第9話 『マシューとヘレナと彼らの明日』
最終話です。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
「許されて、しまったな……」
誰もいなくなった通りに、ひとり立つ。その独り言は誰の耳に入ることもなく、空気に溶けて霧散した。私は思う。今考えるべきことはなんなのか。光の心。そんなものが本当に、私の中に存在するのだろうかと――。
ふと、胸に去来するものがある。それはあの懐かしき、郷里の光景。しかしそれは、父上の生きている時代のものではなかった。見慣れた部屋には椅子に座る母上と、その傍らに、父上の代わりに領地を任された叔父上の姿がある。
「マシュー、とうとう君も貴族学院生だな」
「寂しくなるわね……だけど、立派だわ」
私に貴族学院の制服を着せて、笑顔で思い思いの感想を口にする。私は見世物になっていることが恥ずかしくて、早く上着を脱ぎたいと思っている。
「兄の若い頃にとてもよく似ているよ。王都でも、剣と勉学に励みなさい。そうすればきっと、兄のように立派な領主になれるから」
叔父上のお墨付きを得たことは嬉しかった。父上亡きあと、本来ならば彼自身が継ぐべき家督を私のために残してくださっていた。その御心には感謝してもしきれないものがある。私は誓いとともに、力強く頷きを返した。
「本当に大きくなったわね。向こうじゃ、誰彼構わずケンカを吹っかけたりしちゃダメよ。みんなあなたと同じ、いずれは家を負って立つ貴族子女なんだから」
母上の物言いには、いくつか訂正を入れた。私は誰彼構わずケンカを売ったりなどしていないし、乱暴をはたらいた覚えもないと……もっとも、いじめの現場に居合わせたときだけは、多少の暴力は振るったかもしれないが。
愛しき人たちの眼差し。それは暖かく私を見守る。郷里に残してきた二人の親族は、互いに顔を見合わせて、再び私へと向き直った。
「兄の教えは大事だ。でも、君には忘れてもらいたくないことがある」
「出会いを大切になさい。あなたが通うことになる学校には、それがあるわ」
母上の声には実感がこもる。それを受けて叔父上も続ける。
「目上の存在についてだけを言っているんじゃないよ。私の兄が、私の母君と出会ったのも貴族学院であったのだから」
両親の馴れ初め。耳にするのは、どこか気恥ずかしい心地があった。けれどこのときばかりは私も聞き入った。明日には郷里を発つ。年に二度ある長期休暇を除けば、二人と顔を合わせる機会はもうないのだから。
『出会いを大切に』
まったく同じタイミングで口をついた二人の声が、頭の中で残響する。
今の今まで忘れていたことだ。貴族学院での生活。それは、かつて私が思い描いたようなものではなかった。そこでは正しさは蔑ろにされ、家の大きさがすべてを決した。私自身もいつしかその不条理を受け入れ、波風を立てぬよう振る舞ってきたように思う。しかし、それだけの場所ではなかったのだ。
――がさり、と音がした。
反射的に音の出所を見遣る。一瞬、陛下が帰ってこられた線を疑ったが、近衛騎士の方々を待たせている身の上でそれはないだろう。だとすれば、野生動物だろうか? しかし闇の色が濃くなった通りにいくら眼を凝らしても、それらしき存在が出てくる気配はなかった。
「ナーバスになっているな……」
自嘲の笑みが口元に浮かぶ。今日一日、様々なことがありすぎた。神経が敏感になっていてもおかしくはない。私は視線を切りかけたが――。
「わぶ」
なんとも言えぬ音がして、そちらに引き戻される。そして見た。この暗がりにも関わらず、光すら発するように現れ出でた、見事な銀の輝きを。
「……ヘレナ嬢、どうして?」
叢から身を乗り出したところで、衣服のどこかが引っかかったか。ヘレナ嬢は頭から地べたに突っ込み、こちらが気づいたと見るや即座に姿勢を整えた。
「どうか、今のも見なかったことに」
「それは構いません。ですが、どうして戻ってこられたのですか?」
素に返って思わずした質問に、後から理性がついてくる。エステラ嬢を姉と慕うヘレナ嬢が、彼女ひとりを残して引き返すとは考えづらい。ということは、私はまだヘレナ嬢の監視対象から外れていないのだろうか?
「……色々と深読みしてるみたいですけど、仕事で戻ってきたんじゃありません」
「そうなのですか」
ならば、いったいなんの用向きで……?
