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8話 契って契って契ってなんぼの人生じゃ

 バックミラーからスミさんの影が消えてほっと息をつく。スミさんは追いすがるような眼でずっと車を見送っていた。すまん、スミさん、今はあなたに合わせる顔がない、また改めてちゃんとお詫びすると心に誓う。そしてそのときには、デートに、いやとりあえず連絡先を聞こう。ん、スミさんってスマホとか持ってるのかな。


 話は遡るが、スミさんの様子は今朝から妙におかしかった。若くなったような風体は昨晩と同じだ。親父とおふくろの頭にもはてなマークが浮いていたから間違いない。ただそれにして、髪を思いっきり前に持ってきて顔の3分の2を隠してほとんど口元しか見えず、過剰なほど猫背に肩を強張らせて、ひたすたに挙動不審であった

 当然悪化しているであろう視界のなかで、廊下や部屋角を曲がり切れずにぶつかったり、テーブルなどにぶつかり色々なものを落としたり、タンスの角に小指をぶつけて声にならない叫びをあげつつしばらくうずくまってみたりと、どうかしたのかというほど変だった。何より俺が視界に入りそうになると、不自然に体勢入れ替えたり、首をねじ切れんばかりに捻ったりと、尋常にならざるほど、スミさんは俺に対して怒りを感じているのではないかと、俺はビビっている。

 今もダイニングキッチンの家族三人が腰かけている端の方で壁に向かって何をしているのだろうか。話しかけているのか。

 おてつけさんは昨晩のことが何もなかったかのように昨晩と同じ着物を着て同じ座敷の同じところに座り、何やらニヤニヤとこちらを見ながら食事もとらずに居合わせているといった具合で、最高に居心地が悪い。

 ただそんな挙動不審のスミさんも顔から出ている唇は見ればぶるぶるとしたピンク色であるし、やはり猫背になってもおっぱいがでかい、隠しきれていない。あんなにくびれていただろうか。意識し始めるとおっぱいにしか目がいかなくなってしまい、おっぱいだけを見ていた。だらしなくでかいので、心の壁を乗り越えて躊躇をなくさせるおっぱいであった。


 はっと、朝餉を両親と囲みながら40過ぎ(俺には20代に見える)のおっぱいを気にしている三十路手前の男。

(最低だ最低だ最低だ最低だ)

嫌すぎる、もうおっぱいを見るのをやめよう。眼球の筋肉を眼前の白飯に固定を試みるが、どうしても不意に目がいくのに抗えず、性を呪った。気取られたら正直死にたいくらいだと思った瞬間気取られた。


「のう、坊や、スミをやろうか」


「ぶふぉっ!!」


 思わず米を吹き出し思い切りむせる。何を唐突に言い出すのだろうかこのババアは。あまりの発言に両親ともにフリーズしている。

 

「スミは数奇で哀れな縁の元に生れ落ちてのう、わしが面倒を見ておるが、ここが居場所というわけでもない。昨夜の不意の契りに混乱しとるようだが、スミもまんざらでもなさそうじゃしのう」


「キャっ」

とスミさんの声を上げる。もう全くスミさんのキャラが分からない。一夜にして何が起きたのだろうか。


(祐志郎、お前、何をしたんだ!?)

(ゆうちゃん、あなた何をしたの!?)


 二人が目でそう訴えかけているのがありありと分かり、ぶんぶんと首を振って否定するが、何もしてないというのも嘘なので少し白目を剝いていたと思う。

そのときゴンっと音がして家族3人一斉にその方向を見る。スミさんが柱に頭を打ち付けた音だ。


「ゆうちゃん、そんな取り返しのつかないことしたならはっきりお詫びなさい!!!お母さんお母さん、うわああああんん!!!」


「か、母さん、こら、祐志郎!!!どういうことか説明しなさい!!!」


 思わず俺は箸をポロリと落とす。趣ある座敷での朝餉の間はほんの数呼吸のあいだに修羅場になった。正直にスミさんを押し倒して失禁したという話をしても全く弁明にならない空気だぞ、これは。


