1.モールラガードでの一夜 11
「よーし、可愛い」
アンシェラの身支度を調え終えると、ネフは顎髭を撫で、満足げに頷いた。
少女は簡素だが清潔感のある生成り色で脹ら脛丈のワンピースを纏っていた。
両耳の上の髪に赤いリボンが結ばれている。アンシェラはそれを指でつんつんとつつき、「赤色」と小さな声で呟いた。
「着飾るの、ほんっとマメよねぇ。誰に似たんだか」
「似たっつーか、無頓着な誰かさんのおかげで洒落っ気は自分で磨こうと思っただけだが?」
元凶であるフォルは、ふーんと言って、ブーツを履く。
「それじゃ出るぞー」
荷造りをし終わると、ネフは部屋中を指さして忘れ物がないかを確認する。その行動を横でアンシェラが真似ている。
「なーに、真似っ子してるんだ、アンシェラ~?」
にっと笑ってネフはアンシェラの額に額を押しつけた。
「アンシェラって、ちょっと呼びにくいわね」
「自分でつけといて何言ってやがる。じゃあ、アンでいいんじゃねぇの?」
「そうね。そうしよっと」
「アンもアンのことアンって呼ぶ?」
「その場合はあたしかなぁ」
フォルの言葉にアンはきょとんとする。
「あたし?」
「自分のことを呼ぶ時は、名前より、そう言う方がいいかも」
「ちょっと待った。だったら、わたしの方が可愛い」
「はいはい。じゃあ、ネフの好きに呼ばせなさいよ」
「……わたし?」
「そうだ。その方がおしとやかで可愛い。どこかの誰かさんと違って」
「あんたも可愛くないっての」
ネフとフォルは互いの脇腹に拳を入れながら廊下を進む。
アンシェラはその二人の後ろについて歩きながら、両手の指を曲げ伸ばしして呟いた。
「アンシェラ……アン……あたし……わたし……名前、たくさん」
「そのどれもお前さんのことだ。良かったな」
アンはネフをじっと見て、小さく躰をもじもじとさせる。
「同意……つってもわかんねぇか。わたしもそう思うって時は、こうやって頷いてから、うんって言えばいいぞ」
「うん」
アンはネフに言われたとおり、こくんと頷いて応えてみせた。
「そうそう。アンは賢いなぁ!」
「おーい、そろそろチェックアウトの時間だって。延長金取られちゃうわよ」
「それは困るな。ただでさえ掃除代だけじゃなくって、誰かさんが壊した壁やら階段やらの修理費も追加されてるのに」
「誰かさんも外壁壊してるわよねぇ。あー、もったいないもったいない」
ネフとフォルは再び互いの脇腹に拳をぶちこみながら廊下を進む。
階段に差し掛かると、ネフの足が止まった。
二階の渡り廊下についた血を掃除している者達をじっと見つめて。
「掃除屋、やっと来てくれたのね」
「みたいだな」
二人が掃除屋と呼んだのは、アンよりもやや小柄で、緑の肌に長い耳を持ち、ギョロリと大きな目をした髪のない人間外の生き物――ゴブルアだ。
それらが数体、黙々と床や壁や天井、扉や手すりを磨いている。死体がないのは、すべて先に運び出した為だ。
「……そうじやさん?」
「そう、掃除屋さん。ゴブルアっていう魔物が掃除してるの。本当は獰猛な魔物なんだけど、この子達は煉組術師に改造されて、大人しく言うことをきくようにされちゃってるの。こういう掃除は本当は人間がしてたことなんだけど、魔物にさせれば人件費はかからなし、いらなくなったら殺すか野に放てばいいから……ま、人間にのみ都合のいい奴隷ね」
ほんの少し、フォルの雰囲気に緊張が走る。
それを感じてアンは身を竦めた。
ネフは動きやすいゆったりとした土埃色のズボンのポケットに手を入れ、五百スフーラコインを何枚も取り出した。
黙ってそれをゴブルア達の手を取り掌に載せる。
ゴブルア達はぺこりと頭を下げ、無言で掃除を再開した。
さっきまでお金について細かいことを言っていたフォルは、黙ってそれを見守っている。
最後の一体に銀貨を手渡し、一階へ続く階段に足をかけると――
「こんなことしかできないんだよな」
と、ネフが小さな声で呟いた。
フォルが聞こえないふりをしていたので、アンはそれに従う。
礼を言いながらネフが宿代を払うと、店主は四角い包みを三つ、カウンターの上に置いた。
