10 テレパシー
10 テレパシー
「鮎川さん、聴こえますか? ぼくです、ツトムです」
その声はKがトイレでしゃがんでいる時に突然聴こえてきた。ドアの外からひそひそ声が聞こえてくるように思えて、ズボンを下ろしたばかりのKは反射的に「ちょっと待って」と言って、ズボンをたくし上げて、ドアを開いた。外には誰もいなかった。
「やっぱり、ぼくの声が聞こえるんだ」
それは聞き覚えのあるツトムの声だった。かれはひそひそと話しているようだった。
ツトム「いま、話をして大丈夫ですか?」
鮎川「うん、大丈夫だよ」
ツトム「やっぱり話ができるんだ。鮎川さんは誰とでもこうしてスマホがなくてもワイヤレスで話ができるのですか? 互いの脳がブルートゥースで繋がっているわけはないですよね。ブルートゥースじゃこんなに遠隔地をつなげることができないですからね。それとも新型のワイヤレス装置が発明されたのかな?」
鮎川「そのブルートゥースって何なの?」
ツトム「スマホと無線のイヤホンを繋ぐときの無線通信技術です」
鮎川「ああ、なるほど」
ツトム「何て言いましたっけ、こうした能力。子供の時に聞いた言葉で・・・・・。そうだ、テレパシーだ。鮎川さんは超能力者なんですか?」
鮎川「いえ、残念ながら超能力者じゃないね。耳が悪くて、耳鳴りがするようになって、最近幻聴を聴くようになったんだ。あの日、ツトム君のオレオレ詐欺の芝居のセリフが聴こえたので、必死に声が出たんだ。その声をツトム君が聴こえたのでびっくりしたんだ。ツトム君がアパートに帰ってからの独り言が耳に入ってきたので、話しかけてみたんだ。返事があってまた驚いたよ」
ツトム「ぼくの方こそびっくりしましたよ。稽古の時に急に声が聞こえたんですから。友達たちはぼくが突然独り言を言い始めたから、ぼくがおかしくなったと心配したんじゃないかな」
鮎川「そうだよね。周りは気がふれたんじゃないかと思って、びっくりするよね。ところでツトム君は大学生なの」
ツトム「そうです。ぼくは大学四年生で22歳です。失礼ですが、鮎川さんは何歳ですか?」
鮎川「65歳」
ツトム「どういうお仕事をされているんですか?」
鮎川「11月の誕生日で会社を定年になり、今は年金生活者になりました」
ツトム「そうですか。それで今度の我々の芝居の講演を観に来てくれるんでしょ? そこでお会いできますよね」
鮎川「それがだね、無理なんだよ」
ツトム「どうしてですか。鮎川さんにお会いできるのを楽しみにしていたのにな」
鮎川「実はね・・・・・」
ツトム「あっ、鮎川さん、ぼくの声、聴こえてますか?」
鮎川「はい、はい。聴こえているよ」
ツトム「雑音が激しくなって、鮎川さんの声がほとんど聞こえなくなったんです。ま、ま、ま、ま、またかけます」
鮎川「は、は、はい」
ツトム君は最後に「かける」と言ったが、電話をかけるようにうまくおれとつながるのだろうか? おれの方からツトム君に「かける」ことができるのだろうか。それともおれよりもツトム君の方が能力が一段も二段も上なのだろうか。たしかテレパシーって言ったよな。これはテレパシーなのか。テレパシーって、遠くの人と機械を使わずに話や映像の交換ができるって奴だろう。平凡なおれにそんな超能力があるとは思えないね。そもそもツトム君と交信できているのは、幻聴を聴くようになったからであって、おれが人とは違う凄い能力があるなんてどうしても思えないね。おれをターゲットにして無線で通信できるツトム君は、おれと違ってテレパシーが使える超能力者なのだろうか。彼の能力は、おれの不特定多数の人の声が聞こえる幻聴とは異質な代物かもしれない。でも、彼はおれよりも早くおれの声が聞こえなくなったようだ。どこに原因があるんだろう。もしかしたら、彼の集中力が続かなかったのかな。いや、おれだって集中力があるわけではない。ただボーっとしているだけだ。そうだ、おそらく集中力よりも、このボーっとできる時間が彼とおれとで違うんだ。彼はやはり学校の授業や、友達、彼女、バイトや就職のことなど、様々なことが頭をよぎって長時間ボーっとしていられないんだ。おれなんか、一日中ボーっとしっぱなしだから幻聴が長く続くのかもしれない。
それにしてもツトム君はどのようにしておれにアプローチできたんだろう。おれももしかしたらツトム君にアプローチできるのだろうか?
