ミニコラムの続きです。
孔子は儒教の開祖です。周公旦を祖とする魯国に生まれます。現在の山東省です。本名は孔丘と言います。
孔子の父は彼の出生時、既に70歳を過ぎていていました。母は身分の低い若い巫女でした。父は孔子の出生後間もなく亡くなります。母に育てられましたが、母は葬儀などの儀式の専門家でした。今で言うと葬儀社に勤めるシングルマザーだったのです。
孔子は、そんな母の姿を見て儀式の真似事をしていたそうです。そんな母も、彼が17歳の頃に亡くなります。孤児になりながらも彼は独学で礼楽を学んでいます。
そして、青年となった孔子は、魯国に仕官します。祈祷師の様な仕事でした。そこで彼は礼学の重要性を知ります。
そして、魯国内の権力争いで君主の立場が不安定な状況を知ります。孔子は「君主には礼を尽くし、敬意を払い、うやうやしく従うべきである。下の者が分相応を超えると国が乱れるもとになる」と考えるようになります。
魯国は周公旦の作った国であり、彼は儀礼と音楽を重視しました。周公旦を心から尊敬する孔子は「真の儀礼とは何か?真の政治とは何か?」を知りたくなります。
この為、彼は各地を巡り、独学で必死に礼学を学びます。そして、彼なりに体系立てて知識を整理して礼学による国の統治の思想を作り上げました。
そして「人は人間愛を持つべきである。つまり、君主に忠誠を捧げ、親を尊び、臣下を大切にし、子を慈しまねばならない」「重要なのは人を大切にする心だが、それは心で思っているだけではダメで、形にして表さなければならない。それが礼儀であり儀式であり礼学だ」という考え方です。
孔子は相手への真心を「礼」という形で相手に見せる事を重視します。日本でも学校で授業を始める前には「先生よろしくおねがいします」と礼をしますがこれも孔子の影響です。「先生を尊敬する気持ちを持っているだけではダメでそれを礼として表さなければならない」という考えなのです。
孔子は、臣下が君主に対する礼を表すための儀式についてもこだわりを持ちます。楽器を鳴らし、頭を下げ…といった形で、「礼」を厳粛で時間のかかる優雅な儀式に変えていったのです。
孔子は現実の政治の改善にも興味を持ちました。周公旦の時代の政治が理想であり、その時代に立ち返る事が必要だと訴えたのです。
孔子は自分の思想を各国に取り入れて欲しいと考えます。すでにこの時孔子は50歳を過ぎていました。しかし、孔子は行動を起こします。実際に自分の足で各地を周り、理想の政治を王に訴えたのです。
しかし、うまくいきませんでした。つまり、政治家としては成功しませんでした。しかし、彼の下には、彼の思想に賛同した弟子が多数集結します。弟子の数は3000人を超えたそうです。その中からは数々(かずかず)の有名な思想家が生まれます。孔子は、教育家としては、大成功したのです。
孔子は68歳で故郷の魯に帰国します。そこから、弟子を育て更に執筆を行いました。自身の思想は「論語」という著作にまとめ、故郷の魯国の歴史は「春秋」という書物にまとめました。
孔子の構築した思想は弟子たちによってまとめられ、儒教と言われるようになります。宗教として扱われますが、神や死を扱わず、現実世界の生き方を説いており、宗教というより哲学に近い考え方になっています。
「主君への忠誠が重要」という教えが君主にとっては都合が良かった為、その後の歴代王朝の思想の中心として儒教が採用される様になっていきます。
つまり、孔子は思想家としては、史上最高峰というべき大成功を収めた事になります。
孔子の思想は、仁(思いやり)、義(正義)、礼(礼儀)、智(知恵)といった道徳観を重視、社会秩序の維持と人々(ひとびと)の幸福を追求するものでした。
彼の思想は、儒教として後世に受け継がれ、中国をはじめとする東アジア(ひがしアジア)の思想や文化に大きな影響を与えました。