夜の梅
谷中にある友人の家を訪ねた。
友人とは言っても、相手は私より数十歳も上の年寄りだ。足腰は弱っているが口だけは達者で、よく家にお邪魔して茶をすすりながら話をする。いわゆる茶飲み友達である。
最寄りの駅を降りてしばらく、寺や家の建ち並ぶ静かな道をのんびりと歩いていると、やがていかにも古い平屋が見えてきた。今時珍しい木造の和風建築で、ささやかながら庭がある。
私は立ち止り、古いインターホンを押す。寒さに手をこすりながら待っていると、しばらくして家の奥から声がした。名を告げると軽い足音が近づき、目の前の曇りガラスの戸が開いた。
コンクリートのたたきには小柄な老人が立っている。その顔は皺くちゃなのに、目だけはきらきらと若者のように輝いている。この家の主である。我が友人は嬉しそうに笑って、どうぞと道を空けた。
「今日は、日差しは暖かだけれど、風が寒いですね」
「暖かくなるのは、まだしばらく先でしょうか」
とりとめのない話しをしながら、招かれるままに座敷に上がり卓に着く。正座に慣れていない身にはなかなか大変な姿勢だが、
「どうぞ、お楽に」
友人に言われるままに早速足を崩す。少し目線が下がった所でふっとガラス戸越しに庭を見やると、友人の丹精した庭木が枝にふっくらとした芽をつけているのが見えた。本格的な春の到来に向けて、芽吹きの準備をしているのだろう。花木もまた同様につぼみを膨らませ、暖かな日に一気に咲いてしまおうと身構えているようである。
と、今まで幾度も眺めた庭を改めて見つめているうちに、何か引っかかる物があった。私は立ち上がり、廊下の縁まで出てガラス戸に顔を押し付け、庭をしげしげと見た。
違和感の正体はすぐにそれと知れた。
「どうかしましたか」
振り返ると、友人が茶と菓子を乗せた盆を卓に置いている。
「梅が」
恐る恐る呟くと友人はああ、と頷いた。私の席と自分の席、それぞれに茶と菓子を並べ盆を畳の上に置く。
「切りました」
私は息を飲んだ。
この家の梅は幹こそ細いものの、この時期にはぽってりとかわいらしい花をつけ、ふくいくたる香りを漂わせていた。ひと足早い春の使者として、毎年この庭を賑わせていたのである。主の自慢の梅で、私は幾度その美しさ、香りの素晴らしさを聞かされたか分からない。
それを切るとは、よほどの事であるに違いなかった。
「何故」
友人は穏やかに頬笑みながらもどこか寂しそうに言った。
「幹が腐ってしまいましてね。大きなうろもできてしまっていたし、倒れては大変なことになるので、植木屋さんに頼んで切ってもらったのです。根っ子ももうありません」
私は何と言ってよいか分からず再び庭を見た。梅のあった部分は不自然に間が空いて、嫌でもいなくなった物を思い起こさせるようだった。
「そうそう、それでね」
茫然と庭を見る私に、友人はふっと笑いかける。その顔が不思議に明るかったので、私は少し驚いた。
「その梅について、面白い事があったんですよ。あなたの好きそうなお話」
まあ、お聞きなさいと言われたのをきっかけに、私は戸惑いながらも卓に着く。友人が茶をすするのに合わせて私も湯呑を手に取った。指先がじんじんと温まるのを感じながら口に含むと、ふわりと苦く芳醇な香りがした。
梅の木を切る、前の日の夜でした。わたしはどうにも悲しくてなかなか眠れずに、布団の中で目だけをつぶって、幾度も寝返りを打っていたんですよ。
そうするとね、真っ暗な夜の中になんだか声がするように思える。それも庭の方から。
おや、と思って耳を澄ませてみると、不思議なものですね、人間、集中すると感覚が研ぎ澄まされるようで、何を言っているのかちゃんと聞きとれる。
年のいった女とまだ若い娘の声でした。それがどうにも年上が若いのを諌めているような、言い聞かせているような、そんな風に聞こえるのです。若い方は消え入りそうな声。
わたしは気になってしまって、布団の中で息を殺すようにしていました。
――あんたがそんなんじゃ、困るよ。
年上の女がぴしゃりと言う。
――いつも下ばっかり向いて、私なんて、って謙遜しているつもりかい。そんなのやめちまいな、胸糞悪い。
娘の返事はありません。きっと、何も言えずに黙っているのでしょう。その様子にじれったくなったのか、年かさの方がさらに言葉を続けます。
――そりゃあね、奥ゆかしくしているのも良いさ。普通ならね。けど、次からはそんなのダメさ。あんたにはあたしの代わりになってもらうんだからね、しっかりしておくれ。
――でも、ねえさん。
弱々しく若い声。おや、姉妹だったのか、それにしては随分年が違うようだ、とわたしは不思議に思いました。声の様子からは、親と子でもおかしくないような年の差を感じていたのです。
若い娘は小さい声で不安そうに言いました。
――春を呼ぶなんて、そんなお役目、わたしに務まるかしら。とっても難しいことだし、わたしじゃ相応しくないんじゃないかしら。
――何を言っているんだい。
ふっと、女が笑いました。
――あんた、自分の姿を見たことないだろう。あんたの咲き誇った姿ときたら、誰だって目を止めちまうよ。
元気づけるように女は言いますが、それでも娘はまだ不安なのでしょう、清らかな声を震わせながら、
――でもねえさん、わたしはねえさんみたいに遠くまで届く匂いもしないし、それに美しくいられるのも長くないわ。
――それは承知の上さ。
年上の女の声にぐっと力がこもりました。しっかりと噛んで含めるように、娘に言い聞かせます。
――それでもね、やっぱりあんた達には華があるんだよ。長く愛でられているだけあってね。