鮎川はどのような方法でツトムと交信できるかわからなかったが、ツトムのことをひたすら思い、「聴こえますか? 聴こえますか? ツトム君、聴こえますか? 鮎川です。聴こえたら返事をしてください」と念じ続けた。もし、はたから見たら、宗教の念仏を唱えているように思われたかもしれない。だが、小一時間念じ続けても、ツトムはおろか他の誰の幻聴も聴くことはなかった。やはり、神経を集中してはならないんだと思った。ツトムはいつかまたコンタクトをとってくることに成功するのだろうか? それとも今回のはたまたまだったのだろうか。
「鮎川さん、聴こえますか。ツトムです」
一週間ぶりに突然ツトムから交信が入った。
鮎川「はい、聴こえます。はっきりと聞こえます」
ツトム「やっと通じたのですね」
鮎川「何度もチャレンジしてくれたんだね。私も試してみたんだけど、私にはツトム君のような特定の人にコンタクトできる能力はないようなんだ」
ツトム「鮎川さんにないかどうかはわかりませんが、ぼくだって鮎川さんとしか交信できないんです。いろいろな友達にコンタクトしてみたのですが、すべて駄目でした。更にですね、鮎川さんにコンタクトできるのは寝つく前か、寝起きでボーとしている時だけのようなんです。昼間にいくら神経を集中して試みても駄目でした」
鮎川「やっぱりそうですか。と言うのはね、私もボーっとしている時にだけ幻聴を聴くことができるんだよ。だから、私は退職して一日中ボーとしているので、若いツトム君より長い時間幻聴を聴き続けられ、たくさんの人たちの幻聴を聴くことができるのかもしれないね」
ツトム「これは幻聴なのですか? テレパシーじゃないんですか?」
鮎川「もしかすると、ツトム君のは私と違って特定の人と交信できるから、幻聴ではなくテレパシーなのかもしれないね。ツトム君は超能力者かもしれませんよ。私のは不特定多数ですから、しょせん幻聴です。テレパシーのようなかっこの良いものではありません」
ツトム「ぼくだって、特定の人と交信できるといっても、鮎川さん一人とだけですよ。もしかすると私の微弱な発信を聴き取れるのは、世界中で鮎川さんの優れた受信装置だけかもしれませんよ」
鮎川「そうした解釈が成り立つんだ。そう言ってもらうと嬉しいね。私は耳が悪くなって幻聴を聴くようになったのだけど、ツトム君は耳が悪いとかあるの?」
ツトム「たまに耳が遠くなっていると思うことがありますね。芝居仲間はみんな声が大きいので困ることはないんですが、講義でたまに聴き取れないことがあります」
鮎川「耳鳴りがすることはないの?」
ツトム「耳鳴りと言ったら、あの「ジー」という音ですか」
鮎川「そう、そう」
ツトム「そんなのは普通ですよ。ステージでスピーカーの傍で大音量の音楽を聴いた後には、耳の中でしばらく「ジーン」という音が鳴っています」
鮎川「やっぱり。それで幻聴を聴いたことはないんですか」
ツトム「幻聴というのかどうかわかりませんが、街を歩いている時に後ろから声をかけられて振り向くと、そこにはそれらしい人がいないことはたまにありますね。それって空耳って言って、普通のことでしょ」
鮎川「どうも、それって普通じゃないらしいんだよ。やっぱり、我々が交信できるのは幻聴の延長線上にあるのかもしれないね」
ツトム「なかなか興味深い話ですね」
鮎川「いずれにしても、ツトム君が私にコンタクトを取れるのは凄いことですよ」
ツトム「あ、鮎川さんの声が、途切れ途切れになってきました。そろそろ限界かもしれません。難しい話を聴いて頭を使ったのが悪かったかもしれません。ノイズが激しくなってきました」
鮎川「寝付きでしょうか? 寝起きでしょうか?」
ツトム「ああ、聴こえません。また、連絡します」
それで今回のツトムからの連絡は途切れたが、いつか再びツトムから連絡が来るかどうかわからなかった。鮎川は自分からツトムにコンタクトを取ることができないので、ただ待つしかなかった。
鮎川が幻聴の中で継続的に話し合いができるのはツトムだけだったが、一方通行の幻聴を聴くのは日常茶飯事だった。たとえば、雀荘の中だったり、飲み屋だったり、小学校の教室だったり、カラオケ屋だったり、交差点だったり、交番だったり、会社のオフィスだったり、温泉だったり、ボクシング会場だったりした。そしてそこから聞こえる声はほんの一声だったり、30分近く続くものがあった。しかし、30分を超えて連続した幻聴を聴くことはなかった。30分を超えてボーっとしていられず、雑念がスゥーと浮かんできて幻聴を中断するのだ。
幻聴は聴こえてもいつも映像は見えなかったので、短い言葉を聞いてもそれがどういう場面で話されているのかわからないことがしばしばだった。




