5
その晩、列車はコロラド州を抜けた。
追っ手の様子はなく、またマギーからの連絡もなかった。客車内もひっそりと静まりかえっており、列車旅に思いを馳せる老客があふれるばかりだった。ビジネスで用があれば、断然飛行機を使ったほうが速く。なおかつ現代では無人航空機による輸送も盛んだ。いまどき列車で移動など、この大陸に思い入れがあるか、鉄道のファンであるぐらい者しか興味を示さないだろう。
ドーム型展望車と接続して、バー・カウンター付きのラウンジルームがある。夜九時過ぎ、チューズデイは一人、そのカウンターにいた。テーブルにはグラスの赤ワインと、チーズが一切れ。タバコも吸いたいところだったが、客車内は禁煙だった。
任務の最中に酒を飲むのは、かつての彼女であればなかったことだ。だが、今は痛みや老いへのおそれ、あらゆる不安を取り払うために、一時の酔いが彼女には必要だった。右足の痛みはある程度治まったが、しかし手の震えはまだ続いている。このままでは、銃を撃つのも難しいかもしれない。一抹の不安が脳裏をよぎった。
――これで”私の娘”とやらを殺せるの、チューズデイ?
自問するが、それに対する自身の答えは、もちろんノーだった。
かつて、彼女の愛銃はスターム・ルガーMkⅢだった。二十二口径の消音拳銃。ボルトアクションライフルのような機構を有したルガーは、消音性能に優れる。が、撃ち出すのは二十二口径だ。マン・ストッピング・パワーには欠け、撃ち合いではまったく意味を成さない。しかし、それでも彼女がその銃を愛用しつづけていたのは、ひとえにその隠密性、そして射手としての彼女のウデにあった。極小の二十二口径弾といえど、相手の眼窩へと正確に撃ち込めば、一撃で殺すことができる。当時のチューズデイには、それだけの技術もあったし、それを実行するだけの自信もあった。
だが、いま彼女にそれだけの力はない。だからキンバーの四十五口径に持ち替えた。それはルガーと比べれば、圧倒的に隠密性に欠ける。だが、一撃の威力は申し分ない。手の震えと視力の低下。急激な老化による劣化は、火力で補うよりほかになかった。
そしていま、火力ですら補えない事態になりつつある。
――もしその状態で、全盛期の私を殺せる少女と対峙するとなったら……。
その想像は、すぐに恐怖を駆り立て、次の瞬間には《《あの悪夢》》を想起させた。赤い髪の女が自分を殺しにくる夢だ。まるでその女は、かつての自分のようだった。そしてその影は、ウィルの言ったアンジーという少女の残像と重なって……。
――ダメだ。
血を流し、白髪交じりの髪を赤く染める自分の姿が見えた。
チューズデイは震える手を押さえつけるように、クスリを求めるようにして、ワインを口に運んだ。
「おひとりですか」
突然声をかけられた時、チューズデイは静かに振り返った。といっても、目だけを横にやった程度だった。
カウンター席の、チューズデイの隣。そこに座ったのは、スーツ姿の男だった。見かけ四十歳前後、黒髪をオールバックにし、アルマーニのダークスーツに身を包んでいた。手元からはロレックスが顔をのぞかせ、やり手のビジネスマンという風格をまとっていた。
それから彼はバーボンのロックを頼んだ。その様子は慣れきっていたが、しかし彼が列車旅をするような男には見えなかった。長距離移動なら、こんな古くさい手を使わずとも、航空機を使えるような。もっと言えば、ビジネスクラスを乗り回しているようにさえ見えた。
「こんな老いぼれにナンパをするなんて、どうやら相当たまっているみたいね。ミスタ……」
「トンプソンです。ジェイムズ・トンプソン。とはいえ、ここの乗客ではあなたは若い方ですよ」
言って、彼はバーボンを一口飲んだ。そしてそのまま流れるような手つきで、上着のポケットに手を差し入れた。中から出したのはアルミ製の名刺ケース。銃ではなかった。もっとも、周りには十人近い乗客がいる。ここで撃ち合いが始まるはずもない。
しかし、それでもチューズデイは、トンプソンという男に警戒をし続けていた。そしてその注意を促す第六感は、正解だった。