「陛下がさっきご説明されたでしょう。私とあなたは、同じ穴の狢だって」
「陛下は、そのようなおっしゃり様では……」
「ここで私に気を遣われると、逆に私が気を遣います」
ふはあっと、大仰に溜息を吐かれた。伏せた瞼の下に隠れていた青い瞳で、戸惑う私を真っ直ぐに見つめてくる。
「……謝罪と感謝」
「え?」
「ですから、謝罪と感謝です。私からマシュー様に対しての。それがまだだったと思いまして」
初対面から、どうもこの令嬢は私に当たりが強い気がする。今とてそうだ。謝罪も感謝も、頭を下げるのはあちらの側だというのに、まるで上から威圧するように居丈高な物言いをする。
お蔭でこちらも、緊張の度合いを高めるしかなくなる……。
「なにか文句でも?」
「いえ、そんなことは……」
否定しかけて、思い直すことがあった。
「感謝のお言葉でしたら、既にエステラ嬢からいただいております。それに謝罪のお言葉も、あなたから私に告げるべきことはなにもないと思いますが」
率直な気持ちを口にしたものの、ヘレナ嬢は両手を腰に当てて憮然とこれを受けた。
「知ってます。私だって居合わせてたでしょう」
「だったら何故……」
頭を捻っていると、ヘレナ嬢がムスっと額に皺を刻んだ。
「初対面のときのこと、覚えていますか。扉越しに私は、あなたの行動を保身によるものだと切って捨てた。でも思い直したんです。婚約破棄の場での私の行動もまた、広義には保身のための行動に他ならなかったと」
私が婚約破棄の場でジャニス殿下に決闘を申し込まなかったのは、郷里にいる家族の身を案じてのことだ。一方で、ヘレナ嬢がエステラ嬢の婚約破棄へ割り入ったのは、姉と慕うエステラ嬢が公の場で侮辱されるのを阻止するため。
根源を求めればたしかに、同じような場所に行きつくだろう。
「よく考えれば、私はあなたに偉そうに説教できる立場じゃありませんでした。ですから、ごめんなさい……これがまず一点」
ぺこりと頭を垂れて、ふんぞり返るようにして身を戻す。素直というか変わり身が早いというか。なんだか私も彼女のペースに合わせてみたくなってきた。
「謝罪のお言葉、謹んでお受け取りいたしました……では、感謝の方は?」
疼く好奇心を隠して促してみるものの、当事者としては心当たりがない。ヘレナ嬢が蟄居を命じられた屋敷からの脱出には手を貸したが、その分の謝意なら既にエステラ嬢から受けている。
「…………」
ヘレナ嬢は私から視線を外し、やや俯いて、身じろぎもしなかった。
こうもあからさまに態度を変えられると、私とて察するところがある。
「言いにくいことでしたら、無理に口になさる必要は。私はあなたに感謝されるようなことをした覚えなどありませんし、覚えのない行為への感謝を強要したいとも思っておりません。それでもしあなたの胸の支えが取れるというのであれば、このことは忘れてしまっても……」
言葉が尻すぼみになったのは、物凄い形相でヘレナ嬢に睨まれたからだ。
俯き加減の姿勢のまま、両手でスカートをくしゃりと握り潰す。
「だ、誰も言わないなんて言ってないです!! それに……これは、私自身のけじめでも、あるので」
「けじめ?」
鸚鵡返しにすると、顔を真っ赤にしてうんうんと頷かれた。
「……だって、借りっぱなしじゃ癪じゃないですか」
癪。この表現をどう理解すべきか。そして私自身の立ち位置は。とりあえず眼の前におられるご令嬢の、敵対者ではないつもりでいるのだが……。
「時間、ください……ちゃんと言いますから」
「わ、わかりました」
思わず了承してしまったが、冷静に考えるとこの場はなんなのだろう? 今、眼の前にいるご令嬢から、私は感謝の言葉を授かろうとしている。なのに目下のご令嬢は、まるで苦虫でも噛み潰したような表情をして、じっと懊悩するばかりではないか。
私個人の思いとしては、言いにくいなら言わなくていい。無論、貸し借りの問題とも思っていない。感謝の意を表明しなかったことで私がヘレナ嬢に恩を着せることなどないし、対価を求めるつもりもない。さりとて、それではヘレナ嬢の気が済まぬらしい。だったらさっさと口に出して終わらせば良いところを、どうにも踏ん切りがつかぬらしく言いあぐねている。
私は思う。あのジャニス殿下を向こうに回して圧倒できる女性が、こと私相手にここまで苦戦するだなんて。意外、というのも素直な心象の一部だ。しかしそれだけでは片づけられぬ思いもある。さっきからどうにも珍妙というか、興味深い心地が刺激されているのを感じる……。
胸に手を当て、大きく深呼吸する。それで幾分落ち着きを取り戻したのか、伏せた瞼を上げたヘレナ嬢の瞳には理性の輝きが戻っていた。
「では、言いますね……」
すっともう一度呼気を吸い、一息に告げる。
「私のこと、守ってくれてどうもありがとうございました」
「…………」
両手を前腿に当て、子どものお辞儀のような礼をする。
私は思わず、ヘレナ嬢の一連の動作に見入ってしまった。
礼の状態から頭を上げたところで、私がまだ呆けたままだったので、ヘレナ嬢が眉を顰めた。
「り、リアクションとかないんですか……?」
「あ、いや、失礼」
咄嗟に謝ってから、脳裏に疑問が湧き起こる。
「このタイミングで申し訳ないのですが、ひとつお訊ねしても?」
「なんですか」
「守ったとは、具体的にどのような?」
感謝を受けてもまだ心当たりがない。というか、守られたというならむしろ私こそが、このご令嬢に守られたと表現するのが正しいのではなかろうか?
