9話 単眼巨鬼サイクロブスさん
村を抜けてすぐに車は止まった。親父はシートベルトを外しながら言う。
「…すまんトイレに行ってくる」
ずっと催していたのだろうか。用を足す間も惜しいほど、早くあの家を出たかったに違いない。だが俺はいつ問い詰められるのか不安で気が気でなかった。
親父は炉端ではなく、わざわざ茂みを分け入って奥の方に入っていく。お袋と二人車内に残された。
「お袋はトイレだいじょうぶ?」
「あたしはだいじょうぶ、ゆうちゃんこそ、コンビニのあるところまでしばらくあるわよ」
おふくろの声が心なしか冷たい。気まずい。尿意に襲われていたわけではなかったが、一応、念のため絞り出しておこうかとドアに手を掛けた瞬間、後ろから奇怪な怒声が飛んできた。
「おぉなんだぁこの車ぁ!」
びくりとして後ろを振り向くと後方のガラス越しに大柄な男がいた。白い股引に大昔の車屋のキャラクターが書かれたTシャツを着た、とても頭の悪そうな男が、股関節が180度開いているんじゃなかろうかという大袈裟ながに股をして、また何かを喚き散らし始める。
「他所もんだなぁ!こんなとこ車停めてたら人迷惑だろがぁ!分からんかぁ!」
カーブも抜けきっているし、道幅も十分にある上、ほとんど往来もないと来ている。どこが迷惑なのか分からないが、こちらに向けられている敵意は本物のようだ。
「ゆうちゃん、鍵締めて!」
お袋の声にすかさずドアロックを掛ける、直後、後ろの男が走り出した。俺の乗った側のドアガラスが打ち鳴らされる。
バンッバンッ
「てめぇら、人の迷惑考えられんのかぁ!誰の許可でここ停めとんだぁ!責任者だせぇ!」
パノラマ画面のようにガチャ歯の芋面がドアガラスにアップになる。唾の細かい点が無数に散らされていく。
そしてもう焦点がまったく合っていないほど寄り目で正気ではないと書いてあるようだった。俺もお袋も声すら出せなかった。男は車の上の方に手を掛けて揺さぶりを掛けてきて、ギシギシと軋んでいる。
「いい加減にしろよぉ!お!人を小馬鹿にしたような顔しやがって降りてこいっつってんだよぉ!ああ?」
チャカチャンチャンチャカチャチャチャチャ―ン~♪
お袋のスマホが鳴った。お袋もこの状況にショックを隠し切れないようで、数秒反応していなかった。はっとしたようで慌ててスマホを取り、応答する。
「お父さんだわ……もしもし、おとうさん?あのね……」
上の空といった声色でである。
「……ゆうちゃん」
「どうしたの」
「……お父さんね、紙がないんだって」
ギシギシ、ユサッユサッ
うちのお父さんほんとアホ、うんちなんだって、それも野グソ。うちらこんな大変な目に遭ってるのに戻ってきてくれないんだって。紙がないからってゆーけど葉っぱはあるじゃん、昔の人たちはずっとそーしてきたんだよ?
「おいッ聞いてんのかよぉ!降りろ!降りろよ、おいぃ!」
お袋から電話を取り上げる。
「親父、そんな場合じゃねぇ!おかしい奴に絡まれて大変なんだ!早く戻ってきてくれ!」
話しながら横目でそのキ〇ガイを見る。
(………!?)
歯を食いしばっている、分かる。
涎を垂らしている、気持ち悪いけど分かる。
目と目の間に鼻がない、分からない。
ちょうど今、寄り目の黒目と黒目が引き寄せあって、水に浮いた油の丸が境界を失って結合する時のように黒目が一つになった。
「お?おぉ!ああぁん!おいぃ!てめこの!おぉん?ああぁおいぃ!おおぉん?」
最早言葉の羅列すら失われて母音に近い言葉喚いているだけになった。
それになんだ、膨らんでいる?
手がフロントガラスと後部ガラスに掛けられて車を抱え込むように揺すられている。揺れの規模も先ほどまでとは比べものにならない。後部の側面ガラス一杯が目玉になっている。
「おおおおおおぉん!!ああああああああああああぁああああ!!!」
ふわっと浮いた。道路が角度を上げていく。
「うわあああああ」
「いやああああああ」
ついに単眼巨大キ〇ガイによって車体がひっくり返されてしまった。
「…もしもしっ!祐志郎!佐弥子!もしもしっもしもしっ!」
(何が起きているか分からんが、とにかく戻らねば。辺りには松と杉しかない、いや、一刻も早く…)
父、権三郎は松ぼっくりに手に取った。