「いいスーツですね。英国製のようだ。オースチンでしょうか?」
アルミケースから一枚引き抜くと、彼はカウンターに名刺を置いた。グラスワインの隣、一枚の紙片がコースターのように添えられた。
そしてそこには、『バイロン・ホールディングス』と記されていた。
「残念。旧い友人に腕の良い職人がいてね。これはオーダーメイドなのよ」
「そうでしたか。どうやらかなり腕の立つ職人さんのようですね。ちなみに、その方はいまどちらに? イギリスでしょうか?」
「いいえ、シカゴよ」
そう言ったところで、チューズデイはワインの残りを飲み干した。
「それで、バイロンのミスタ・トンプソンがこの老いぼれに何の用かしら。よもやナンパなんて言わないでしょうね」
「ええ、もちろん。お願いがあってきました。ミセス……」
「ボンドよ、ジェイミー・ボンド。それに、ミセスではないわ」
「失礼。では、ミス・ボンド。単刀直入に言いましょう。この件から手を引いていただきたい」
「なんのことかしら?」
「とぼけても無駄です。あなたがカンパニーの人間と接触したことは、こちらでも確認しています」
「カンパニー? なんの会社の話をしているのかしら。私はどの会社にも勤めてないわ。見ての通り、退職した老いぼれ。いまは時間にものを言わせて、大陸じゅうを旅しているだけよ」
そう言ってチューズデイは、トンプソンの姿を横目にした。
彼は身長一八〇センチはあったが、しかし軍人には見えなかった。細くすらりとした体躯と、まだあどけなさを残した甘いマスク。その奥には歳月を経た影が見え隠れしていたが、しかしそれも人殺しの殺気めいたものではなく、むしろ詐欺師のそれに近い。
――どうやらバイロンは、私の正体にまでは気づいていないらしいわね。
「ミズ・ボンド、あなたがどういうわけで彼らと接触したのか、それは詮索しません。こちらもビジネスマンです、フェアな交渉をしたいのです。ミス・ボンド、いいですか。こちらにはカンパニーが支払う額の倍以上をあなたに支払う用意があります。もしあなたが彼らからの依頼を退け、こちらに協力してもらえるのであれば……。我々は、あなたにそれを支払いましょう」
「金額で釣ろうってわけ?」
「ええ。フェアな交渉でしょう。あなたは傭兵だとお聞きしました。アメリカ各地を回って、仕事をしていると。違いますか?」
「おおむね正解よ」
「でしたら、悪い条件ではないと思います」
「そうね、たしかに――」
言い掛けて、チューズデイは上着のポケットに手を突っ込んだ。中からとりだしたのは、一箱のタバコ。JPSと、ロンソンのバンジョー・オイルライターだ。
「その話、詳しく聞かせてもらうわ。一服つきあってもらえない?」
客車内は基本的に全面禁煙だが、喫煙可能なスペースもあった。それは一番後部の客車だ。最後尾車両は食料品などを乗せる貨物列車になっており、その一つ手前は小さなデッキルームとなっていた。展望室のように外へ出ることもでき――といっても、ドーム上のガラス窓に覆われている――唯一そこでは喫煙可能。小さく灰皿が置かれていた。だが、使われた形跡はまったくなかった。
チューズデイは、そこへ初めての灰を落とした。JPSにロンソンで火をつけ、一口。たちまち葉が灰色に変わると、それを灰皿のなかへと落とし込んだ。
「話の分かる方で助かりましたよ、ミス・ボンド」
そう言ったのは、トンプソンだ。
彼はスーツにタバコのにおいがつくのを嫌うようで、チューズデイから一歩離れ、風上に立っていた。ちょうどタバコの煙は列車の速度に流されるようにして消えていった。
「こちらからの要求は三つです。一つは、現在CIAから依頼されている仕事を放棄していただくこと。二つ目に、CIAから提供された情報をすべて我々にも開示していただくこと。そして三つ目は――あなたが保護している少年、Dを我々のもとに返していただくことです」
「Dって? 誰のことかしら?」
