第一話
ベッドに踞る少女の名は葵。耳を塞いで、身体を震わせている。
茜の部屋の真下にあるリビングから恐ろしい罵声と物音がする。葵の母が大声で罵る声が聞こえた。
葵の目蓋から涙が零れる。小さな嗚咽が部屋に響く。
罵声を吐く母親と必死に止めようとする父親の声が恐ろしく感じ、葵は布団を被り、耳を強く塞いだ。
この世界はあまりにも悲惨で最悪だ。残酷過ぎる。人の気を反らすようなことを言えば大事にはなるし、人の今の性格を見ずに過去と見た目でしか判断しないのだ。
あまりにも理不尽な構成だ。努力したとしてもそれは報われることは無い。他人にダメな人間だと言われたら、どんなに頑張ってもちゃんとした人間にはなったことになってはくれない。
葵が小さい頃はそんなに夫婦喧嘩は無かったが、最近はずっと夫婦喧嘩が続いている。主に母親の暴走が原因だった。
葵の心はボロボロになり、人間を信じることが出来なくなってしまった。
喧嘩が鎮まった頃、葵は目蓋を閉じて眠りについた。
朝にリビングを見ると、衝撃的な世界が広がっていた。
みんなが座って食べている椅子がひっくり返っていたり、それぞれの服が仕舞ってあるタンスもどこに投げ捨てられていた。食器棚に仕舞ってあったお皿もバラバラに割れていた。
葵はその場に立ち尽くし、涙を流した。
しばらく泣いた後、葵は学校に行く準備を始める。朝食は食べられる状況ではないので食べなかった。
洗面所の鏡に映る自分を見て、葵はため息を吐いた。自分の顔があまりにも不細工で、最悪だった。
夏の制服を着て、身だしなみを整えて、葵は外へ飛び出した。今日も九月なのに夏のように暑い炎天下だった。
教室に着くと、時間割が葵の目に飛び込んできた。五、六時間目のところに体育祭応援練習と書かれてあった。
先週から練習は始まっているが、全く楽しいものではない。いつも一人で話す相手も居ないのでつまらなかった。
葵は自分の席に座って本を開いた。チラッと、隣の席を見て、あの頃を思い出す。
席替えの時、隣の少女が葵が隣と知った瞬間に血の気の引いた顔になった。窓から前のめりになり、皆は少女を止めた。葵の陰口ばかりが聞こえ、葵は学校を休んだ。小説みたいに教師は対応してくれないと思っていたのだが、それとは対照的に葵の担任は心配してくれた。
『新條さんは生きてていいんだよ。自分に自信持っていいんだよ』
担任は、葵にそう言い放った。担任のおかげで葵は学校に行く気になれた。
『葵ちゃん、大丈夫?』
いつも隣に居てくれる美夜のおかげでもある。葵は笑って過ごせるようになった。
葵は周りの騒がしい声など気にせずに開いている本に集中させた。
今日もまた応援練習があった。葵がいる白軍はクーラーの効いた会議室に居た。
「じゃあ、応援練習始めるよ!」
顔の整った団長が笑顔でそう言った。葵は不意に下を向いた。
「はーい、下向かないで歌おうね!」
頭を上げると、なぜか団長が茜の目の前に居た。間近で見た美しい笑顔に葵は胸を打つ。
団長さんって、カッコいいなぁ。でも恋とかではないだろうな。
「頑張ろうね!」
団長はそう言って、元の位地に戻って行った。葵の顔がぼわっと熱くなっていくのが分かる。
私が好きになるわけないじゃん。恋とかアホみたいでやってられないよ。
葵は自分の気持ちを振り払い、応援の練習に集中した。なぜか、葵は団長ばかりを見ていた。
この気持ちが何なのか分からない。私は何で団長さんを眺めてるの?どうして、こんなに胸がドキドキするの?
葵は不思議な気持ちに戸惑いを隠せずにいた。葵はまた団長の姿を見て、胸が弾んだ。
ローテーションで、葵達は生徒玄関へ向かった。笑っている団長を見て、葵の胸が高鳴る。
また応援練習を始める。葵は大きな声で歌い、踊った。なぜだか分からないが、体育祭を成功させたいという気持ちが葵の心に芽生えていたのだ。
団長の眩しい笑顔を見て、葵はもっと頑張ろうと胸を張った。体育祭を絶対に成功させたいと思う日々が過ぎて、体育祭当日になったのだが、悲劇が起きた。
葵は目を覚ますと、雨音が響いていた。カーテンを開けて窓の外を見ると、酷い大雨だった。
まさか、そんな……。
「葵、体育祭中止になったみたいよ」
葵は酷く落ち込んで、すぐに眠りについた。とにかく忘れたいから。このどうにもならない気持ちを捨ててしまいたいから。
――お前の願いは何だ?
真っ暗な闇の中で、美しい声音が聞こえた。たぶん、私は夢を見ているのだろう。
――お前はアイツと結ばれたいんだろ?