「こいつはおまけだ。また来いよ」
「ああ。すまねぇな」
「お弁当、あんたの分もあるわよ。アン」
「おべんとう……?」
「美味しい食べ物がたくさん詰まった箱よ」
フォルの説明を聞くと、アンのおなかからくうと可愛らしい音がした。
「ははは。朝飯食ったってのに、もう腹ぺこか。しょーがねぇなあ、ほら」
笑いながら店主がアンの掌に置いたものは、ハムや茹で玉子の薄切りが挟まった丸く白いパンだった。
「これ、あんたの朝ご飯じゃないの?」
「かまわねぇよ。また作ればいい。これ食って、もっと大きくなって働き者になれよ。お嬢ちゃん」
「アン。物をもらった時は、ありがとうってお礼を言うんだ」
ネフの顔をじっと見てから、アンは店主に顔を向けた。
「……ありがとう……」
そろそろと礼を述べるアンを見て、店主はうんうんと頷いた。
フォルが扉を開ける。アンの視界は真っ白になり、ゆっくりと街の風景が飛び込んできた。
さっきより太陽が高い。雨降り後の街をきらきらと輝かせている。
色とりどりの屋根。壁。家と家に渡された洗濯紐にかけられている極彩色の洗濯物。看板。壁を伝う蔦、建物の隙間に設えられた庭の緑……すべての色がアンの水色の目を焼く。突如押しつけられた情報量に目を眩ませ、ぽすんとネフにもたれかかった。
「どうした?」
「色……たくさん……」
「ああ、目が眩んじゃったのね。そういう時は、いきなり全部見ちゃ駄目よ。ゆっくりと気になるものだけ見てなさい」
フォルがアンに手を差し伸べる。
だが、アンはそれをじっと眺め、どうしていいかわからない顔をした。
「手を繋いであげる。そしたら、あちこち見てても迷子にならないし、転びそうになったら引っ張ってあげるから」
おそるおそる差し出された小さな手を、細く美しい手がそっと包む。
「……フォルの手、ベッドみたい。ほかほか」
「ふふっ。暖かくて気持ちいいってこと? ありがとう。褒めてくれて」
「……わたし、何もしてない。それなのに、ありがとうって言うの?」
「嬉しいことを言われた時にも使うのよ。ゆっくり覚えていこうね、アン」
「うん」
「んじゃあ、まずはアンの旅支度からかなぁ」
「そうね。お洋服もっと欲しいし。可愛いのがいいかなぁ」
「フリルのたくさんついたドレスにするか」
「色んなとこ歩くのに、華美なもの着せて、どーすんのよ」
「俺が担ぐんだから問題ねぇだろ」
「駄目よ。歩かないと健康な骨も筋肉も作られないんだから」
「それもそーだな」
「ったく。ほんっと、小動物に弱いんだから」
「そーなんだよな」
フォルが笑う。ネフも笑っている。その間にいるアンも、顔が自然に綻んだ。
「お、笑えるようになったか」
ネフがアンに向かって手を伸ばす。
さっきフォルにしたように、アンはネフの手を握ろうとするが、大きい。少し迷い、人差し指と中指をきゅっと握った。
「ネフの手もベッドみたい」
「ベッドみたいにふわっふわですって。ぷっくく。太ったんじゃな~い?」
「なんで俺だけそうなるんだよ。あったかいってことだろが……っと!」
ネフが軽く腕を上げると、アンの躰がふわっと浮き上がり、すとん、と下がった。
ほわ~……と声が聞こえそうな顔で目をきらきらさせたアンがネフを見る。
「なんだ、楽しかったのか? じゃあ、もう一回っと」
また躰がふわっと浮かび、そっと着地する。
桜色の頬をより上気させ、アンはネフを見つめた。
「あたしだってできるわよ。それっ」
対抗してフォルも続く。
ネフの時より高く上がり、アンのスカートが大きく開いてから着地した。
頭にかかったアンのスカートの裾を、ネフが慌てて下げる。
そこから現れたアンの顔は、驚いたような、戸惑ったような顔だった。
「ストップ、ストップ。ちょっと刺激が強すぎるみたいだ。雑貨屋までゆっくり歩いてこうぜ」
「もっと笑って喜ぶようになったら、ぶんぶんに振り回してあげるわ、アン」
フォルティアとネフリティ。
二人に手を繋がれ、街路を踏む。
それが『虹』という名をもらった少女の旅立ちの第一歩となった。