「いまさらとぼけても無駄ですよ、ミス。こちらはすべてをつかんでいます。CIAがなぜあなたのような老いぼれた傭兵を使ったのかは不明ですが。しかし、すべて無駄なことです。金は今すぐにでもお支払いしましょう。ですからミス、今すぐにDを解放し、我々と同行願いたい」
「なるほど、ね」
タバコを吸い終え、その吸い殻を灰皿にねじ伏せる。
そのとき、チューズデイは車窓越しに夜景を見た。ぽつぽつと街頭が点在する、大平原の中の鉄路。それに併走するようにして、二車線路が続いている。そしてその路面には、複数台のジープが見えた。どれも列車に速度をあわせるようにして、すさまじい速度で追ってきている。間違いない、それはバイロンの傭兵部隊だ。
そして猛スピードで走ってくる車は、ほかにもいた。対向車線に乗り入れてまで疾走するジープに、喰らいつくように追ってくる一台の車両。暗闇でよく見えないが、すくなくともそれは一般的なSUVのようだった。
――なるほど。彼が交渉に失敗したら、実働部隊が動き出すというわけか。でも、好都合ね。
チューズデイは重いため息を漏らし、再びトンプソンを見た。
彼の顔は、朗らかな笑みに包まれていた。勝利を確信したような笑みだ。チューズデイは、それに唾を吐きかけてやりたくなった。
「ねえ、ミスタ・トンプソン。あなたは、つまり私を金額で動く、しがない傭兵くずれだとか思ってるんでしょう。老いぼれの、時代遅れの殺し屋だって」
「そこまでは言ってませんよ。しかし、交渉に応じるだけの賢明さは持ち合わせていると――」
トンプソンが言い掛けた、次の瞬間だ。
チューズデイは、左腕にはめたルミノックスのミリタリー・スマート・ウォッチにふれた。画面上に麻酔弾と表示されるまでリュウズを回すと、その左拳でトンプソンの首に殴りかかった。
彼女のパンチは、大した威力はない。問題は、時計の《《針》》だ。スマート・ウォッチの内部より、即効性麻酔の塗布された極小の針が射出。殴打したのと同時、発射され、トンプソンの首筋、頸動脈に突き刺さった。
トンプソンは一瞬の後に、反撃に出ようとした。だが、そのころにはもうクスリが回り始めていた。彼は反撃の右ストレートを繰り出そうとしたが、それはハエが止まれそうなヘロヘロのパンチだった。
「残念ね。フライデイが絡んでいる事件なら、別なのよ。私のことをもっとよく調べておくべきだったわね」
倒れたトンプソンをその場に、チューズデイは客車へ。
――いち早くこの場を出なければならない。はやくシカゴへ。身を潜めなければ。
個室を出ると、チューズデイはすぐに銃を抜いた。幸いだったのは、廊下に誰もいなかったことだろう。
――さて、問題はどうやってここを出るか。
偉そうに言ったものの、まだ具体的な脱出計画は浮かんでいなかった。
考えられる脱出路はいくつかある。乗客用の乗降口を無理矢理に開くのが一つ目。だがそこを開いた場合、おそらくほぼ確実に警報が鳴る。緊急停止装置が作動し、列車はまもなく停車するはずだ。そうなれば、不審に思った何者かが調査を行うに違いない。追われる身としては、できれば避けたい方法だ。
二つ目は、最後尾車両の接続扉から飛び降りるというものだ。これが一番合理的だった。だが、飛び降りたところで命の保証がないのは、どのケースでも同じだった。飛び出した先には、おそらく追っ手が待ち構えている。そこから逃げ切れる確証はない。
だが、チューズデイは逃げ切れると確信していた。彼女には、ひとつ心当たりがあったのだ。
「いくわよ、ウィル」
「いくって、どこに?」
「飛び降りるのよ、この車両から。最後尾の車両から飛び降りる。いい?」
「でも、飛び降りてもここじゃ――」
「いいから、来るのよ」
二人は駆け足で後部車両へ。客車の合間をすり抜け、急いだ。車掌と出くわさなかったのは、不幸中の幸いだろう。
そうしてたどり着いた後部車両は、展望デッキより一つ後ろの食料庫だ。内部には大型の業務用冷蔵庫が入っており、一歩立ち入っただけでも冷気が浸食してきた。ジャケット越しにも肌寒さを覚えるほどだ。