いや、違う。実際はそうなってほしいけど、無理だと思う。私の願いは……。
「先輩の近くに居ることよ!」
目を覚ますと、激しい雨の音が響いていた。やっぱりあれは夢だった、と葵は解釈した。
明日は晴れますように……。
葵をワークとノートを出して、迫っているテストの勉強を始めた。
次の日、目を覚ますと、眩しい日差しが部屋に入り込んでいた。葵は胸を撫で下ろした。
急いで準備をして学校に向かう。早く貴方に会いたいから。
椅子を教室からグラウンドに運んで、白いハチマキを頭に着けた。応援リーダーの物とは違い、普通の生徒のハチマキは短いのだが、葵はそれでもいいかとも思えた。
開会式で一斉応援があった。前に立って声を上げる団長はとても無邪気で美しく思えた。
一番最初に二学年種目の棒倒しがあった。なんとか担いで走って、見事に白軍は一位を取った。
綱引きの時だった。団長と他の応援リーダーがとある芸人の真似をしていた。その場に居た全員が笑った。それは応援とは言えないが、すごく面白かった。合間のところでも団長が一発芸をしていた。
大きな声を出して必死に応援した。アンカーで走る団長はとても素敵だった。
楽しい体育祭も終わりに近づいていた。終わらないで、と葵は願うようになっていた。
体育祭が終われば、もう軍の人達と関わることが無いだろう。もう近くで輝く先輩を見れないのが葵にとって悲しいものだった。
解団式。「とても楽しい体育祭でした。ありがとう!」と、団長は眩しい笑顔で笑った。
結果は優勝。応援や競技、パネル賞も全て白軍が勝ち取った。
もう楽しい体育祭が終わってしまった。葵の初恋も無様に終わってしまうだろうか。
あの笑顔を見た時、私は心を奪われた。私は団長――先輩が大好きだって、これが恋だって知った。
もしも、貴方と関われたら未来はどう変わるんだろう、と葵は夕焼け空を見て思った。
長いハチマキが風になびくその姿にも葵の胸が高鳴った。夕焼けとそのシルエットはとても美しいものだった。
あれから葵は、先輩の姿を見掛ける度に目で追うようになっていた。常に会いたいと想い続けている。
「ねぇ、美夜」
葵は隣に居る美夜に話し掛けてみた。聞きたいことがあったからだ。
「白軍団長の名前って何?」葵が聞くと、美夜は目を大きく見開いた。
「えっ。坂本隼人先輩だよ」
隼人先輩、か。葵はボソッと呟いた。隣で美夜が訳が分からないと言いたげな顔をしていた。
廊下の窓から見下ろすと、登校する生徒の中にあの先輩が居た。葵はそれを見て、胸を撫で下ろした。
“どうやら私は、本気で君を好きになってしまったみたいです。この届かない気持ちを私はどこに捨てれば良いのでしょうか。君と近付くことはないでしょうか。どうしても、君と一緒に居る幸せを願ってしまうのです。どうせ、叶わないのに。”
葵は恋したあの日から日記を綴るようになっていた。内容はもちろん、先輩のことだった。
*
ある日のこと。美夜と待ち合わせでコンビニの端っこにあるベンチに座って居た。
葵は美夜がまだ来なくて、苛立っていた。ラインで美夜の家に直接行くことを伝え、自転車に股がった時だった。あの先輩が部活のユニフォームを着て、自転車で走っていたのだ。完全に葵と目が合ってしまった。葵は急いで逃げるように自転車で走って行った。
何で先輩がユニフォーム着て自転車に乗ってるの?先輩はもう引退しているはずなのに、どうしてなの?しかも、先輩と目が合っちゃったよ。本当、どうしよう。
顔に熱が帯びていくのを感じながら、葵は美夜の家へと自転車で突っ走った。
美夜の家に着くと、美夜は茶の間へと案内してくれた。葵は畳の上に座った。
「どうしたの?顔真っ赤だけど……」
葵は一瞬驚いた顔をし、すぐに否定した。そんな焦る葵を見て、美夜は何か勘づいたみたいだった。
「やっぱり、先輩ねぇ。よしっ、家教えてあげるよ」
美夜の提案に葵は驚いて言葉が出ない。なぜバレてしまったかというよりも、先輩の家を教えてもらえることに頭が行っていた。
二人は自転車に乗り、葵は美夜に着いて行く。葵は罪悪感と喜びで胸がいっぱいだった。
やがて、美夜は自転車を止めてとある家を指差した。その家は茶色く、小さな一軒家だった。そこが先輩の家らしい。葵と美夜はその家をまじまじと見た後、自転車で美夜の家へ戻った。
美夜と遊んだ後、葵は家へ向かう。葵は近道ではなく、別の道から帰った。先輩にまた会ってしまいそうで不安だったからだ。
もしも、何か奇跡が起きてくれたらいいのにな。
学校でまた先輩とすれ違う時、笑い声が聞こえた。普通に話しているだけだと思っていたが、その内容が聞こえて葵を歩くペースを速めた。
『アイツ、ストーカーだろ?いつも見てるし、好きって噂流れてるし。本当、気持ち悪い。俺、彼女居るのにな。まぁ、ただの遊びだけどな』
美夜もその話が聞こえたみたいで、ただ彼女の背中を撫でていた。
私は先輩に嫌われたの?ストーカーみたいなことなんてやってないのにどうしてこうなったの?
――俺、彼女居るのにな。
葵は涙を必死に堪えて、美夜と一緒に歩き出した。
酷い。どうして、私だけがこんな人生を送らなければいけないのだろう。もう嫌だよ。




