もう一度、父として
古びた文献には、初代当主レグナス・アークハルトの足跡が残されていた。
剣も槍も持たず、拳だけで魔の森を切り拓いた男。致命傷さえ一夜で癒し、戦うほど頑強になったという。さらに、女神ルミエラ様の導きを受けて北へ向かったと記されている。
《体術》。《超再生》。女神ルミエラ様の導き。
今朝、鑑定の儀を終えた息子と、あまりにも共通点が多い。
「初代様も、同じギフトを持っていたのかもしれません」
「可能性は高い。《超再生》という名は残っていないが、力の性質はよく似ている」
アレスは黄ばんだ紙面を食い入るように見ていた。つい昨日まで、家の歴史に興味など示さなかった息子が、今は一文字も見落とすまいとしている。
「初代様は、初めから領主だったわけではない」
私は古書を閉じた。
「一人の冒険者として各地を巡り、人々を守った。やがて仲間が集まり、北の森を守る砦を築いた。それが、今のアークハルト領の始まりだ」
「冒険者から、領主へ……」
最初に聞いたときは、鑑定結果から逃げたいのだと思った。だが、《超再生》を明かし、領外にも守るべきものがあると語った瞳に、投げやりな色はなかった。
何より、初代様も同じ道を歩んでいる。
「お前が初代様と同じ道へ導かれているのなら、父親の都合だけで止めるべきではないのかもしれんな」
「では……」
「冒険者を目指すことを許可する」
アレスの黒い瞳が、わずかに輝いた。十二歳らしい反応に胸が軽くなる。だが、喜ばせるだけでは終われない。
「ただし、条件がある。最初の半年は領内で鍛えること。魔の森へ入る前には、必ず私へ報告すること。最低限の領主教育も続けてもらう」
「分かりました」
「カイルが鑑定の儀を受けるまでは、正式な後継者の変更も行わない。最後に、《超再生》の存在を外へ明かさないこと」
「承知しました」
あまりにも早い返事に、思わず息子の顔を見つめる。
「……随分と素直だな」
「条件として妥当ですから」
「以前のお前なら、こんな会話にすらならなかった」
「昔の話です」
「今朝までの話だ」
アレスが小さく言葉に詰まり、私は久しぶりに息子を相手に笑いそうになった。
「本当の力を知るのは、私とエレナ、お前だけにする。屋敷の者には、自分の傷だけを治せる希少な《再生》と伝える。強化や適応、他者や物にも使えることは伏せろ」
「そうなれば、家の名に傷がつきませんか。世間は、俺を無能だと思い続けます」
心配したのは、自分の評判ではなく家の名だった。
「気にするな。お前はお前の道を歩め。ただし、家訓は忘れるな」
一、森を越えさせるな。
二、民の盾となれ。
三、恐れるな、退くな、諦めるな。
アレスは胸へ手を当てた。
「当然です、父上。必ず家訓を守ります」
その声を信じたいと思った。だが、一日で変わった息子を無条件に信じることが、父親として優しいとは限らない。
「《再生》があっても、痛みは消えないのだろう?」
「はい」
「ならば、自分の身体を大切にしろ」
アレスは、なぜか虚を突かれた顔をした。
「父上……ありがとうございます」
深く頭を下げ、執務室を出ていく。
その一言は、まるで自分の身体を心配してくれる者など、長い間どこにもいなかったかのように聞こえた。
◇
食事の前、私はエレナにだけ《超再生》の真実を話した。
「自分で手を切ったのですか?」
妻は胸元で両手を握り締めた。
「ああ。痛みがあるはずなのに、顔色一つ変えなかった」
「あの子が……」
以前なら、紙で指を切っただけでも屋敷中へ怒声を響かせた。エレナも、そこに同じ不安を覚えたのだろう。
「あの子が変わったことと、その力は関係があるのでしょうか」
「分からん。女神ルミエラ様の御心に触れたとも言っていた。だが、それだけですべてを説明できるとは思えない」
痛みに慣れた振る舞いも、覚悟を決めた目も、十二歳の子どもが一晩で身につけられるものではない。
「理由は分からん。だが、変わろうとしていることまで疑ってよいわけではない」
エレナの青い瞳が潤んだ。
「私、今朝から何度も声をかけようとしたのです。でも、また拒まれるのが怖くて」
「私も同じだ」
