゼンには、その現象に心当たりはなかった。だが、確かにその通りだとも思える。
セツナが土壇場に見せたあの現象はゼンにも説明のつかない異常であった。だが、奇跡はたびたび起こるものでもある。同じくアルテミシアが土壇場で成功させた、あの身体強化のように。ゼンはその奇跡のたぐいの、その一つだと思っていたのだが。
アルテミシアには、その奇跡をセツナが自分のものにしてしまうだろうという、確信があるのだろう。
「………そうか。であれば、手は抜けんな。」
「ああ。なんとしてでも、ものにする。絶対に。」
なら、自身にできるのはその背中を押すことだけであった。
ゼンは、決意を新たに、苦痛の中へ身を投じるアルテミシアに、しばらくの間その師としての役目を果たし続けた。