「あったわ。ここからなら出られるはず」
最後尾車両の、さらに一番奥。本来ならほかの客車と接続される部分には、扉がもうけられている。チューズデイはその鍵を四十五口径弾で撃って破壊すると、扉ごと蹴破った。
とたん、外気が車両内へ一気に流れ込んできた。砂混じりの風が吹きすさび、車内の生温かさを相殺する。
「ウィル、先に行きなさい。飛び降りて」
「飛び降りるって、ここから?」
「そうよ!」
チューズデイは軽く言ったが、しかし現実はそう簡単ではない。なにせここは巡航中の特急列車だ。時速一〇〇マイルを越えている。しかも扉の先には、まるで粘土のようにうねって見える鉄路がある。もちろんそれは高速ゆえにそう見えているだけで、実際には鋼鉄の塊である。列車は今、その上を猛スピードで疾走しているのだ。そこへ飛び降りたら、いったいどうなるのか? 万が一にもバランスを崩して、線路に頭をぶつけでもしたら? そうなれば、一巻の終わりだ。
「ここから降りるなんて、無茶だ」
「だったらここで殺されるかよ。バイロンの訓練では、こんなシチュエーションはなかったわけ?」
「そんなの――」
そうウィルが言い掛けたときだ。
ゴン、ゴン、ゴン……と前方車両から鈍い音が響いてきた。まるで鉛と鉛がぶつかりあうようなその不快な音は、徐々にこちらに近づいてきている。
――まさかもう追っ手が……?
一抹の不安がよぎる。
チューズデイは、キンバー・ロイヤルⅡを前方車両の接続扉に向けて構えた。
「行きなさい、ウィル! もう時間がない!」
震えるウィル。
彼は下唇を噛んでから、車両の奥へと一歩踏み出した。
そして、それとまったく同じタイミングで、その鈍い音の正体が姿を現したのだ。車両の接続路を強引に殴り飛ばし、それは現れた。ステンレス製の扉は弾けて、その欠片はチューズデイの喉元をかすった。
破裂した扉の向こうから、黒い影が姿を現す。
アルマーニのダークスーツ。オールバックにした黒髪。すらりとした体躯。そして、それとは不似合いな巨大な右腕。ジャケットの袖を破いて、それは黒光りしながらそこにあった。人工筋肉と電子回路を合わせた合成機械の義手。
それは、眠らせたはずのジェイムズ・トンプソンだった。
「……ミス・ボンド。逃げられると思わないことです」
トンプソンは、低くうなるような声で言った。まるで獣が敵を威嚇するような声音だった。
そしてその声音にコーラスするように、右腕の人工筋肉だ嘶きをあげた。ブツブツと生体質が膨張し、巨腕と化していく音。それを支えるカーボンチューブによる人工筋肉質が、トンプソンの右腕を兵器へと変えていく。
「交渉が決裂したのであれば、力ずくで奪うまでですよ、ミズ・ボンド!」
文字通りの鉄拳。炭素繊維が絡みついた巨腕がまっすぐチューズデイめがけて振り下ろされる。
すんでのところで避けたが、その質量は尋常ではない。床に激突した拳は衝撃を生み、チューズデイの姿勢を崩させた。右足が浮いて、業務用冷蔵庫に背をぶつけてしまう。
「どうしました? 相手はただのビジネスマンだとでも思って油断していましたか? この殺し屋くずれが」
もう一撃。今度は右ストレート。
チューズデイは避けようとした。だが、先ほど転倒したせいか、右足が痛んだ。
――ダメだ、間に合わない。
避ける以外の方策を採るしかない。
即座に作戦変更。冗長なモーションとともにやってきた右ストレートに、チューズデイは盾を用意した。
それは、さきほど彼女が背中をぶつけた業務用冷蔵庫。その扉だ。アルミ合金製のその扉を思い切り開け放つと、トンプソンの拳へとぶつけさせたのだ。まもなく、金属同士が爆ぜる甲高い音が響いた。
しかし、その衝撃は扉一枚では収まらなかった。トンプソンの拳は冷蔵庫ごとチューズデイを転ばすと、さらにはその扉を引きちぎり、車両後部にまで吹き飛ばしてしまったのだ
――万事休すか。
転がりながらもなんとか攻撃を退け、ハンドガンを構え直したチューズデイ。隙だらけのトンプソンに四十五口径の楔を撃ち込む。だが、それもすべて無駄弾だった。彼の巨腕を前には、銃弾すらも無意味だったのだ。炭素繊維の腕は銃弾を飲み込んでしまった。