魔物が相手なら、剣を手に立ち向かえる。だが、拒絶を重ねてきた息子の部屋をたたくことには、いつからか恐れを覚えていた。
「今すぐ信じ切る必要はない。ただ、もう一度見よう。あの子がこれから何をするのか」
「はい。今度は、目をそらさずに」
◇
食堂へ入ったアレスは、並べられた料理を前に足を止めた。
焼きたてのパン。鶏肉と根菜のスープ。香草をまぶした肉。これまで何度も食べた料理を、初めて見るように見つめている。
「アレス。席に着きなさい」
呼びかけると、ようやく動いた。
ニーナが注いだスープを一口飲む。さじを持つ手が震え、頬を涙が伝った。
「アレス様! すぐに別のものを――」
「違う。美味いから泣いている」
食堂が静まり返る。
「これまでにも、同じ料理を食べているだろう」
「今日になって、ようやく価値に気づきました。温かくて、味があって……毒も入っていない」
胸の奥が冷えた。
どのような経験をすれば、食事を見てそのような顔ができるのか。問いただしたかった。だが、今だけは食べさせてやろうと思い、言葉をのみ込んだ。
アレスは二杯、三杯と平らげた。あまりの食べぶりに、カイルが心配そうに尋ねる。
「兄上。そんなに食べて、お腹が破裂しませんか?」
「破裂しても治る」
「アレス」
「……今のは例えです」
「どのような例えだ」
エレナと目が合う。私たちは何も言わず、カイルとリリアには秘密を背負わせないと確かめ合った。
「アレスお兄様」
六歳のリリアが、恐る恐る兄を見上げた。
「どうして今日は優しいの?」
幼い娘にとって、兄の優しさは、それほど不自然なものだった。
アレスは静かにさじを置く。
「リリア。今まで怖い思いをさせて悪かった」
次に、八歳のカイルを見る。
「カイルにも何度も八つ当たりをした。悪かった」
そして、私たちへ顔を向けた。
「母上にも、父上にも、ずっと迷惑をかけてきました」
椅子から下り、家族全員へ深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
待っていたはずの言葉だった。
いつか、自分のしたことに気づいてほしい。家族と向き合ってほしい。何度そう願ったか分からない。
それなのに、実際にその時が訪れると、喜びより先に痛みが込み上げた。
もっと早く止められたのではないか。叱るだけでなく、この子が何を苦しみ、何を恐れているのか、父として聞くべきではなかったか。
アレス一人だけが、間違えたわけではない。
エレナが席を立ち、息子の小さな身体を抱き締めた。
「よかった……本当によかったわ」
母の腕の中で、アレスはしばらく動かなかった。やがて、おそるおそる確かめるように、その背へ腕を回す。
「今度は、間違えません」
「今度?」
エレナに問われ、アレスはわずかに間を置いた。
「これからは、という意味です」
何かを隠している。それだけは、はっきりと分かった。
だが、今ここで問い詰めれば、ようやく家族へ伸ばした手を引かせてしまう気がした。
カイルは、もう自分をたたかないか、菓子を取らないかと一つずつ確かめた。リリアも、今日だけでなく明日も、その先も取らないのかと尋ねた。
アレスは、すべてに「しない」と答えた。
最後にリリアが、自分の菓子を少しだけ兄へ差し出す。
「お兄様がいい子なら」
アレスはそれを壊れ物のように受け取り、ゆっくり口へ運んだ。その表情が、ほんの少し緩んだ。
家族五人で食卓を囲む。ただそれだけのことが、失うのが怖いほど幸せだった。
◇
食事の後、私は屋敷を支える者たちへ、アレスには自分の傷を治せる希少な《再生》の力があるとだけ伝えた。
アレスは自ら皆を引き止め、これまでの振る舞いを謝罪した。
当然、それだけで失われた信用は戻らない。侍女長のエマも、これからの行動で判断すると告げた。
「当然だ。そのようにしてくれ」
アレスは怒らずに受け止めた。
言葉ではなく、これからの行動で。
それを見届けることが、父である私の役目なのだろう。
◇
その夜、私は暗い天井を見つめていた。
傷が閉じた手のひら。料理を口にして流した涙。家族や使用人へ下げた頭。どれも演技には見えない。
