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第13回:こうして孔子は儒教を作った

ミニコラムの続きです。

孔子(こうし)は儒教(じゅきょう)の開祖(かいそ)です。周公旦(しゅうこうたん)を祖(そ)とする魯(ろ)国(こく)に生(う)まれます。現在(げんざい)の山東省(さんとうしょう)です。本名(ほんみょう)は孔丘(こうきゅう)と言(い)います。


 孔子(こうし)の父(ちち)は彼(かれ)の出生時(しゅっせいじ)、既(すで)に70歳(さい)を過(す)ぎていていました。母(はは)は身分(みぶん)の低(ひく)い若(わか)い巫女(みこ)でした。父(ちち)は孔子(こうし)の出生後間(しゅっしょうごま)もなく亡(な)くなります。母(はは)に育(そだ)てられましたが、母(はは)は葬儀(そうぎ)などの儀式(ぎしき)の専門家(せんもんか)でした。今(いま)で言(い)うと葬儀社(そうぎしゃ)に勤(つと)めるシングルマザーだったのです。


 孔子(こうし)は、そんな母(はは)の姿(すがた)を見(み)て儀式(ぎしき)の真似事(まねごと)をしていたそうです。そんな母(はは)も、彼(かれ)が17歳(さい)の頃(ころ)に亡(な)くなります。孤児(こじ)になりながらも彼(かれ)は独学(どくがく)で礼楽(れいがく)を学(まな)んでいます。


 そして、青年(せいねん)となった孔子(こうし)は、魯(ろ)国(こく)に仕官(しかん)します。祈祷師(きとうし)の様(よう)な仕事(しごと)でした。そこで彼(かれ)は礼学(れいがく)の重要性(じゅうようせい)を知(し)ります。


 そして、魯(ろ)国内(こくない)の権力争(けんりょくあらそ)いで君主(くんしゅ)の立場(たちば)が不安定(ふあんてい)な状況(じょうきょう)を知(し)ります。孔子(こうし)は「君主(くんしゅ)には礼(れい)を尽(つ)くし、敬意(けいい)を払(はら)い、うやうやしく従(したが)うべきである。下(した)の者(もの)が分相応(ぶんそうおう)を超(こ)えると国(くに)が乱(みだ)れるもとになる」と考(かんが)えるようになります。


 魯(ろ)国(こく)は周公旦(しゅうこうたん)の作(つく)った国(くに)であり、彼(かれ)は儀礼(ぎれい)と音楽(おんがく)を重視(じゅうし)しました。周公旦(しゅうこうたん)を心(こころ)から尊敬(そんけい)する孔子(こうし)は「真(しん)の儀礼(ぎれい)とは何(なに)か?真(しん)の政治(せいじ)とは何(なに)か?」を知(し)りたくなります。


 この為(ため)、彼(かれ)は各地(かくち)を巡(めぐ)り、独学(どくがく)で必死(ひっし)に礼学(れいがく)を学(まな)びます。そして、彼(かれ)なりに体系立(たいけいた)てて知識(ちしき)を整理(せいり)して礼学(れいがく)による国(くに)の統治(とうち)の思想(しそう)を作(つく)り上(あ)げました。


 そして「人(ひと)は人間愛(にんげんあい)を持(も)つべきである。つまり、君主(くんしゅ)に忠誠(ちゅうせい)を捧(ささ)げ、親(おや)を尊(とうと)び、臣下(しんか)を大切(たいせつ)にし、子(こ)を慈(いつく)しまねばならない」「重要(じゅうよう)なのは人(ひと)を大切(たいせつ)にする心(こころ)だが、それは心(こころ)で思(おも)っているだけではダメで、形(かたち)にして表(あらわ)さなければならない。それが礼儀(れいぎ)であり儀式(ぎしき)であり礼学(れいがく)だ」という考(かんが)え方(かた)です。


 孔子(こうし)は相手(あいて)への真心(まごころ)を「礼(れい)」という形(かたち)で相手(あいて)に見(み)せる事(こと)を重視(じゅうし)します。日本(にほん)でも学校(がっこう)で授業(じゅぎょう)を始(はじ)める前(まえ)には「先生(せんせい)よろしくおねがいします」と礼(れい)をしますがこれも孔子(こうし)の影響(えいきょう)です。「先生(せんせい)を尊敬(そんけい)する気持(きも)ちを持(も)っているだけではダメでそれを礼(れい)として表(あらわ)さなければならない」という考(かんが)えなのです。


