番外編2 普通のお客さまに、雨宿りポタージュを
雪まじりの雨が、静かに石畳を濡らしていた。
ノルドハイムでは珍しく、空が白でも灰でもなく、溶けかけた鉛みたいな色をしている。こんな日は暖炉の前の席から埋まる。
リリアナさん、外の人、なんかすっげえ挙動不審
カウンターの端でカップを拭いていたノエルが、こそっと囁いた。
挙動不審って言わないの。困ってるお客さまかもしれないでしょう
いや、困ってるっていうか……入るか帰るか、店の前で3回は往復してる
言われて扉の方を見ると、たしかに、深い色の外套を着た女性が看板の前で立ち止まっていた。
フードを目深にかぶっていて顔は見えにくい。
けれど、その立ち姿には見覚えがあった。
私は思わず、ほんの少しだけ息を止める。
……あ
扉の鈴が、小さく鳴った。
入ってきた女性は、濡れた外套の裾をそっと押さえ、店のあたたかさに目を細めた。以前よりずっと落ち着いた、けれどやっぱりどこか不安そうな仕草。
聖女クラリス様だった。
ただし、昔のようなきらびやかな聖装ではない。上質だけれど目立たない旅服に、控えめな刺繍の手袋。護衛らしい人影は店の外で止まり、中には入ってこない。
たぶん、本当に普通のお客として来たのだ。
ノエルがあっと言いかけて、私が目で制すると、慌てて口をつぐんだ。
私はカウンターから1歩前に出る。
いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ
クラリス様は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけほっとしたように肩を抜く。
……ありがとうございます
選んだのは、暖炉から少し離れた2人掛けの席だった。人目を避けたいけれど、完全に隠れたいわけでもない。そんな距離感が、なんだか今の彼女らしかった。
私はお冷の代わりに、湯気の立つ白湯を小さなカップで運ぶ。
外は冷えたでしょう。ご注文が決まるまで、こちらを
……覚えていてくださったのですね
何をです?
私が、ここへ来たかったことを
まっすぐ言われて、私は少しだけ困ったように笑う。
忘れるほど薄い願いではなかったので
クラリス様は、ふっと目元を和らげた。
昔のように誰かに守られるための微笑みではない。自分の意志で浮かべた、小さくて、でも確かな笑みだ。
本日のおすすめは、温野菜と豆のじっくり煮込みスープと、雨宿りポタージュです。甘いものなら、焼きたての小さなアップルパイもありますよ
雨宿りポタージュ、ですか
はい。少し落ち込んだ日に効く、と評判です
……では、それを
少し迷ってから、彼女は付け足した。
あと、穀物コーヒーも。ずっと、飲んでみたかったんです
かしこまりました
厨房に戻ると、ノエルがそわそわしながら寄ってくる。
ほんもの?
ほんものです
うわあ……
うわあ、じゃありません。いつも通りに
いやでも王都の
ノエル君
はい
ぴたりと黙る。素直でよろしい。
私は鍋の蓋を開け、優しい香りの立つポタージュを木の器によそった。根菜の甘みを引き出し、ほんの少しだけハーブを足す。冷えて縮こまった心をほどくための1皿だ。
《生活鑑定》
対象:雨宿りポタージュ
安心感:高め
緊張緩和:中
素直になりたい気持ち:ほんの少し上昇
(便利なのか便利じゃないのか、たまに分からない数値ね……)
穀物コーヒーを丁寧に注ぎ、私はトレーを持って席へ向かった。
クラリス様は、窓に打ちつける雨を見ていた。
その横顔は少し大人びていて、でもふとした瞬間に、あの日泣いていた少女の面影が重なる。
お待たせしました。雨宿りポタージュと、穀物コーヒーです
……ありがとうございます
彼女はまず、ポタージュを1口すくった。
ゆっくり飲み込んで、目を伏せる。
そして、もう1口。
何も言わないまま3口目まで進んだところで、私は内心で少し安心した。口に合わなければ、人はたいていもっと早く顔に出る。
やがて、クラリス様が小さく息を吐く。
……あたたかい
はい
体が、というだけじゃなくて
そうであれば、よかったです
彼女は今度、穀物コーヒーのカップを両手で包んだ。
不思議です。苦いのに、怖くない味がします
それ、初めて言われました
変ですか?