「効きませんよ、ミス・ボンド。あきらめて彼を渡しなさい」
トンプソンの視線が、チューズデイのさらに後ろを見透かした。
チューズデイも横目にそれを見た。そこには欄干に身を寄せながら立ちすくむウィルの姿があった。まだ飛び降りていなかったのだ。
「なにやってるの! 飛び降りなさい、ウィル!」
「でも、僕は――」
「いいから降りなさい!」
トリガーを絞る。キンバー・ロイヤルⅡの装弾数は、七プラス一発。古典的なコルト・ガバメントと同じだ。
――すでに四発放った。あともう四発しかない。
四十五口径弾を四発食らっても、平然と笑みを浮かべるトンプソン。チューズデイは、その様相に恐怖さえ覚えていた。
*
――降りなくちゃ。はやく、降りなくちゃ。
胸の内では、ずっと自分にそう言い聞かせている。だが、いざ実行しようとすると、恐怖とためらいが脳を支配した。震える手が直感的に手すりをつかみ、地上へ降り立つのを食い止めている。
後方からは、チューズデイと大男のうめき声が聞こえていた。狭い客車内で、相手は間合いを詰めて殴りかかりにきている。チューズデイもハンドガンでそれに応戦しているが、効果は薄いように見えた。
相手は出血はしていたが、その血はどうにも赤色ではない。黒みがかった灰赤色。どうやらそれは人工血液だ。大男の中身は、ただの人間ではない。義手だけではなく、肉体改造を施された。無人機と兵士の中間に位置するような存在……。
ウィルは知っていた。そういった兵士が、自分たちと同じ研究施設で稼働していたことを。そして、彼らが通常兵器で太刀打ちできるような相手ではないということも。
――このままチューズデイを置いてはいけない。
――でも、自分になにができるんだ?
――なにもできない。僕には、逃げることさえ一人じゃできない。
――僕は失敗作だから。アンジーにも、そのオリジナルにもかなわない……。
見下ろせば、めまぐるしい速度で移り変わる地表が見えた。鉄路がうねり、小さな石ころの一つ一つが模様のように影を描いている。そのなかに飛び込めというのか? 無茶だ。
そう思った矢先だ。
列車がカーブにさしかかり、大きく揺れた。ウィルはとっさに手すりに捕まったが、それでも思わず姿勢を崩してしまった。
そしてそのとき、彼と同様にバランスを崩し、転んできたものがあった。それは、先ほどチューズデイがあの大男との戦闘で破壊した冷蔵庫の扉だ。合金製の、金属光沢を放った分厚い板。それがウィルの前に躍り出たのだ。
――これを使えば……。
一瞬、脳裏に成功のビジョンがよぎった。この板を台座にして飛び出せば、いけるかもしれない。
――でも、チューズデイを置いていくのか?
自問したが、彼の答えはイエスだった。
彼女に従う。いまのウィルには、それしかできない。
銃火器の入ったヴィオラケースを持ち上げる。次の瞬間、ウィルは冷蔵庫の扉をサーフボード代わりにして、夜の鉄路へと飛び出した。
ウィルの想定では、ステンレス製の扉に飛び乗り、そのまま波に乗るようにして砂利道へと着地するはずだった。だが、現実がそううまくいくはずもなかった。
ウィルを支える扉は、線路にぶつかるって着地すると、その軌道を変えて大きく左へ逸れた。線路はちょうど盛土の上にあったのだが、着地の衝撃でウィルはスピードを維持したまま鉄路の下へと一直線。砂利道がブレーキとなって徐々に速度を落としたが、それでも凄まじい速さで転がり落ちた。
そうして荒れた砂利の上に出た冷蔵庫の扉は、ついにコントロールを失った。列車との相対速度を離しつつ、急回転。なにか大きめの石に乗り上げたのだろう。上空めがけて扉は飛び上がった。
むろん、ウィルもそれに釣られて動かざるを得なかった。予想に反した動きをする扉に、とっさに手を離したがもう遅い。彼の体は一回転し、砂利道へと打ち付けられた。そしてその衝撃はなおも生き続け、砂埃をあげなから一回転、二回転……。
