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戦争は変われば、諜報員も変わるらしい。目の前にいた壮年のビジネスマン風の男は、バイロン社が差し向けた交渉人にして処刑人。その風貌の変わりようは、乾いた笑いがこぼれ落ちるほどだった。
衝撃でスーツが痛み始めていた。ダメージを喰らったのは、外側のオーダーメイドのブラックスーツだけではない。内側のスマート・インナーもだ。なにかの拍子で制御チップがイカれたのだろう。止血モードが停止し、徐々に痛みがよみがえりつつあった。
止血モードが起動してから半日以上は経過していた。だが、それでも傷口が完全に塞がったわけではない。激しい戦闘を行えば、傷口が開くのは明白。さらに言えば、チューズデイの身体は老化が進行している。治癒能力も衰えつつある彼女に、これ以上の戦闘は無理だった。
――だけど、やるしかないのよね。
内申で独りごちながら、彼女は態勢を立て直す。
「逃がしませんよ、ミス・ボンド。あなたを殺して、すぐにでもDを回収します」
再びトンプソンの鉄拳が振り下ろされた。
その大仰なモーションから繰り出される打撃は、チューズデイからすれば見切るのは容易だった。だが、彼女の身体は追いつかない。思考に肉体が追従しないのだ。
なんとかすんでのところで回避。トンプソンの右腕は壁に激突した。鉄拳は窓のない倉庫車両に大穴を穿ち、窓を作る。とたんに月明かりが差し込んだ。しかも、よりにもよって満月だ。
チューズデイは何とか打撃は避けるも、その反動は右足にきた。激痛。傷口が開いている。スーツの裾に赤い粘性の液体が滴り始めていた。
「手負いの相手を殺すのは、いささか心苦しいですが。しかしこれも仕事なのでね」
「あらそう。でも、致命傷を与えられないのなら、無意味よね」
トンプソンは、自分があけた大穴から腕を引き抜く。その一挙手一投足さえ大仰だ。大きな隙ではあったが、しかしこの男に心配は必要ない。それは、先ほどチューズデイが放った四十五口径を物ともしなかったことからも明らかだ。彼は、人間ではない。
――何か他に手を考えるしかない。
チューズデイはそう断じると、足を引きずりながら奥の車両へと逃げた。客車と客車をつなぐ扉を開け、展望車両へ。さらにそこを突き抜けて、寝台車にまで向かった。
トンプソンももちろん追いかけてきた。肥大化した右腕を振り回し、周囲の物をひっ散らかしてまわりながら、チューズデイを追いかける。まるで猛獣から逃げているようだった。
そうして逃げ回ることで、車両内が大騒ぎになることはわかっていた。物音に気づいた乗客が通路に飛び出し、トンプソンの姿を目撃したら大惨事が起きるだろう。きっとそれは、悲鳴から始まるはずだ。中年女性のソプラノボイスの悲鳴が轟くと、あとはドミノ倒しに事は悪化していくだろう。悲鳴に気づいた車掌が飛んできて、それに異常を覚えた他の乗客が野次馬にやってきて……まもなく列車は停止する。少なくともそうなる前に、ここを出なければならない。
食堂車手前の厨房に侵入したときには、もうどこからか悲鳴が聞こえてきた。厨房にいたコックたちも、突如やってきた銃を持った女と、人間離れした体躯の男に驚愕せざるを得なかっただろう。
「悪いわね、ちょっと邪魔するわ。それと、借りるわよ」
厨房に入るや否や、チューズデイはキッチンを飛び越えて、追ってきたトンプソンと距離をとった。そして同時、彼女はまな板の上にあった包丁を手に取った。それはマチェットのような巨大な肉切り包丁だった。
「残念。逃げ場はないですよ、ミス・ボンド?」
左手にナイフを構えたチューズデイに向かって、トンプソンはニタニタと笑みを浮かべた。
彼の言うことももっともだった。いま、チューズデイの後方には業務用冷蔵庫と水道、それからコンロがあるきり。どこにも出口はない。次の車両への出口は、ちょうどトンプソンの背中側にあったのだ。