いえ。たぶん、すごくこの店らしい感想です
私は彼女の向かいには座らず、少し離れた席の背に手を添える。近すぎず、遠すぎず。
クラリス様はカップを見つめたまま、ぽつりと話し始めた。
王都でも、食堂は増えました。あなたが送ってくださったレシピが、今も役に立っています
それは何よりです
子どもたちが、湯気の立つスープを囲んで笑っているのを見ると……昔の自分が、どれだけ狭い場所しか見ていなかったか、思い知らされます
雨音が、静かに続く。
私は、愛されることばかり欲しがっていました。守られることばかり望んで、誰かを悪役にしてしまってまで
……
今でも時々、夢に見るんです。大広間で泣いていた自分の横を、あなたが静かに去っていくあの日を
その声音は、悲劇の主人公ぶったものではなかった。
ただ、本当に、消えない傷を抱えた人の声だった。
私はしばらく黙ってから、そっと口を開く。
私も、全部忘れたわけではありません
はい……
でも、こうして来てくださったことは、嬉しいです
クラリス様の指先が、かすかに震えた。
嬉しい、ですか
ええ。あの時のまま、互いに遠いところで固まって終わるよりは、ずっと
彼女は唇を噛みしめ、それから小さく笑った。
……あなたは、やっぱりずるいです
そうでしょうか
責められた方が、少し楽だったかもしれません
それはおすすめしません。私は意外と根に持つので
ふふ
ちゃんと笑った。
昔の、周囲に愛されるための笑顔ではない。
痛みを知った人が、それでも前を向こうとして浮かべる笑顔だった。
その時、外から扉が少しだけ開いて、護衛らしい人が1通の封書を差し出した。クラリス様は受け取り、表書きを見て眉を下げる。
アルバート殿下からですか?
……はい。無理はするな。帰りが遅くなるなら、現地で1泊してもいいと
優しいですね
昔よりは、ずっと
彼女は封書を閉じ、胸元にしまった。
王都では、皆それぞれ必死です。殿下も、昔のように誰か1人に背負わせる方ではなくなりました
なら、よかった
はい
その1言に、変な未練も比較もなかった。
ただ本当に、よかったと思えた。
しばらくしてポタージュの器は空になり、穀物コーヒーも残り少なくなる。
クラリス様は席を立つ前、少しだけためらってから言った。
……また来ても、いいでしょうか
お客さまとしてなら、もちろん
では次は、本当にただのお客として来ます。名乗らずに
その時は、たぶんノエル君がすぐ気づきます
そんな気がします
立ち上がった彼女は、以前より少しだけ背筋が伸びていた。
私は会計の代わりに、小さな包みを差し出す。
焼きたてのクッキーを2枚だけ、紙に包んだものだ。
これは?
本日のおみやげです。王都までの道中、甘いものが欲しくなった時用に
受け取っても?
普通のお客さまへの、普通のサービスです
クラリス様は包みを大切そうに抱え、深く頭を下げた。
……ありがとうございました、リリアナ様
こちらこそ、ご来店ありがとうございました
扉の鈴が鳴る。
雨はまだ続いていたけれど、行きよりも足取りは軽く見えた。
その背を見送ってから、私は窓の外に目をやる。
遠くで護衛が傘を差しかけ、クラリス様が何か言って笑った。
帰った?
いつの間にか隣に来ていたディルク様が、静かに問う。
はい
どうだった
……普通のお客さまでした
それが一番、しっくりくる答えだった。
ディルク様は短く頷き、私の肩に手を置く。
それでいい
ええ。それでよかったんだと思います
厨房の方では、ノエルがうわあ、聖女様がクッキー持ってった……とまだ感動していた。マリアに声が大きいですと小突かれている。
いつもの店の音だ。
いつもの、あたたかい騒がしさ。
私は空になった器を下げながら、胸の奥でそっと息をついた。
許した、とは少し違う。
忘れた、でもない。
ただ、冷たかった雨の日に、同じ店のあたたかさを分け合えた。
たぶん和解というのは、ああいう小さな1杯から始まるのだろう。
そう思いながら、私は次の鍋の火加減を確かめに、いつもの厨房へ戻っていった。




