第42話
唇が離れる。
痛みが、戻ってきた。
涙でぼやけた視界に、湊さんの顔が映る。
湊さんは、驚いたように目を見開いて俺を見下ろしている。
その頬は、俺の血で汚れたままだった。
「……見たな」
湊さんが呟く。その顔は、今にも崩れそうなほど脆く見えた。
胸ぐらを掴まれ、上半身が引き起こされる。
俺たちは向かい合うように座り込む体勢になった。
そのまま強く引き寄せられる。
怒りの滲んだ顔が、至近距離で俺を睨んだ。
「見たな、勝手に、僕の全部を……ふざけやがってっ!! ぶっ殺してやる!!」
胸ぐらを掴んでいた手が離れる。
次の瞬間、その手は俺の二の腕に刺さったナイフを掴んだ。
勢いよく引き抜かれる。
血が吹き出し、焼けつくような痛みが腕に走った。
「い゛っ!」
痛みに顔が引き攣る。
湊さんがそれを見て笑い、ナイフを振りかざそうとしているのが見えた。
だから俺は、腕を広げる。
そのまま湊さんを抱きしめた。
ざくり。
ナイフが俺の背中へと、深く突き刺さる。
それでも俺は、腕の力を緩めなかった。
「っ! まさか壊す能力を──」
「俺が湊さんと……たかった」
「え、」
「俺が湊さんと一緒に……湊さんの好きな物っ……見つけたかった!」
もう全部遅いのに。
遅すぎるというのに。
刺された背中より、胸の方がずっと痛くて。
苦しくて、ぼろぼろと涙が止まらない。
泣きじゃくりながら、俺は湊さんを強く抱きしめた。
「湊さんっおれはっ……湊さんとともだちにっ……なりたかったっ……!」
「……なん、で」
俺の腕の中で、湊さんが呟く。
ナイフから、そっと手が離れる。
震える手が、ぎこちなく俺の背を、そっと撫でた。
◆
「主文。被告人、調月湊を死刑に処する」
法廷に裁判官の厳格な声が響き渡る。
僕は静かに前を見据え、その判決を聞き届けた。
「人殺し!」
「うちの娘を返して!」
悲痛な声が、僕に向かって投げかけられる。見覚えのある笑顔の写真を抱えて、すすり泣く人もいた。
何も言えないまま、僕は背を向け、退廷した。
独房の中、僕はいつも通り、机に向かった。
真っ白な紙の前。
背を丸め、ボールペンを持って、頭の中に、書くことを思い浮かべる。
ごめんなさい。すみません。申し訳ありません。
仕事でよく口にしてきた、謝罪の言葉。
心にもない、嘘の言葉。
謝罪文なんて、今までいくらでも書いてきた。
相手に許してもらうための言葉なんて、いくらでも思いついた。
なのに。
ペンを持つ手が震えて、上手く書けない。
ごめんなさ
そこまで書いて、文字が大きく乱れた。
「っ……クソッ!」
ぐしゃぐしゃと紙を丸め、放り投げる。
畳の上は、同じように丸まった紙で埋めつくされていた。
頭を掻きむしる。痛みが走っても、血が滲んでも、僕は手を止めなかった。
嘘をつくのは得意だった。
空気を読むのも得意だった。
相手が喜ぶ言葉も、いくらでも言えた。
なのに今、一番謝らなければいけない今、何も思い浮かばなかった。
新しい紙を取り出し、机に置く。
ボールペンを持つ手がぶるぶると震える。
やっぱり、何も書けなかった。
今まで書いたことが無いから。
本当の気持ちなんて、外に出したことがなかったから。
ぽた、ぽた。
まっさらな紙の上に、水滴が落ちる。
視界が濁って、鼻水まで出てくる。
「っ……うっ……っ」
情けない嗚咽を漏らしながら、僕は自分の顔を手で覆った。
どんな言葉を書いたって、取り返しがつかない。
どんなことをしたって、僕が殺した子達が生き返ることは、ない。
だったら、こんな手紙なんて──。
「っ!」
ペンを投げ捨てようとして、止めた。
ボールペンをじっと見つめる。
ヒビの入ったボールペン。
あの日のドライブが、君の顔が、頭に浮かんだ。
夜のサービスエリアで一緒に過ごした、穏やかな時間。
一口もらったコロッケ。
君の真っ赤な顔。
本当に嬉しそうに僕に駆け寄ってきた姿。
ショックを受けた顔。
痛みに歪んだ顔。
触れ合った唇の感触。
自分を抱きしめた体温、血の匂い、嗚咽。
どこまでもまっすぐで、優しい言葉。
君の全てが、ずっと胸に残ってる。
このボールペンに、この身体に、記憶に、君の痕跡が、残ってる。
机の引き出しを開ける。高校生と呼ぶには幼い顔が写った学生証。
今の僕の宝物。
「……これ、返しそびれちゃったな」
苦笑しながら、写真の中の君を、そっと撫でる。
一つ深呼吸をして、僕は再び机に向かった。
父さんも母さんも、僕に会うために何度も面会に訪れた。
だけど僕は、それを全て拒否した。
会いたくなかったんじゃない。
今の僕に、二人を会わせたくなかった。