「これ、坊やは悪くない、おまえさんらもスミと坊やに任せて取りざたしたらいかんぞ、こうなったのも縁ということじゃ、連れてけ」


「す、すみません、倅が大それた不始末をしでかしたようですが、そんな簡単には……」


「祐志郎、お前が決めなせ、話はしまいじゃ、あんたらも取り沙汰したらいかんぞ」


 と言い残しておてつけさんは朝露の消えゆくように姿を消した。昨晩のこともあってか両親も大げさに驚くことはないが、忙しく朝飯をかき込み始める。本当に形容しがたく耐えがたい空気がどんよりと立ち込めている。スミさんの動静も気にしながら、早くここを去りたいという意思が両親からありありと見て取れる。

 口の端に米粒をつけたままお茶を一気飲みした親父が「うーんごちそうさま、さてそろそろ…」と流れるように切り出すとスミさんがびくりと肩を震わせて「…オカエリデスカ」と録音テープのような声で言った。髪の毛で顔はほとんど覆い隠されているが、眼球はこちらを向いているのだろうか。

(こわいこわいこわいこわいあああおっぱいでかいでかいでかいでかいあああああ)


「スミさん、倅が大変申し訳ないことをした。本当に申し訳ない!このとおりだ!まず、私もこいつの父親としてこいつ自身の口から不始末しっかり聞くのが親の務めと思います。そのうえで改めて家族ともどもお詫びに再度伺う、おてつけさんはああいっておられたが今のところはこういうことで、どうか勘弁願いたい」


 土下座の勢い親父が頭を下げ、おふくろも頭を下げ、俺もとにかく頭を下げる。スミさんは正座でちょこなんと座り、その言葉を聞き、10秒、20秒、1分、2分……。微動だにしない。


「で、では、これにて失礼いたします、本当にすみません、これにて!」

「息子が、息子が大変失礼しました!」


 お袋も若干早口になっている、兎に角この場は離れなければいけないとそそくさと立ち上がり動き始める。特に返答もありそうもなく、にじり下がりながら詫びを述べて、振り向ける退避圏内に到達した瞬間、まさに背を向けた瞬間である。


「…オオクリシマス」


 絶叫しそうになった。スミさんが俺の袖を掴んでいる。髪の隙間から目がチラリとして、血走った目は俺を凝視していた。


(こわいこわいこわいこわいあああおっぱいでかいでかいでかいでかいあああああ)


 恐怖を紛らわすように俺はぱっつんぱっつんに張った薄いニット地のおっぱいを見て、何も考えられなくなった。数秒は静止していたのだと思う。


「祐志郎!」


 父親に声を掛けられた瞬間、はっと我に返り、おっぱいを見ていたのを誤魔化す意識が急発進してしまったため、思いっきり白目を剥いた。


「ああ、うん、いくいく」


 白目で言っていた。

 俺はこんなにコミュ障だったのか。

 俺はこんなにコミュ障だったのか。

(違う、これはスミさんという女の電波ぶりが規格外過ぎたんだ、そもそも昨日から、というかこのところずっと訳の分からないこと続きでストレスが溜まっていて、普通に考えておかしくなっても仕方がない状態であったところに、こんな連中が現れて、正直誰が考えたっておかしいし、俺じゃなくたって多分普通に考えて、別にこの女についてなくたって、で、でかいおっぱいあったら誰でも見るだろうし…)

完全にコミュ障であった。


 玄関先とあって深々とした一礼を最後に両親ともどもそそくさと車に乗り込む。


「では、また、失礼いたします。」


 ドアガラスからお袋と親父が口々に言っている間、スミさんは45度ほどそっぽを向いて沈黙していた。それでも眼球はこっち向いているのだろうか。車切り返している間、皆、一度視線を外した。

丁度スミさんが車の後部、真後ろに来る位置に立っている。彼女はこちら向き直って、ゆっくりと片手を挙げた。顔の横ほどに開き切っていない手の平が、ギチギチと音を立てそうな不可思議な動きで左右に振れている。

 恐らくバイバイであろう。

 父親の息を飲む音が聞こえると、アクセルが踏まれて車が動き出した。スミさんの姿が遠ざかる、目が離せない、追いかけてくる素振りを見せたら、親父もきっとアクセルを踏み倒すのではないか。そのときのスミさんにはブリッジ歩行で時速80キロくらい出せそうな貫禄があった。


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