39 反則
「俺が死ぬより君が傷つくのが辛いからなんて言って縛り付けようとしてるんだから、かわいげもないな」
「……でも、この手を離せそうにないのでしょう?」
「……ああ」
問いかけると、観念したような声がして、がっちりとホールドされている腕は変わらない。
引っぺがそうと押しのけても、きっとどかないので、ヘルガは少し考えて腕をポンポンとたたいて「苦しいです」と言った。
すると少しだけ腕が緩む。そのすきにくぐり抜けてオリヴァーの暑苦しい拘束から逃れる。
「っ、ヘルガ」
責めるように名前を呼ばれたが、実際に責める言葉は出てこない。
オリヴァーに正当性がないことを彼自身が理解しているからだ。ヘルガは立ち上がって手を前に出して「待ってください」と考えながら口にする。
「待てって何を?」
「わかりませんが、待ってください」
「……」
どうやら待つことはできるらしい。お預けされた犬みたいに恨めしい目をしているが、ヘルガは髪を整えて、ふうと一息ついた。
(まったく困った人です。それに婚約者として男女の関係を構築しようとしているときに、幼なじみらしくベタベタと。魅力的な女性と言っておきながら、今はそんなふうに見る余裕もないのでしょうね)
ヘルガは今、オリヴァーに抱きつかれると多少ドキリとするのに、彼はそんな様子もない。彼がずっとその調子ではヘルガだって困るのだ。
派閥争いの件がいつか解決するとしてもどんな話になるかもわからない。
その間ずっとそんなに切羽詰まった様子では、話が進まないだろう。
ヘルガは彼を幸せにしたいのだ、こんなところで停滞する理由もない。
「深く腰掛けてくれますか」
「?」
「いいから」
言いながらオリヴァーの肩を押してソファーの背もたれに押しつける。
それから、ミュールを脱いでソファーの座面に乗り上げ、オリヴァーの膝の上に横向きに座った。
「はい」
それから手を広げて彼に抱きつく。
胸板に顔を預けて、柔らかいシャツが頬に触れて心地が良い。別にこのまま眠ってしまっても良いぐらいで、目を閉じる。
「……ヘルガ」
「なんですか」
「このままずっと離さななくてもいいか」
「良いとは、言いませんよ。ただ、こうしてすっぽり抱かれているので、あなたが離していいと思うまでどこにも行きません。誰にも傷つけられたりしません。あなたに守られてるだけです」
「ずるいこと言うなよ、いい言っていってくれ」
「ダメです」
食い下がってくるオリヴァーに少しヘルガは笑って答える。
ヘルガは知っている。
オリヴァーはその辛い気持ちを持っていたとしても、彼は彼自身だけを愛して彼のエゴだけで動いているわけではない。
ヘルガが、きちんと距離を置こうと言っても呑み込んでくれるし、ヘルガがやりたいことを決して邪魔をしたりしない。
折り合いをつけて、一人の人間として尊重して、ヘルガのことを愛してくれている。
だからオリヴァーはきっと時が来ればちゃんとヘルガのことを離してくれるし、ヘルガの起こす行動を認める。
その彼の愛をヘルガは信じている。だからオリヴァーの胸元に収まって笑みを浮かべることができる。
「ふふっ、幼い子供みたいですね」
慈しむように背をなでられて、落ち着いた息づかいをうなじで感じる。
時たまぎゅっと抱かれて、ヘルガも抱き返す。
(私はここにいます。あなたの手の中に、守られていますよ。こうしていなくとも、私の指針です。あなたは私の誰より大切な人で理解者ですからね)
そうして、まったりとした時間を過ごした。ふとして、頬に手を添えられて導かれるみたいにして顔を上げた。
ゆっくりとした動作でキスをされて、ヘルガは怪訝な顔をした。
「なんだ、その顔」
「……」
「かわいいなぁ」
(??)
つぶやくように言われてまた唇を重ねる。
ヘルガはてっきり今は、大事な幼なじみとしての関係と時間だと思っていたのにキスされた。
急にキスされた。
幼い頃の延長戦の関係性なのに、今のヘルガは女性としてではなく、兄姉みたいな関係のヘルガとして接したのに。
疑問に思ったのに、胸がドキッとして体が硬くなる。
背中をなでる手にびっくりして肩をすくめた。
(それはおかしくないですか?)
「愛してる。俺だけの君だ」
ほころんだ表情、甘ったるい言葉、少しの熱に浮かされた瞳。
なぜ彼は、幼なじみと恋人を反復横跳びするようなことができるのか。
それは、完全に別れているもので、ベースは幼なじみで、改めてしっかりと切り替えて恋人として進展させていくものではないのか。
「俺だけに守られてくれる、俺の大切な人だ」
「っ……っ? ンッ」
とても気軽にキスをされて、ひょいと後ろにのいて顔をそらすと今度は耳にリップ音が響いて吐息がかかる。
「ひゃわ」
「かわいい声」
「っ、う」
首筋に唇がついて吸い付かれて、わたわたと抵抗をするが、丁寧に手をどけられて逃れるすべがない。
まだ、こんなふうに進んでいく覚悟などできていないし、恋人としてだったら彼の上に乗ったりしなかった。
兄姉のような幼なじみだったらからこうしたのだ。今までの彼との関係を考えて選んだだけだ。
だって、子供っぽくヘルガにすがって、今はそういう関係を望んでいると示したのは彼だろう。
(い、言ってた訳じゃないけど、だって! そういうふうだったじゃないっですか!)
心の中で言い訳をしていても、体がこわばって結論が出ない。
すっぽり収まって、靴も脱いでしまっているので逃げようもない。
「ヘルガ」
「う、」
「愛してる」
「ま、待って」
なんとか言葉を吐き出す。
しかし、少し止まってじっと見られても、うまくオリヴァーの行動を否定する言葉が出てこない。
たしかに、恋人としてだったらこんなに大胆な行動をしたヘルガに愛情を伝えるのは当たり前だ。
何も間違っていない。けれどもそんなつもりじゃなかった。
そういうつもりではなかったが、彼にそれを今説明できない。
それになにより、漠然とヘルガが、恋人と幼なじみを分けていただけで、正解などはどこにもない。
幼なじみの延長線上で、恋人としても愛することだって不可能というわけではないのだ、とヘルガは今更気がついた。
(でもっ、でも、さっきまであんなに、突然情緒不安定だったり、すねたり、強がったり、子供っぽいあなただったのに! そんな調子だったのに、なんで急に男の人になるんですか!)
「は、反則っ、反則です」
「反則ってなんだ。俺の知らないルールで反則なんて言われても従う理由がないぞ」
「ご、ごもっとも……っんん」
オリヴァーの的確な返答にヘルガは、混乱から思った言葉をそのまま口にした。
するとそれなら良いはずだとばかりに、唇が重ねられる。
慰めて安心させてやるつもりだったが、それだけでは済まない夜を過ごすことになったヘルガなのだった。