僕のせいで二人には散々迷惑が掛かってることだろう。勝手なエゴなのは分かってる。
だけど、二人の中の僕を、これ以上汚したくなかった。
それから数ヶ月。
遺族への謝罪の気持ちをしたためた手紙が、ようやく完成した。
僕には物欲がなかった。だから貯金が8桁あった。
本心からの謝罪を綴った分厚い封筒とともに、その貯金を、被害者遺族に分配した。
返事は、一通も返ってこなかった。
それからしばらく経った朝、独房の扉が開く。
「調月さん」
声に振り返る。職員が数人立っていた。
ついにその時がきたか。
僕は静かに立ち上がった。
看守に連れ添われ、廊下を歩く。
一歩一歩をしっかりと踏みしめて、僕は歩いた。
最期の晩餐は、コロッケとメンチカツにした。
あの時と同じだ。
できたて熱々で、美味しかった。
しゃくしゃくと一人でかじりながら、せっかくなら、あの時にメンチカツも一口もらっておけばよかったな、なんて。
呑気にそんな事を考えていた。
「そちらお預かりします」
看守が僕に向かって手を差し出す。
右手に握っていたボールペンは、すぐに渡せた。
少し前に、ある人とある約束を取り付けていたから。
だけど、学生証だけは、どうにも渡せなかった。
「調月さん?」
「あの……これ、持ったままじゃ、駄目ですか」
「駄目です」
看守は警戒の色を強めて、鋭く言った。
「……はい」
これで最後だ。
噛み締めるように学生証に視線を落とし、じっと目に焼き付ける。
そして。
「お願いします」
未練を断ち切るように、学生証を渡した。
白い布で頭が覆われ、視界が闇になる。
首に縄が掛けられる気配がした。
覚悟はしていたつもりだ。
だけど、手錠を掛けられた手は、ガタガタと震えが止まらなかった。
目を閉じて、その時を待つ。
ふと、楽しい空想が脳裏に浮かんだ。
もし今の自分のまま。
ありのままの自分で、君とドライブに行っていたら。
きっと僕はぼーっと運転して、道を間違えちゃったりするんだろう。
そしたら君は「湊さんって意外と抜けてるところあるんですね」って、ちょっと呆れて笑ってくれたりするのかな。
休憩の為に立ち寄ったサービスエリアで、またコロッケとメンチカツを二人で食べたりしてさ。
「こないだ食べたのより美味しいね」
なんて、そんな風に笑いあえたりするのかな。
そうやって君と二人で色々なものを食べて、色々な所に出掛けていたら、「これ、めちゃくちゃ好きかも」って物に、出会えたりして。
そしたら君は本当に嬉しそうに、「ついに見つけましたね! 湊さんの好きなもの!」って、眩しいくらいに笑ってくれるんだろうな。
そんな君を見て、きっと僕は上手く笑えないんだ。
君の顔をまともに見ることだってできない。
なんでか分かる? それはね……なんて、冗談だよ。はは。
そういうことにしといて。
……ねぇ、こんな時にさ、僕、気づいちゃったよ。
僕はね。きっと君とならたくさん、本当にたくさん、心から笑えると思うんだ。
もしそれが叶ったならさ。
僕は君と過ごす時間が幸せすぎて溢れてしまった涙を、笑いすぎたせいだって誤魔化すよ。
そのくらいの嘘は、きっと許されるよね?
そして君は、そんな僕のこと、けらけら笑うんだろ?
ねえ、僕さぁ。
君と、そんな一日を、過ごしてみたかったなぁ。
「……素直くん」
名前を口にするだけで口元が緩んで、心があったかくなる。
僕は生まれて初めて、自分の為だけに笑った。
素直くん。僕、一つだけ見つけたよ。好きなもの。
なんでも人に合わせちゃうような、空っぽな僕だったけど。
この好きは、絶対に嘘でも、偽りでもない。
誰になんて言われたって、どれだけ否定されたって、許されなくたって、絶対に諦められない好きだよ。
嘘ばっかり言ってきた僕だけど、これは本当なんだ──信じてくれる?
「……ありがとう。素直くん」
僕と、出会ってくれて。
ガタン。
足元の床が開いて、僕の体が落下する。
首にロープがグンとくい込んで、骨が折れる音が頭の中に響く。
呼吸ができなくなった。
苦しさに少しだけ足をばたつかせたけど、痺れるように、意識が遠のいていく。
もう怖くはなかった。
薄れていく意識の中で、大好きな人の眩しい笑顔が見えたから。
その笑顔を目に焼き付けるために、僕は静かに目を閉じる。
こうして僕の幸せな人生は、幕を閉じた。
今回で第二章完結です。読んでくださってありがとうございました。
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第三章は1週間後くらいに連載開始しようと思ってます。
火・木・土の週3更新です。少々お待ちください。