 孔子(こうし)は、臣下(しんか)が君主(くんしゅ)に対(たい)する礼(れい)を表(あらわ)すための儀式(ぎしき)についてもこだわりを持(も)ちます。楽器(がっき)を鳴(な)らし、頭(あたま)を下(さ)げ…といった形(かたち)で、「礼(れい)」を厳粛(げんしゅく)で時間(じかん)のかかる優雅(ゆうが)な儀式(ぎしき)に変(か)えていったのです。


 孔子(こうし)は現実(げんじつ)の政治(せいじ)の改善(かいぜん)にも興味(きょうみ)を持(も)ちました。周公旦(しゅうこうたん)の時代(じだい)の政治(せいじ)が理想(りそう)であり、その時代(じだい)に立(た)ち返(かえ)る事(こと)が必要(ひつよう)だと訴(うった)えたのです。


 孔子(こうし)は自分(じぶん)の思想(しそう)を各国(かっこく)に取(と)り入(い)れて欲(ほ)しいと考(かんが)えます。すでにこの時(とき)孔子(こうし)は50歳(さい)を過(す)ぎていました。しかし、孔子(こうし)は行動(こうどう)を起(お)こします。実際(じっさい)に自分(じぶん)の足(あし)で各地(かくち)を周(まわ)り、理想(りそう)の政治(せいじ)を王(おう)に訴(うった)えたのです。


 しかし、うまくいきませんでした。つまり、政治家(せいじか)としては成功(せいこう)しませんでした。しかし、彼(かれ)の下(した)には、彼(かれ)の思想(しそう)に賛同(さんどう)した弟子(でし)が多数(たすう)集結(しゅうけつ)します。弟子(でし)の数(かず)は3000人(にん)を超(こ)えたそうです。その中(なか)からは数々(かずかず)の有名(ゆうめい)な思想家(しそうか)が生(う)まれます。孔子(こうし)は、教育家(きょういくか)としては、大成功(だいせいこう)したのです。


 孔子(こうし)は68歳(さい)で故郷(こきょう)の魯(ろ)に帰国(きこく)します。そこから、弟子(でし)を育(そだ)て更(さら)に執筆(しっぴつ)を行(おこな)いました。自身(じしん)の思想(しそう)は「論語(ろんご)」という著作(ちょさく)にまとめ、故郷(こきょう)の魯国(ろこく)の歴史(れきし)は「春秋(しゅんじゅう)」という書物(しょもつ)にまとめました。


 孔子(こうし)の構築(こうちく)した思想(しそう)は弟子(でし)たちによってまとめられ、儒教(じゅきょう)と言(い)われるようになります。宗教(しゅうきょう)として扱(あつか)われますが、神(かみ)や死(し)を扱(あつか)わず、現実世界(げんじつせかい)の生(い)き方(かた)を説(と)いており、宗教(しゅうきょう)というより哲学(てつがく)に近(ちか)い考(かんが)え方(かた)になっています。


 「主君(しゅくん)への忠誠(ちゅうせい)が重要(じゅうよう)」という教(おし)えが君主(くんしゅ)にとっては都合(つごう)が良(よ)かった為(ため)、その後(ご)の歴代王朝(れきだいおうちょう)の思想(しそう)の中心(ちゅうしん)として儒教(じゅきょう)が採用(さいよう)される様(よう)になっていきます。


 つまり、孔子(こうし)は思想家(しそうか)としては、史上最高峰(しじょうさいこうほう)というべき大成功(だいせいこう)を収(おさ)めた事(こと)になります。


 孔子(こうし)の思想(しそう)は、仁(じん)(思(おも)いやり)、義(ぎ)(正義(せいぎ))、礼(れい)(礼儀(れいぎ))、智(ち)(知恵(ちえ))といった道徳観(どうとくかん)を重視(じゅうし)、社会秩序(しゃかいちつじょ)の維持(いじ)と人々(ひとびと)の幸福(こうふく)を追求(ついきゅう)するものでした。


 彼(かれ)の思想(しそう)は、儒教(じゅきょう)として後世(こうせい)に受(う)け継(つ)がれ、中国(ちゅうごく)をはじめとする東アジア(ひがしアジア)の思想(しそう)や文化(ぶんか)に大(おお)きな影響(えいきょう)を与(あた)えました。



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