ようやく回転を止めたとき、ウィルの衣服はボロボロだった。買ってもらった子供サイズのジャケットも、スラックスも毛羽立っている。少女のような長い黒髪も、砂埃がついて白髪のようになっていた。
「……いって……。チューズデイは……!?」
せき込みながらなんとか立ち上がる。
砂埃に目が痛んだが、涙と手で何とか洗い流す。そうして視界が開けたときには、列車はもう遠くへ消え始めていた。
――彼女はすぐ追いつくって言ってたけど、この状況じゃ無理だ。このままだと、また一人になる……。
すぐに彼は、右手に持ったヴィオラケースを開いた。中身は無事だ。サプレッサー装備のクリス・ヴェクターが一丁と、ワルサーPPK/Sが一丁。そして予備弾倉が納められている。
ウィルはワルサーを取り出すと、再びケースを閉めた。だが、そうなってから気づいた。
――銃を握ったところで、自分になにができるんだ。
列車は行ってしまった。チューズデイはあの怪物のような大男と戦っている。そんな状況で、自分になにができるというのだ? ……自分にできるのは、逃げることだけだった。
「なにもできやしないわ」
頭の奥で、少女の声がつぶやいた。幻聴なのか、それとも脳に直接響く通信なのか。ウィルには通信を許諾したおぼえはなかったが、聴覚野にはアンジーの声がしていた。
「言ったでしょ、D。あなたが研究所を出れたとしても、バイロンの傭兵はあなたを追ってくる。それに、いざとなったらアタシが駆り出される。あなたは死ぬのよ」
――黙れ。
「黙らないわ。だって、それが現実でしょ? オリジナルも、出来損ないも、死ぬのよ」
――黙れ。
「そうね。それじゃあ、せいぜい頑張って走ってみたら? 追いつかないだろうけど」
目を見開く。
まだ砂粒が眼球にへばりついている。涙が止まらない。しかし、それでウジウジしている暇はないのだ。
ワルサーを片手に、ウィルは走り出した。どうせ追いつけないとはわかっている。だが、視界にとらえられれば、撃てるかもしれない。
すぐにウィルは、線路の敷かれた盛土の上へと駆け上がった。
――ビンゴだ。
まだ見えた。
わずかな街頭のみが光る暗闇の中に、真っ赤な警告灯を輝かせる車両が。そしてその後方は扉が開いていて、《《なにか》》がうごめいているのが見えた。間違いない、チューズデイだ。
――拳銃ひとつで、この距離から何ができるっていうんだ?
彼は自慢したが、それでもワルサーを構えた。
目を凝らす。
バイロンの傭兵を退けなければ、どちらにせよ自分の生はないのだ。殺されるのだ。研究所にいても、外に出ても、それは変わらなかった。自分でトリガーを引くしかない。
ワルサーの引き金が、そのときはやけに重く感じられた。小口径の弾丸を撃ち出す小型拳銃だというのに。訓練で使わされた自動小銃とはわけが違う。だが――
覚悟を決めて、トリガーを引こうとした、そのときだった。
突如、砂埃がウィルのまわりを覆い隠し、一大の車がスキール音を響かせながら停車した。
黒のゴルフGTI。砂埃にまみれた車体は、灰色にさえ見える。その車体はウィルの目の前へ踊り出ると、彼の射撃を邪魔するようにして停車した。
そしてそのゴルフから、一人の女性が降りてきた。ゴスメイクをした黒髪の、レザージャケットを羽織った女。暗がりだからか、それとも濃い化粧からか、その女の年齢は見かけからはまったく判別がつかなかった。
「アンタがチューズデイのツレでしょ。違うか?」
女は酒とタバコに焼けた声で言った。まるでロックシンガーのようなしゃがれた声だった。
「えっと……あなたは……」
「話は後だ。その反応から察するに、正解なんだろ。まったく、今度は何の事件に巻き込まれたか知らんが……。ともかく、いまはクルマに乗って。アタシはアイツに依頼されたモンを届けにきたんだ」
「依頼されたって……?」
「話はあとだ。ガキ、銃は使えるか?」
ウィルはうなずく。
その返答に、ゴスメイクの女はニヤリと笑った。
「なら結構。射手はキミに任せる。わかったか? わかったなら、はやく乗れ」