第155回:武則天の時代
ミニコラムの続きです。
元々、則天武后は、唐の2代目皇帝太宗李世民の側室でした。本名は武照と言います。
しかし、息子の3代目皇帝高宗に気に入られ皇后となります。病気がちだった高宗は皇后の則天武后に次第に実権を握られます。
そして則天武后は夫の高宗が亡くなった後は、自身の息子で高宗の七男にあたる中宗を皇帝にします。しかし、彼は傀儡でした。操り人形だったという意味です。
則天武后は中宗を気に入らなかったのか、わずか54日で廃位します。つまり、皇帝を辞めさせたのです。そして、もう一人の自分の息子である李旦に皇帝の座をすげ替えました。李旦は中宗の弟です。李旦は、後の世では、睿宗皇帝と呼ばれます。
則天武后は後宮の奥から簾を介して自ら大臣たちに政務を指示するという「垂簾政治」を行うようになりました。
ついには自ら皇位について則天武后から「武則天」となります。中国史上唯一の女帝の誕生です。
国の名前も「周」と改めました。
なお、武則天は権力志向も強いながら、政治能力も抜群に高く有能でした。
つまり、君主として見た場合は、権力を使って遊びほうける暗君ではなかったのです。彼女は人材育成に熱心な優れたリーダでした。自身に対する有力貴族の積極的支持がないと自覚していました。
このため、自身の権力を支える人材を科挙により非貴族層から積極的に登用したのです。科挙とは、めちゃくちゃ難しい国家試験のことです。誰でも受けられる試験だったのです。だから、科挙は生まれた血統にかかわらず色んな階層から有能な人材を集める手段となりました。
具体的には、狄仁傑・姚崇・宋璟・張説などの政治家が武則天により見出されています。
どの人物も「唐王朝の名臣かつ名宰相」として後世に名を残しています。特に狄仁傑は、武則天時代の優れた政治の立役者と言えます。
狄仁傑は、そんな大したやらかしでもない犯罪に「死刑だ!」と裁定が出た場合に「罪が重すぎます。流罪に留めるべきです」といって理不尽な刑罰を抑止するなど、理にかなった政治を行った功績がありました。
さらに、狄仁傑は、地方官として赴任した場合も人心を得た適切な政治で民から大変慕われました。狄仁傑の優れた実績に武則天も尊敬の念を持っていました。
「国老」という敬称で呼び、狄仁傑の言葉には耳を傾けたそうです。
このように、武則天の人を見る目は確かだと言えます。しかし、その反面、娘の太平公主を始めとして自分の親族の武氏一族には甘い態度でした。
武氏一族をえこひいきして重用したのです。これにより外戚の政治の専横を招きました。武則天の一族が威張り散らすようになったという事です。
さらに、敵対する者は徹底的に弾圧して権力を維持します。その反面、庶民には優しい君主でした。庶民が武則天の悪口を言った時は「言わせておきなさい」と水に流したそうです。
通常は君主への悪口は不敬罪になります。死刑になる事もありえるのです。しかし、武則天は自分の立場の脅威とならない相手には寛大でした。
つまり政敵となりえない相手には残酷な態度は取りませんでした。一般庶民の悪口などは「いちいち罰していてもキリがないわ」という態度だったのですね。
といいつつ、宮廷内での締め付けは相当なものだったようです。武則天の時代は庶民はゆっくり休養して、宮廷人は戦々恐々としている日々だったのです。
そのために、宮廷内での反発は多くくすぶっていたようです。武則天が晩年に病床につくようになると権力を維持できなくなりました。最後は無理やり退位させられます。
ちなみに、武則天は改名マニアでした。なんでもかんでも「新しい名前をつけたガール」だったのです。自分の称号も何度も変更しています。さらに、元号も彼女の時代だけ4文字になったりしています。
それだけでは満足できず、自分でオリジナルの漢字を作ったりしています。「則天文字」といいます。ほとんどは現在は使われない文字ですが「徳川光圀」の「圀」の字だけは現在でも使われている則天文字です。
圀の中を見ると「八方」って書いてありますね。「城壁の囲いから八方に広がる土地をくにと呼ぶ」という事を表現したかったのかも知れませんね。