「そうね。でも、それはどうかしら。コックを舐めたらいけないわよ。もしかしたら元特殊部隊かもしれない」
「ですがあなたは元特殊部隊でも、コックでもないでしょうに。しがない流れの殺し屋……違いますか?」
「違うわね」
直後、チューズデイは右手に構えていたキンバーを全弾撃ち放った。残弾は四発。そのすべてはトンプソンの心臓に向けられていたが、しかし通用しなかった。巨腕が、弾丸を受け止めたのである。四十五口径ACP弾はまるでオモチャのように弾かれた。跳弾したそれはキッチンを跳ね回り、最後には机上に置かれていたプディングを破裂させ、停止した。
「だから効かないと――」
跳弾を見送りながら、トンプソンは目標に視線を戻そうとした、そのときだった。
トンプソンは、視界に一人の女を見た。それは銃を捨て、肉絶ち包丁を両手で携え、飛びかかる女の姿だった。
避けようとした。だが、それを実行に移したときには、もう遅かった。
チューズデイの全体重がのし掛かったブッチャーナイフが、トンプソンの右肩に振り下ろされた。丁寧に研がれた包丁は、雑なナイフよりも切れ味が良い。それも、肉を絶つために作られたものだ。人間の肉を絶つのも容易なことだった。
肩間接から、その切っ先は床にまでまっすぐ振り下ろされた。鮮血と肉片と、人工筋繊維を保つ組織液と、すべてをまき散らして。
そして最後には、巨大化したトンプソンの右腕がゴトンと大きな音を立てて地に落ちたのだ。
滝のように流れ落ちる血。
出血性のショックがトンプソンを襲う。
「……はぁ、はぁ……。だから、コックを舐めるなって言ったじゃないの……」
チューズデイが息を喘がせながらそう言ったとき、すでに彼の意識は遠のいてた。
*
ウィルを乗せたゴルフGTIは、列車に沿うようにして悪路を疾走した。みるみるうちに車両が近づいていくことに、ウィルは驚かざるを得なかった。
運転席でステアリングを握りしめる謎の女性。病的な白い肌にゴスメイク、レザージャケットという厳つい出で立ちの彼女は、実に荒っぽい運転をしていた。アクセルはベタ踏みで、減速することなぞこれっぽちも考えていないようだ。ただ彼女は、目の前の列車に追いつくことだけを考えていた。
そうしてゴルフが後部車両に喰らいついたとき、車内にコール音が響いた。発信主は不明と|ヘッドアップディスプレイ《HUD》に表示されたが、運転手の女は問答無用で応じた。
《ゾーイ、あなたは――》
と、スピーカーの向こうからの第一声。その声はまぎれもなくルビー・チューズデイだった。
ウィルはその声が聞こえたことに安堵したが、それもつかの間。今度は運転席から怒号が聞こえてきた。
「何が『よほどのことが起こらない限り』だ! アタシの悪い予感が当たったな、チューズデイ。アンタのことだからどうせ問題を起こすと思って、こっちから来てやったぞ。飛び乗った列車さえ割り出せば、位置を探るのは容易だったからな。アタシの勘に感謝するんだな。……それでチューズデイ、アンタ今どこだ?」
《後ろから四両目、厨房にいる》
「わかった。いま列車の左側にクルマをつける。アンタなら、脱出できるだろ?」
《たぶんね。身体と相談ってところだけど》
するとスピーカーの向こう側から、チューズデイではない他の誰かの声が聞こえてきた。重なり合う男たちの叫び声。「いたぞ!」「こっちだ!」「人が倒れているぞ!」……少なくとも、彼女を歓迎する言葉とは思えなかった。
《急いで!》
「わかってる。注文の多いお姫様だこと」
《もうそんな年齢じゃないわ》
「そうだった、お互いもう若くもなかったんだ」
通信終了。
それと同時、ゴルフが急加速。ワルサー片手にシートベルトもせず座っていたウィルは、後ろにつんのめった。
「いいか、ガキ。チューズデイが飛び降りたら、すぐにでも脱出する。バイロンの車両歌いがすぐ後ろにまで来てるからな。だからガキ、おまえはアイツの援護だ。追っ手を撃て。威嚇でいい。ただチューズデイにだけは当てるな」
「でも、そんなこと――」
「いいからやるんだ。わかったな?」
