10話 どきどき☆スプラッターガール
ぐわんと視界がひっくり返った。悲鳴を上げる間もない。
シートベルトもしていなかった俺は頭を強か打ち付け、ミシャリと首から嫌な音がした。
完全に車体がひっくり返った。天井を底にしてゴンドラのように、まだ揺れている。首を擦りながら、お袋に声掛ける。
「お袋ッお袋ッ!」
返事がない、気を失っているのだろうか。体を入れ替え、助手席のお袋の顔を覗く。でんぐり返った格好で反応がない。さすがにこれくらいで死にはしないだろうが、テンパってしまって、呼吸や脈もうまく感じ取ることが出来ない。
(マジかよ…)
「うおおおあああーッ!おーあッ!ああああああああーッ!」
けたたましい雄たけびが絶え間なく続いている。便所虫の勝鬨のようなむさ汚い声である。あの単眼の化物が次に何をしてくるのかなんて、悪い方向でしか想像がつかない。なんとかして外に出るなり、あの化物をお袋から引き離さなければ。何度もこの車を小突きまわされては、それこそ俺もお袋も本当に打ち所が悪くて死にかねない。
化物の方と反対のドアのロックを外してレバーを引く、開かない。車体が歪んだのだろうか、頭に火が付いたように焦燥する。咄嗟に窓の開閉スイッチを引くと、電動の窓が開き始めた。とても遅々として見えた。
しかし5分の1ほど残して止まる、そういう仕様なのだ、知っていた。
(通れるか……)
通るほかなかった、這いずりながら上体を外に出し、仰向けに入れ替える。もし、ここで再度車をひっくり返されでもしたらと思うと悲鳴が出掛かったが、何とか堪えて、腕で車を押すようにして全身を外に逃がした。焦りと急な運動で眩暈のしそうなほど息が切れる、しかし、一刻も早くこちらに注意を引き付けなければ。
身を屈めたまま少し駆け出して、車から距離を取り振り返る。全然、距離を取れていなかった。というか、先ほど見た時よりあからさまにでかくなっているからだ。遠近感が狂っている。車の2倍はゆうにあろうかという巨体が眼前に晒されて、手を伸ばされたらゆうゆう届いてしまうだろう。車だってお袋ごと団子にされてしまいかねない確かな迫力があった。絶対致死圏、なにか気を引き付けるために発そうしていた言葉が掠れた息になる。
「……オイコッチミロ」
汚らしい土色で脂ぎった皮膚、打ち上げられた魚の死体のようなイチモツ、そして巨大な目玉、その風貌に気圧されに気圧されているまま化物がこちらに気付く。なんでこんな小声がその悪そうな耳にとどいたんだろうか。
「おいいぃん?やああぁああん!おううぅぅうう!!!!」
生暖かい液体が内腿を伝っていく。
「おおおぉん?ゆるぉおおおおぉん?おあああぁぁあああ!」
生暖かい塊が尻を汚していく。
親父何やってんだ、2秒でダブルパンチだ、すぐに内臓までひり出して俺は死んじまうぞ。あんた何のために竜なんか変身できるんだ。尻からなんか出して何とかなる相手か?見ろよ、こいつ、一体どういうことなんだ。こんな理不尽あっていいのか。俺を殺す気か?
爛々と鈍い光を放つ巨大な目玉から目を逸らすことが出来ず、思考も定まらない。化物の怒声もボリュームが下がってボヤんとした響きにしか聞こえない。
先ほどの焦燥や恐怖もない、すべてが鈍感になっていく、死が麻痺していく。身体が死ぬことを受け入れていくようであった。今、俺を掴もうとしている単眼の化物の姿が揺れる水面ようにグニャグニャになった。
(なるほど、死ぬときっていうのは先に死んでから身体も死ぬのだな)
と思った。
何かに抱えられ引かれる。
(なるほど、こんなに強い力であの世に引っ張っていってくれるのだな)
と思った。
仰向けに横たえられる。
(空しかない、あの世ってこんなにシンプルだったのか)
意外だった。
段々と感覚がクリアになっていく、動悸、息遣い、アスファルトの質感、ぐしょぐしょに気持ち悪い下半身、それと小刻みに何かを打擲する音。
(ん、これは生きている)
生きてるじゃん、俺、と思い直して上体を起こす。先ほどの単眼巨大キチガイ相手に、髪を振り乱しながらナタを振るう女、あ、あれ、スミさんだ……。それを唖然と遠巻きに見ている父親。返り血塗れて、スミさんはあんな腕をぶんぶん振って何をやっているんだ?
作画のいいアニメのように単眼巨大キチガイの拳やら踏みつけを潜り抜けて、ナタを振り回す。足の指を重点的に狙っているようだったがある瞬間、スミさんのナタが単眼巨大キチガイの巨大なイチモツ、それも金玉部分に食い込む。
「ごおごごごこッッッ!!!ごああああああぇッテふぁががががが!!!!」
それからもう滅多打ち、金玉滅多打ち、単眼巨大キチガイぶっ倒れても滅多打ち。無意識に股間に手が上り総毛だつ。ふと視界がさまようと親父顔を皺塗れにして股間に手をやっている。俺もきっと同じ顔をしている。
よくわからない液体が飛び散って、ドロッドロのスミさんが、それでも、ああ、スミさんがやっつけてくれてるんだ。助けてくれたんだ。
そこまで理解すると血を根こそぎ抜かれるような感覚に陥って卒倒した。