「な、な、な……!?」
不用意な発言ではなかったはずだ。だのにヘレナ嬢は言葉を詰まらせ、先程よりもなお赤く頬を紅潮させている。
その赤さたるや、夕闇迫る隘路ですら、それとわかるほどであった。
「な、なに言ってるんですか!! あなたはちゃんと守ってくれたじゃないですか!! 私のこと、ジャニス王子の剣から!!」
指摘を受けて、ようやく思い出す。先の場で、たしかに私はジャニス殿下の不意打ちからヘレナ嬢の身を守っている。無我夢中だったことに加え、あまりに当然の行動だったこともあり、記憶からすっぽりと抜け落ちていたものらしい。
しかし感謝を受けてなお腑に落ちぬこともある。
さすがにこれは訊いておかねばならない。
「……私が邪魔立てしなくとも、あなたなら躱せていたのでは?」
「躱せませんよ!! 私のことなんだと思ってるんですか!! 浮気女のビンタじゃないんですよ!!」
語気を荒げた反論を受けてしまったが、本題のついでに憐れポーリー嬢が浮気女呼ばわりされていた。身から出た錆とはいえ、少しおいたわしいか……?
「命懸けで守ってくれたお礼くらい、素直に言わせてくださいよ」
「す、すみません」
たしかに今のは私が悪い。素直に謝罪すると、顔色こそ赤いままだが、むくれていたヘレナ嬢が少し機嫌を直してくれた。
恥ずかしげにしながら、ぽつりぽつりと話し始める。
「……初めて、だったんですよ。同世代の男性に、身を挺して守ってもらったの。ジャニス王子は危険な人でしたし、あれで私も気を張ってたんです。偉そうに、大上段から見下ろすような言い方するの、どれだけ苦労したと思ってるんですか」
続くヘレナ嬢の溜息には、疲労の色が濃い。その姿は、この私をして初めて見る年相応のものだ。しかし冷静に考えれば当然とも言える。ヘレナ嬢は私と年もそう変わらぬ、世間的には少女と言っていい年齢でしかないのだから。
「…………」
まじまじとその姿を眼に入れる。ジャニス殿下をやり込めた先程の姿と、年相応の少女の姿。両者のあまりの落差に、私の脳裏は容易に同一人物と結びつけられずにいる。ヘレナ嬢。この並ならぬご令嬢を私は、いったいどのように捉えれば良いのだろうか……?