助手席側のパワーウィンドウが開く。
砂混じりの風が吹き込み、ウィルの小さな身体を打ち付けた。だが、それでも彼は銃を構え、列車へと向けた。照門がまっすぐ客車を捉えた。
「脇を閉めろ! 機を逃すんじゃない!」
ハートマン先任軍曹ばりの罵声。ウィルはそれに耐えながら、しかと銃を構えなおす。
まもなくゴルフは徐々に減速を開始。列車と相対速度を合わせ始めた。完全に併走している。鉄路のある盛土を挟んで、ちょうど列車の真下に車体がくる形になった。
「チューズデイ、まだか!」
ゴス女が叫ぶ。
だが、まだだ。まだ彼女は来ない――
*
時間がなかった。二つ隣の車両から乗客の叫び声と、車掌の怒声とが聞こえた。逃げ出したコックたちがこの状況を伝え、チューズデイのもとまでやってくるのには、もうさほど時間はいらないだろう。
外へと続く扉は、案の定しまっていた。蹴破って開くような代物でもなく、かといって緊急停止ボタンを押すのは論外だ。
キンバーは弾切れ。ヴェクターはウィルに預けた。二十二口径のMkⅢでは、錠前を破壊するには心許ない。
――あるとすれば……。
選択肢は一つしかない。
今度こそ失神したであろう、ジェイムズ・トンプソン。その肩関節を切り裂いたブッチャーナイフは、床に突き刺さって縦スジを穿っていた。さらにその隣にはトンプソンの肥大化した右腕がある。人工培養された筋繊維と炭素繊維の複合品。てらてらと鼠色に光っている。
チューズデイはブッチャーナイフを取り上げた。そしてそのとき、不意に彼女の視線に《《その右腕》》入ってきた。
見てはいけないものを、見た。
トンプソンの肉体と繋げられた、人造の義手。それにはバイロン・エンジニアリングというマーキングが施され、丁寧に形式番号も印字されていた。それはいい。問題は、その下に書かれた文字列だった。
〈PROJECT STURDAY〉
と、たしかにそう書かれていたのだ。
オレゴンの研究所で目にしたものと同じ。土曜日。彼女は――ルビー・チューズデイは、その意味を知っていた。
――破棄されたはずの計画。デイ計画の六人目……。まさかコイツが? そんなはずは……。
言葉を失い、まだ判断力も失った。ナイフをつかんだまま、彼女はしばらく呆然とした。だが次の瞬間には車掌の怒声に目覚めさせられた。
「あっちだ! 厨房だ!」
――ダメだ、もう時間はない。調べている余裕はない。
そう断じると、彼女はブッチャーナイフを再び両手で構えた。大きく振りかぶり、切っ先をドアに向ける。狙いをさだめたのは、鍵のかかった乗降口だ。
一発、全体重を乗せた重たい一撃をドアに喰らわせた。それは左右の扉のつなぎ目にヒットし、刃は強引にそのあいだへと分け入った。あとは柄をグニッと九十度回せば、扉は独りでに開いた。
風が入り込む。砂混じりの夜風。減速なしの車両がおびき寄せる突風。そしてその向こうに月明かりに照らされたクルマが一台、併走していた。白のゴルフGTI。助手席にはワルサーを構えるウィルがいた。
「チューズデイ、こっち!」
ウィルが叫ぶ。
彼女はそれにうなずき、半歩下がって助走をつけた。ウィルと違い、チューズデイに迷っている余裕はない。すぐ隣の車両から車掌の声が聞こえていた。
助走をつけ、一気に飛んだ。併走するゴルフに向けて、時速六〇マイルオーバーの列車から。
一瞬、チューズデイには視界が暗転し、星空が消え去ったように見えた。だが、次の瞬間には全身に衝撃がほとばしり、現実に引き戻された。
なんとか着地できていた。ゴルフGTIのボンネットに転がり落ちた彼女は、右手でワイパーをつかみ、左手をボディの付け根に引っかけて、どうにか体勢を維持していた。とっさの判断と本能の賜物だろう。
フロントウィンドウ越しには、ウィルともう一人、ドライバーの女の姿が見えた。ゴスメイクの、見た目だけでは年齢のわからない女だ。彼女は何かチューズデイに向けて叫んでいたが、風鳴りと窓越しということもあって、まったく聞こえなかった。
