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目の前に見えるのは、ダンジョンの出入り口である大きなガラス製の自動ドア。本来ならば、センサーが感知して勝手に開くのだが、現在はダンジョン化しているために、通り抜けるには手動で開ける必要があるのだ。
自動ドアの向こう側には、歩道や道路にビル等が見えているのだが、通行人や走行車両などは全く確認できない。
薫は自動ドアを開いて、ダンジョンの外へと出た。アインスは、事前に言われた通りドアとの境界線上で、片手を前方に突き出した。そのままの状態を1分以上維持するアインスに、薫は自分の所まで来るように促した。
アインスの体は完全にダンジョン外へと出たが、見た目には特に変化はないようである。本人にも聞いてみたが、気分が悪くなったりなど肉体的精神的な不調も無いそうだ。
もしかしたら、1時間や1日後に変化があるかもしれないが、その時はその時だと思う薫である。
どうやら真祖・エルフは、本当にモンスターとは違う存在のようである。知識やレベルが高いのは謎だが、新人族と違って売買システムがないのは、残念な存在と言えるだろう。
取り敢えず、ダンジョン外でも問題がない事を確認した薫とアインスは、皆の待つ49階層へと戻ることにした。
しかし、犬の遠吠えがしてそちらを確認すると、赤い点で表示された犬の群れが、薫たちに襲い掛かろうと走り寄ってくる。
アインスは、犬へ向けてしっしっと手で払う動作をした。
――キャインキャイーン
先頭付近の犬4頭は、見えない何かに吹き飛ばされて宙を舞った。
仲間が攻撃を受けたことで、動きが一斉に止まった犬たちであったが、またしても遠吠えが聞こえると、こちらへ向かって走り出した。
顔を顰めたアインスは、左手を口元へと持ってくると、掌を開いた状態でふうぅぅぅっと、勢いよく息を吹きかけた。
すると今度は、5つの指先それぞれから、つむじ風が発生して犬たちへと向かっていく。それを見た薫は、視覚的に見えちゃダメだろう、さっきの方が目に見えないぶん優秀だったと思った。
だが、目に見えているつむじ風を避けた犬たちは、先ほどよりも勢いよく後方へと吹き飛んでいくではないか。どうやら視認できるつむじ風は、見えない風へ誘い込むためであったようだ。
強烈なカウンターを受けた犬3頭は、尻尾を丸めて戦意を喪失している。まだ一度も吹き飛ばされていない犬たちも、立ち止まったまま動こうとはしない。無闇矢鱈に突撃しないだけの思考力があるのか、恐怖で身が竦んでいるだけなのかは、犬たちにしか分からないが。
しかし、それを許さない存在がいるようで、またもや遠吠えがすると、犬たちは一斉にこちらへと走り出した。
アインスは溜息を吐くと、勢いよく燃え盛る1mほどの火球を作り出した。2度は不殺にしたアインスだったが、3度目は始末する気のようだ。数秒後には哀れな犬の姿焼きが量産されるだろう。
しかし、薫はアインスの行動を止めた。
「あんまり勝手な行動をしないでくれる? あれはモンスターじゃないから、攻撃しなくてもいいから。例え噛みつかれても怪我もしないし痛くもないから」
「分かった。夫の言い分を立てるのは良き妻として当然だからな」
「……ま、いいや」
アインスが薫の妻を自称するのは、パンパンが原因であるのだが、アインスとドライ以外は薫本人も含めて認めていない。
アインスの火球が消えると、犬たちは薫とアインスに対して猛然と襲い掛かってきた。だが、犬たちの牙や爪は薫たちにかすり傷1つも付けることが出来ない。
薫は群がる犬たちに対して、威圧を発動し犬たちの戦意を完全に削いでから、ドライタイプのドッグフードを手ずから与えだした。犬たちは大変に汚れているので、ドッグフードを与えながら清浄スキルで綺麗にしていく薫。
遠吠えが聞こえるが、どうやらこの犬たちは言う事を聞くことを止めたようだ。薫の威圧に加えて、噛んでも引っ掻いても傷付けられない相手と戦う気はなく、おまけに食い物までくれるのだ。犬たちが薫に対して逆らうメリットはないのだから、当然の結果である。
ただ見ていただけのアインスは、薫に言われて同じようにドッグフードを犬に与えだした。すると、犬たちがアインスへ甘えた声を出すようになった。アインスの表情も自然と柔らかくなっていた。
その無邪気な笑顔に、一瞬見蕩れてしまった薫であった。
業を煮やしたのだろう、遠吠えの主が姿を現した。犬たちは大型犬ばかりであるが、ボス犬はそれらの中でもひと回りほど大きい。確か、犬種は土佐犬だったかなと思う薫。
新人族になる以前の薫であれば、1人で相対した場合、確実に恐怖を覚えたであろう立派な体格をしているが、歯を剥き出しにして唸られても一目で痩せているのが分かる上に、悲しいかな圧倒的なステータス差がある為に全く恐怖を感じない。
こんな立派な犬が町中にいる理由は、飼い主が不幸なことにいなくなったか、捨てられたかだろう。孔老人たちの炊き出しなどによる頑張りと、新人族も増加傾向にあるようで、人間の食料問題はぎりぎりなんとかなっているが、動物にまで回す余裕はないようだ。
ボス犬が再び吠えようと口を開けた瞬間、薫の手はその首を掴んで地面に倒していた。何が起こったのか理解できていないボス犬に向けて威圧を発動した薫。
――くーんくーん
ボス犬は、あっさりと腹を出して降参のポーズをとった。薫の威圧がちょっとだけ効き過ぎたようで、ボス犬はお漏らしをしていた。
薫はボス犬も清浄スキルで綺麗した後、ドッグフードを与えた。
お腹が満たされた犬たちは、薫たちの周りに寝そべっている。そんな犬たちには全て首輪が嵌っているので、人に飼われていたのは確実である。
薫は[寛ぎの温泉宿・山]を取り出すと、その中へと犬たちを入れた。薫は犬たちを飼うことにしたようだ。放し飼いであるが。
山と小島で迷った薫であるが、淡水だけの山にしたようだ。犬が海水を飲むかどうか知らないが、避けられるリスクは避けるのが薫である。
薫は、全ての犬に万病薬(微)とHPMP回復薬(微)を飲ませてから、また来ることを伝えて魔道具から出た。不安そうに鳴くのも数頭いたが、薫の行動を変えるには至らなかった。
アインスは、犬たちの変わりように驚きはしたものの、甘えてくる犬たちを可愛いと思うようになった。
「カオル。あの犬たちとまた会えるか。私は、あの犬たちが好きになった」
「じゃあ、アインスがあの犬たちの面倒を見てよ。犬たちのエサは、魔道具の中の建物から選べばいいから。与えたらダメなエサの勉強をしてからだけどね」
「本当か。そうだ、ドライにも紹介してもいいか?」
「後でなら構わないよ。今は皆の所へ戻るよ」
「分かった」
アインスの言葉を最後に、2人の姿はその場から消えた。