「な……なに見ちゃってるんです!?」
「あ、すみません」
無意識的に顎に手を当て、凝視してしまっていたものらしい。指摘の通り、淑女を相手にやっていい態度ではない。しかし私の視線は、ヘレナ嬢の顔に吸いついたまま剥がれようとしない。この反応すら、どうにも興味深いものと思ってしまっている。
そして、落差があるのはどうもヘレナ嬢の姿ばかりではないようだ。
彼女の心中もまた、私の考えごととは程遠い場所にあるらしい。
「こっちは気に病んでたんですよ!? あなたに命を張らせてしまったこと!!」
「はあ、しかし……男であれば、誰だってああするものかと」
「しませんよ!! だって相手はあのジャニス王子だったんですよ!!」
さっきから過大評価にも程がある。赤面するヘレナ嬢の様子を受けて、こちらまでこっ恥ずかしい心地になってくる。
「あなたはジャニス殿下に啖呵を切った。それに、私と親愛なるエステラお姉様を守ると誓ってくれたじゃないですか。こんなこと、ハーツ王国にいる他のどの男性にだって、簡単にできることじゃありません!!」
そうなのだろうか。いやしかし、例えそうであっても彼女の力説を額面通り受け取ってしまって良いはずがない。そもそもの話、私が婚約破棄の場でジャニス殿下に決闘を申し込んでいれば、あのような場自体が持ち上がることもなかったであろうし……。
手応えらしい手応えもなく、どうにも煮え切らないこちらの態度に業を煮やしたか、ヘレナ嬢は吐き捨てるように大声を出した。
「と、ともかく!! この度はどうもありがとうございました!! 私のことを守ってくれたときのあなた、とてもカッコ良かったですよ!!」
さよなら!! と叫んで息つく間もなく踵を返す。ヘレナ嬢は一気呵成に捲し立てられて唖然としたままの私をこの場に残し、通りの出口へと全力で走り去っていった。
「あ……ちょっと!!」
慌てて手を伸ばしたところで、異変に気づく。頭の中心付近がぼうっと熱を帯びている感覚。それになんだか息も苦しい。胸の奥の方に、大きな石のようなものが詰まってでもいるような……。
――トクン、と音がした。
ひょっとすると、それは私にしか聴こえない音だったのかもしれない。地響きにすら勝るその音はしかし、さして離れていないヘレナ嬢の耳には届かなかった様子だ。駆け去るその背が小さくなってゆくのが見える。話を続けるつもりなら、今すぐにでも追いかけなければならない。だが――。
「…………」
右手を力なく前に伸ばし、私は動けずにいた。その理由が気恥ずかしさによるものだと気づくのに、時間を要した。今、私は遠ざかってゆくヘレナ嬢の背を見送りながら、自身を客観的に見つめている。そしてこう思って恥じている。なんともみすぼらしい恰好をしていると。
外見など、見苦しくなければ良いと思っていた。剣の道に邁進することしか考えてこなかった。淑女の話題に熱を上げる学友たちを、軟派な連中と下に見たこともある。だが、今の私はどうだ? 入学以来ろくすっぽ新調もせぬままくたびれた学生服。袖のボタンは糸がほつれ、取れかけているものだってある。ざんばら髪は学友に切ってもらったものを、伸ばし放題にしただけで整えてもいない。かろうじて最低限の身だしなみこそ保持しているが、そのもの最低限に過ぎない。このような成りで淑女の背を追えるのか? いや、それにはまったき戦力不足と言わざるを得ない。
「……ヘレナ、嬢」
名を舌先に乗せて、尻すぼみに小さくなる。理解してしまったからだ。呼び止めたところで、こちらに帰ってきてくれたところで、気の利いた話などできはしないと。
詩学。それは私にとっての苦手科目。持って回った言い回しより、気配りなどせずとも本題に切り込んでくれた方が心地良かった。しかし、そのような原始的な話術で淑女を満足させることなど到底できようはずもない。彼女たちの耳を楽しませるのは、いつだって技巧と比喩の粋を凝らした美辞麗句だ。その美貌を高らかに誉めそやす、宮廷音楽のような賛美の声だ。今の私に、そのような高度な技能を操る術はない。ヘレナ嬢を連れ戻したところで、気まずいだけの不毛な時間が流れるだけだ。
「…………」
極めつけはこれだ。視線を落とし、私は腰の愛剣を見る。郷里から持ち出した剣の手入れを欠かしたことは一日たりとなかった。我が剣術があれば、どのような敵が立ちはだかろうと除くことは容易い。しかしこたびの相手は貴族令嬢。剣などものの役にも立ちはしない。そもそも、武器として用いるには方向性が違い過ぎる。
であれば、必要な装備とはなんだ? 言わずもがな花束だ。真っ赤な薔薇の花束を両手いっぱいに抱え持ち、我が心を眼に見えるかたちで示してこそ、初めてまともな勝負になろうというものだ。
「……勝負?」
心の淵に浮かぶ表現に、自分自身で驚いた。私はヘレナ嬢と、どのような勝負をしようというのか。そもそも、性別の違う存在を相手取るような勝負など、果たしてフェアと言えるのだろうか?