だが、私の知らない何かを抱えていることも間違いなかった。
なぜ、痛みに慣れている。
なぜ、温かい食事を失った者のように泣いた。
なぜ、「これからは」ではなく「今度は」と言った。
領主としては、変化の理由を突き止めるべきだ。父親としても、苦しんでいるのなら話してほしい。
しかし、無理に心をこじ開ければ、また閉ざすかもしれない。
ならば、目をそらさずに待とう。いつか、アレスが自分から話せる時が来たなら、父として受け止めよう。
◇
翌朝、私は日の出前に目を覚ました。
昨夜、アレスが騎士団副団長のルークへ、日の出前から鍛錬を頼んでいたからだ。訓練場へ顔を出せば息子は私を意識する。私は屋敷から見渡せる場所に立ち、離れたまま様子を見ることにした。
薄明かりの中、訓練着のアレスが現れた。
逃げなかった。
まず、それだけで安堵した自分が情けなかった。
団長のダリオとルークに迎えられ、屋敷の外周路を走り始める。一周はおよそ二百メートルだ。
一周目は足取りが安定していた。二周目には呼吸が乱れ、三周目には腕の振りが小さくなる。四周目を終える頃には、遠目にも脚が重いと分かった。
五周目。今にも止まりそうだった。
右足を地面のくぼみに取られ、身体が傾く。
「アレス……!」
思わず声が漏れた。
だが、息子は右手を地面へつき、身体を一回転させて立ち上がった。十二歳とは思えない滑らかな受け身だった。
もう走る力は残っていない。それでも両脚を震わせ、残りを一歩ずつ進む。最後の線を越えると、膝へ手をついた。
五周。わずか一キロ。
騎士として見れば、褒められた体力ではない。魔の森へ挑むには、あまりにも弱い。
それでも、昨日までのアレスなら最初の苦しさで立ち止まり、できない理由を誰かのせいにしていた。今日の息子は、自分の弱さを悔しがりながらも逃げなかった。
走り終えた後も、鍛錬は続いた。
構え。重心の移動。立ち方。歩幅。呼吸。
剣も魔法も使わず、同じ基礎を繰り返す。ダリオに姿勢を直され、ルークに動きを止められても、言い返さずにやり直した。
一度直された動きを、次には少しだけ良くする。できなければ、もう一度。さらにもう一度。
日の出から、およそ二時間。昇った太陽が朝露を乾かし始めても、アレスはまだ基礎を続けていた。
言葉ではなく、行動で示す。
この子は、もう始めている。
私は、変わった理由が分からないから信じられないのだと思っていた。
違った。
信じた後で、もう一度裏切られるのが怖かったのだ。
父親である私自身が傷つくことを恐れ、先に距離を取っていた。
アレスだけに、変わることを求めてよいはずがない。息子が一歩を踏み出したのなら、私も父として踏み出さなければならない。
何を隠しているのか、まだ分からない。本当に変わったのかも、一日だけでは決められない。
だからこそ、見届けよう。
失敗すれば手を差し伸べ、間違えれば叱り、立ち上がった時には努力を認めよう。
当主と後継者としてだけではない。
父と息子として、もう一度向き合おう。
訓練場では、汗にぬれたアレスが、崩れた構えを直していた。
その背中は、まだ小さい。世界を背負うには細く、魔の森へ挑むには弱く、たった五周で限界を迎える十二歳の背中だ。
あの日、私は、後に世界を救う英雄を信じたのではない。
ただ一度だけ――失いかけていた息子と、もう一度向き合ってみようと思ったのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、アレスが変わった最初の一日を、父ガレスの視点から描き直した独立短編です。
ガレスには、息子がなぜ突然変わったのか分かりません。アレスが一度滅びた世界で人類最後の一人となり、長い戦いの末に十二歳へ戻ってきたことも知りません。
父には見えなかったアレス側の真実――家族を守り、勇者と聖女を死なせず、滅びの運命を救い直していく物語は、長編本編で描いています。
▼長編本編
『怠惰で傲慢だった貴族直しで世界を救う』
https://ncode.syosetu.com/n7268mo/1/