まもなくゴルフは徐々に減速を始めた。いっぽうで列車は巡航速度を維持したままだ。夜行列車はみるみるうちにその姿を小さくさせていった。
やがてゴルフGTIは緩やかに停車。線路脇の荒野で動きを止めた。
チューズデイはボンネットから転がり落ちるように降りると、そのまま足を引きずって後部座席へ。倒れ込むように乗り込んだ。右太股からの出血はまだ止まっていない。傷口が開いていた。
「ずいぶん派手にやったみたいじゃないか」
と、運転手のゴス女。ダッシュボードから止血剤を取り出すと、彼女は後部座席に投げやった。
「そうでもないわ」
言いながら、チューズデイは止血帯を服の上から固定した。黒い帯状のそれを患部にあてたら、あとはドラムスティックのような長細い棒で締め上げていく。応急処置だが、ないよりはマシだ。そうして止血帯を装着し終えたら、患部を上に向け、仰向けに座席へ寝ころんだ。出血と過度な運動のせいか、頭がクラクラして倒れそうだった。
「申し訳ないけど、少しだけ寝るわ。とりあえずゾーイ、助けてくれたのは感謝する」
「はいはい。安全な場所まで連れてってやるから、いまは寝てるといいさ」
そうしてチューズデイがまぶたを閉じたところで、ゴルフGTIは静かに加速。悪路から道路に戻り、一路シカゴ方面へと進み始めた。
時刻は午前一時に差し掛かっていた。
三人を乗せたゴルフGTIは、ルート36をひたすら北上。シカゴを目指していた。
車内にはラジオが流れていた。聞こえてくるのは、ウィルにはまったく耳覚えのないカントリー・ロックだった。ときおり八〇年代じみたジングルが鳴り響いたが、あとはずっとアコースティック・ギターの音が聞こえていた。
聞いたことのない音楽と、顔も知らない女。そして後部座席には寝息を立てるチューズデイ。ウィルは眠れずにその空間にいた。眠気もしなかったし、眠る気にもなれなかったのだ。いま眠ってしまったら、もう一度夢のなかにアンジーが出てくる……そんな気がしていたのだ。
「ゾーイだ」
突然、運転席の女が言った。くわえタバコを右手にとって、ステアリングを操舵しながら。女は自動運転にする気はないようだった。
「デイジー・”ゾーイ”・アンダースン。でも、まわりの連中はアタシのことをゾーイと呼ぶし、今の名前はゾーイ・コーフィールドだ。アタシも、アンタやあの女と同じ。本当の名前なんてどこかにやっちまった人間さ。おまえは?」
タバコを口に戻す。根本まで吸いきったところで、彼女は灰皿に吸い殻を押しやった。
「ウィルです。ウィリアム・ボンド」
「ボンド? まるでアイツの息子みたいだな。いや、孫っていうべきか。でも、まるで娘みたいな格好してやがる」
「これは逃走のためです」
「知ってるよ。ぜんぶアイツから聞いてる。護衛対象は少年。偽装のため女みたいな格好させられてる……とかなんとかって」
「チューズデイから聞いたんですか? ……あの、アンダースンさんっていったい何者なんですか?」
「ゾーイでいい。そうだな、アタシはチューズデイの古い友人であり、また敵でもある。アタシたちの仕事は、出資者によってコロコロと立場が変わるからな。だから、アタシたち味方でもあったし、敵でもあった。もっとも、アイツの場合はアタシよりもいろいろと複雑だったが……。まあ、チューズデイの古い知り合いだと思えばいい。つい数年前まではシカゴで都市管理ネットワークの開発業務に従事していた。いまはドロップアウトして、余生を過ごしているといったところだな」
「つまり、えーっと……」
「お子さまには少し難しい話だったか? まあ、つまるところアイツの友達で、協力者だとでも思えばいい。とりあえず、今のところはな」
「協力者……ですか?」
「ああ。いまのところは」
含みを持たせた物言い。彼女は不敵に笑み、ウィルの姿を横目に見た。
道はひたすら一直線に続いていた。対向車線もない、夜の国道。ゾーイ・アンダースン――もとい、ゾーイ・コーフィールドは、ステアリングから手を離し、二本目のタバコに火をつけた。