いや、これは勝負であるし、平等そのものだ。我が心の中で、音を立てて燃え盛り始めたもの。その熱さをヘレナ嬢へと伝え、是非に了承を求めなければならない。病めるときも健やかなるときも我が身の隣にいて、死がふたりをわかつその瞬間まで、決して離れはしないという証を――。
「そうか……彼女こそが、私の光だったのか……!!」
口に出して、やっと納得を得た。私の口元にはきっと、皮肉げな笑みが貼りついていることだろう。自分でも容易に信じることなどできない。これが、つい先程まで罰を求めていた男の姿だろうか。すべてを捨てて、罪悪感と責任の海へ身投げしようとしていた男の……!!
気づけば、通りにヘレナ嬢の姿はなかった。この場を去った彼女はエステラ嬢と合流し、今頃はロンドベル殿下の邸宅へと赴いているはずだ。時既に遅し。今宵、これで私には彼女を追う理由がなくなってしまった。
だが、決して逃がすものか。私の脳裏に、夢物語の如き光景が浮かぶ。それはヘレナ嬢を伴い、馬車で郷里に帰り着く私自身の姿。そして妻となったヘレナ嬢を母の椅子に座らせ、叔父と同じようにその傍らに立つ私自身の姿だ。
今、目覚めたる我が胸には情熱が宿る。鼓動の高鳴りとともに、心臓から全身へと、熱く滾った血潮が無尽蔵に送り出されてゆくのがわかる。そして理解する。この狂熱、情愛こそ、学友たちが夢中になっていた恋の妙味であったのだと。一生を賭けるに値する、男女の間にこそ成立する勝負であるということを。
『カッコ良かったですよ』
『カッコ良かったですよ』
『カッコ良かったですよ……』
脳裏に繰り返し鳴り響く声。そう、これは分の悪い戦いなどではない。私は右手を固く握りしめて誓う。絶対に首を縦に振らせてみせる。ヘレナ嬢。今はその身に手が届かなくとも、いつかきっと……。
この夜の誓いは、私の生きる意味へと変貌した。翌日から、私はロンドベル殿下に剣の稽古をつける傍ら、私自身に対し大いなる務めを課した。
淑女の好むものとはなにか。その繊細微妙なる心の琴線を、いかにして震わせればいいのか。不可思議極まるその深奥に、私自身の鏡像を投影するために必要な戦略とは。ヘレナ嬢に好まれる新しい私に生まれ変わるために、いったいどのようにして容姿と話術を磨き鍛えれば良いのか。
一所懸命たる私の研究努力は、そのもの一年近くに及んだ。その間も、ことあるごとにヘレナ嬢の元へ会いに赴き、その身に好意を伝え続けた。
最初こそ気味悪がったり、迷惑がったり、はにかんだりして躱されたものの、最終的には私の根気が勝った。不断に落ち続ける水滴が岩肌に穴を穿つように、ヘレナ嬢もまた、私の訴えに首を縦に振るときが来たのだ。
「……本当に、構わないというのですか? こんな私でも」
真っ赤な顔で、はにかみながら告げられたその言葉を耳にしたとき、私の胸に込み上げた歓喜は筆舌に尽くしがたい。
万感の思いを抑えきれず許可も得ぬまま抱擁してしまい、がっつき過ぎだと説教されてしまったこともまた、今もって記憶に新しい。
ただ、あの夜の私はまだ知らなかった。初めて恋に落ちた女性のことを、まさか自分が歯の浮くような情熱的な台詞と、延べ千本にもわたる薔薇の花束で口説き落とすことになるなど、考えるだに及ばなかったのだ。
――だから、すべてが過去に流れた今ではこう思っている。
この物語は、ハーツ王国の根幹を揺るがす王宮陰謀劇でも、婚約破棄を端緒とする貴人愛憎劇でもない。
ましてや、正義を求めた青年が、一国の王から新たなる立場を賜る立身出世譚でもなかった。
この私、マシュー・デッドロックが、のちに妻となる女性ヘレナ・ハーツを見初めるに至った、どこにでもありふれた恋のお話だったのだと。
最後までお読みくださりどうもありがとうございました。
全体としての評価、感想等いただけましたら今後の励みとさせていただきます(是非お願いします!!)。
最後にもう一度、本作の姉妹小説の紹介を。
老女となったヘレナと、彼女の孫娘のヒューマンドラマです。
『ヘレナおばあさまはお見通し ~この婚約破棄、得したのは誰?~』
https://ncode.syosetu.com/n1716me/
ドアマットヒロインもので本作と毛色が違いますが、ハッピーエンドで終わるお話です。
作者も気に入っています。ちょっとPVつくだけでもうれしいので、こちらも是非よろしくお願いします……。