――それはねえさん達だって同じよ。
――そうかもしれないね、自慢するわけじゃないけど。けどね、少なくともこのあたしはもうダメさ。
――ねえさん。
娘の声が悲痛に響きます。私の目には、取りすがる娘とその目を見ながらかぶりを振る女の姿が、ありありと映るようでした。
――いいや、余計なことを言うのはおよし。あたしにはちゃんと分かっているんだからね。お前も聞いていただろう? ご主人があたしの根元にお酒を注ぎながら言い聞かしてくれたことを。
女の声がふっと涙ぐむように滲みました。
わたしは凍りついたように動けなくなりました。
夕方のことでした。わたしは切り倒される梅の木に、今までの花実の感謝と惜別の情を込めて、秘蔵の酒をかけてやったのです。
――あたしの身は病に冒されている。だから明日までの命と決まったのさ。ご主人には恨みはないよ。とても大事にしてもらったし、最後には上等の大吟醸まで頂いたんだからね。
女の声は静かながらも、どこか誇らしげに夜の闇に凛と響きます。
――ご主人はいつもあたしが咲くのを楽しみにしていたさ。“お前が春を呼んでくれる”と言ってね。花が咲いたらそれを見ながら花見酒、あたしが実をつけたらそれで梅酒造り、まあなんとも、飲むのが好きなお人だったね。
くっくっと、心底おかしそうに笑う。そうね、と、娘も柔らかに応えます。
――わたしが咲いた時も、それはそれは喜んでくださるわ。わたし、それを見る度に、また咲いて良かったって思うもの。
――ね、そうだろう。
女はしゃっきりと口調を引き締めました。
――だから、あんたにはまだまだこのお庭で頑張ってもらわなきゃいけないのさ。
言い聞かせるように、懇願するように、元気づけるように。きっと女は娘の両肩に手をやっていたに違いありません。そう思わせるほどに、力のこもった声でした。
――ねぇ、少しばっかし早めに目を覚まして、春を呼んでおくれ。上を向いて、誇らしく咲いておくれよ。すっかりお歳を召しちまったご主人のためにもさ。あの人を悲しませるわけにはいかないだろう?
娘の声は聞こえませんでしたが、そうかいそうかい、と涙まじりに女の声がしたので、きっと引きうけてくれたのだと思います。
それきり、二人の声は聞こえなくなりました。
私は布団から両手を出して目を覆いました。二人の会話に、その心に、胸の中がじんわりと熱くなり、その熱が目から涙となってこぼれ落ちるようでした。
「そして次の日、梅の木は切り倒されたのです」
友人の語りが終わって、私はふうと息をついた。その時初めて自分が湯呑を持ったままだということに気が付き、慌てて茶托に戻した。中身はすっかり冷めていた。
「ごらんなさい」
友人が立ち上がり、ガラス戸を大きく開ける。ひゅっ、と吹き込む風の冷たさに思わず身震いしながらも、私も立ち上がる。
友人は庭の隅を指している。その先を見て、私は思わずあっと声をあげた。
ひょろりと頼りない桜の木に、一輪の花が咲いていた。
まだまだ寒いせいか、花は寒風に耐えるように小さく震えている。それでも、それは間違いなく春の印であった。庭の花木の代表となったその使命を果たさんとばかりに、凛と上を向いていた。
「桜は普通、下を向くものなんですがね。梅のねえさんに怒られたからでしょうか」
友人は桜を愛おしそうに見つめる。その横顔には、深い慈しみが溢れていた。
黒い羊羹に小豆の断面が白く浮かんでいる。上物の茶菓を食べながら、友人は静かに呟いた。
「あなたには、色んな話をしましたね」
「ええ」
私は頷きながら、淹れ直してもらった茶を飲む。
幻の家と猫、目眩を起こした時の竹やぶからの声、大仏の家出なんてものもあった。
紫陽花が見せた昔に、おかしなサソリの話。薄原の黒い影、不思議な祭り、白い子供、冬の幻想。そして、夜の梅。
友人が若者だった頃の話から、つい先日の物まで。こうして振り返ってみると、その身の回りには常に不思議なことが起こっているように思える。まるで、不可思議な出来事が友人を慕って寄ってくるかのように。
そう言うと、友人はおかしそうに笑った。若者のような快活な声だった。
「そんなことない、不思議っていうのはね、そんなに特別なものじゃないですよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ。案外ね、身近に転がっているものですよ」
亀の甲より年の功とは言うものの、こればかりはどうにも怪しいように思う。私は友人の顔をまじまじと見た。相手は澄まし顔で茶をすすり、羊羹をぱくっと口にした。
「何にせよ、あなた、力んじゃいけませんよ」
力んで探したって見つかるもんじゃなし、と飄々と言う。
「不思議は身近にあり、されど探す物でなし。気がつけばふいと傍らにある。あとはそれを受け入れられるかどうか、ですよ」
そう締めくくって、友人はにっこりと笑う。その笑みを見ているうちに、釈然としないながらもまあ良いか、という気がして、私は詮索をよしてしまった。
「また、何かあったらお話してくださいね」
「ええ、また、何かありましたらね」
互いに確かめるように言って、私たちはどちらからともなく庭を見た。
柔らかな日差しが庭土を暖かに照らしている。まだまだ冷たくも新しい季節の予感をはらんだ風が、優しく庭木を揺らしている。
春はすぐそこまで来ている。
『無名日記』これにて完結です。
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。