第14回:孫武は妃を斬る~へい兵法~♪
ミニコラムの続きです。
孫武は春秋時代の斉国に生まれます。
彼は現代でも通用する兵法書を書きました。二千年以上経っても有用性のある兵法書って半端ないですよね。
孫武は若い時から過去の兵法書を読み漁り研究しました。特に、商の名臣伊尹、殷周革命の軍師太公望、斉の桓公を覇者にした管仲などの軍略を参考にしたそうです。
そして、世に名高い「孫子の兵法書」を書きました。子というのは先生という意味です。つまり、孫子は「孫先生」、孔子は「孔先生」という意味があります。
せっかく優れた軍事知識をゲットした孫武ですが、一族内のイザコザで一家で南方の呉の国に逃れる事になります。当時新興国だった呉ですが、幸いな事に彼の兵法書を読んで、軍事の才能を見抜いた人物がいました。重臣の伍子胥です。
伍子胥はそもそも彼自身が名将である人物です。孫子の兵法書のレベルが「半端ねぇなコレ!」ないとすぐ理解しました。
そして、伍子胥は主君である呉王の闔閭に「孫武はスゲえ奴ですから登用すべきです!」と勧めます。しつこく7回も。うんざりしながらも闔閭は、孫武の兵法書を読み、興味を持ち、本人と会ってみる事にしました。
孫武に会った闔閭は「貴方の兵法書を読みました。しかし、実際に軍の指揮指導ができるか見せて欲しいですな」と言いました。
しかし、用意していた兵たちはなんと後宮の女官たちでした。もちろん武器を持ったことすらありません。孫武の能力を審査するには、なんとも意地悪なメンバーでした。
孫武はムッとします。そして、「できますが、どうなっても知りませんよ」と言って、軍事指導を行う事にしました。
「ただし、やるからには私の指示に従ってもらいます。王様といえども軍の指揮については口出しできませんのでそのおつもりで」と念を押しました。
そして、最初は孫武は丁寧に官女達に、戦い方を説明しました。しかし、官女達はキャッハウフフと笑ってばかりで、真面目に訓練を行いません。
孫武は最初は自分の責任だと詫びます。しかし、それでも官女達は笑ってばかりでした。
この為、孫武は隊長役を命じていた官女2名を軍法に違反したという理由で斬首を命じます。
びっくりした王の闔閭は「貴方の覚悟はよくわかった、しかし彼女達に罪はない。それだけはやめてくれ」と頼みました。
しかし、「王様といえども軍の指揮については口出しできないと言いましたよね?」と、孫武は取り合わず官女2名を斬首しました。
他の官女達は震え上がりました。それ以降の訓練は真剣に行われます。その軍事行動は非常に洗練されたものになったそうです。
闔閭は憮然としながらも、孫武の能力を認めました。
その後は、孫武と伍子胥の2将の活躍で呉は大躍進します。特に「柏挙の戦い」で、呉王闔閭は、孫武と伍子胥を将軍に任命し、楚に向けて出兵しました。
呉軍は、楚軍の油断を突くために、長江を遡って楚の背後を攻撃するという奇策を用いました。
楚軍は、呉軍の奇襲に動揺し、大混乱に陥りました。呉軍は、楚軍を次々(つぎつぎ)と撃破し、楚の首都の郢に迫りました。
楚の昭王は、首都から脱出し、随の国に逃げました。呉軍は、敵国の首都を占領し、楚の国力を大きく削ぎました。
つまり、大国楚を相手に孫武と伍子胥のコンビで大勝利を収めたのです。
孫武は、この戦いの実績と伝説の兵法書『孫子』とで、後世に多大な影響を与えました。
しかし、その後、闔閭は孫武の助言を無視して越国を攻めました。そして、闔閭は越国に手痛く逆撃され負傷の末に亡くなります。
呉王の後を継いだのは息子の夫差ですが、彼を補佐したのは伍子胥でした、孫武がその後どうしていたのかは記録がありません。この頃には亡くなっていたとも言われます。
ちなみに、孫武の兵法書は実は長い間議論がありました。「孫武は実在しない」「孫子の兵法書は孫武ではなく彼の子孫の孫臏の作だ」という説があったのです。
永遠に解決しないと思われていた疑問は1972年に解決しました。出土された竹簡により「孫子の兵法書は孫武の作であり、孫臏が書いた兵法書は別に存在する」ということが判明したのです。
二千年以上を経て真相が判明するとはロマンある話ですね〜。