第1話 近すぎる距離
「素直、誰も見てないからさ……ちょっとだけいい?」
腹の底をくすぐるような低い声が、耳元でささやく。
それと同時に、大きな手のひらが俺の胸元をゆっくりと撫でた。
「は? ここでかよ」
「いーじゃん。いつもやってるんだし」
「昨日したばっかだろ」
「そうだけどさ……いいじゃん。後でジュース奢るから?」
「はぁ……しょうがねえな。ほら、来いよ」
両手を広げてやると、整った顔が近づいてくる。
「ありがと、素直」
目と鼻の先にあるその顔が、微笑んだ。
その顔が、ゆっくりと下に落ちる。
そして俺の胸に耳を押し当て、うっとりと目を閉じた。
どくん、どくん。
俺の鼓動に耳をすませ、要はため息まじりに言葉を吐く。
「はぁ……落ち着くなぁ。素直の心臓の音……この音録音して、イヤホンでずっと聞いてたいくらい」
「いや、それはさすがにキモいって」
「え~? いいじゃん。俺、医者になろっかな? 循環器内科。そしたら素直の心音聴き放題でしょ?」
「どういう理屈だよそれ……なあ、そろそろ教室戻ろうぜ」
「やだ~もうちょっとだけ」
要は駄々っ子のように、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。
こうなるから、俺たちは昼休みになると決まって屋上の塔屋の影に来る。
人目につかない、俺たちだけの場所だ。
俺の幼なじみ、神宮寺要は、俺の心音を聴くのが好きだ。
「へへ~、すなおの音、好きぃ~」
要はまるで子どもみたいに言って、でれでれと表情を緩ませる。
校内一のイケメンが台無しだ。
まあ、本音を言えば、俺も要にこうされるのが、正直嫌いじゃないのだ。
なんというか、落ち着く。眠くなるというか。
まるで自分も心音を聞いている側みたいに、穏やかな気持ちになる。
「素直の心臓の音、本当に落ち着く。どくん、どくんって……気持ちいいよ」
要は目を閉じ、うっとりと呟く。
穏やかな陽気のせいだろうか。胸元にある体温のせいだろうか。俺は、うつらうつらと船を漕いでいた。
自分の鼓動が身体に響いているような気がして、俺まで気持ちよくなってきた。
「もし素直のが足りなくなったらさ」
「俺の、返すね」
「え……要、なんて?」
意識が沈んでいく。まぶたが重くなっていく。
要に触れられるといつもこうだ。頭がぼんやりして、妙に眠くなる。
「素直、ねむい?」
「うん……ちょっと、やばい」
「寝てていいよ。いつもみたいに、教室まで運んどいてあげるからさ」
「ん……じゃあ、たのむわ」
強すぎる眠気に勝てず、気付けば俺は、目を閉じていた。
「おやすみ、素直」
要の手が俺の頭をすべる。気持ちよくて、身体が宙に浮いてるみたいだ。
まるでシャットダウンのスイッチを押されたように、急速に意識が濁っていく。
大丈夫だ。要に全てを任せておけば、何も心配ない。
今までずっとそうだった。
何を壊したって、どんな取り返しのつかないことをしたって。
要はずっと、俺の傍にいてくれる。
だから、俺は──。
要に全てを預けたまま、俺の意識はまどろみの中に堕ちていった。
バキン。
指先が触れた瞬間に音がして、俺はぎょっとする。
そして手元を見て、予想通りの結果に顔をしかめた。
「やべ」と声を上げると、隣に座っている要が俺の方を見た。
「またやったの?」
「あー……うん」
「どれどれ、見せてみ?」
要が俺の手元を覗き込んでくる。俺の持っているスマホ。しかもつい先週買い替えたばっかのやつ。
その画面の真ん中に、真っ二つに分けるように亀裂が入っていた。
「あははっこれで何回目? 素直スマホ壊しすぎ~」
「うっせ、しょーがねえだろ。俺は何もしてないのに、こいつが勝手に壊れたんだから」
ケラケラと笑う要を睨むと、こちらに手を差し出してきた。
「貸して」
俺はムスッとしながらもそれに従い、スマホを渡した。
「あ~このくらいなら簡単そう。次の休憩時間に直しといたげるよ。俺、そういうの得意だからさ」
「なんか、いつも悪いな」
「いーよ。なんてったって、俺と素直の仲だし?」
爽やかに笑って、要が馴れ馴れしく肩を抱いてくる。異常なほどに整った顔といい香りが近づいてきて、俺は思わず顔を背けた。
すると教室の隅できゃーと黄色い悲鳴が上がった。
振り返ると、クラスの女子が俺達を見て目を輝かせている。
幼馴染という贔屓目を差し引いても、要は顔が良い。
髪は色素の薄いクリーム色でサラサラ。全てが完璧なパーツ配置だが、垂れ目気味の目元に愛嬌がある。
その上成績は常に学年一位。身長も178cmあって、有名財閥である神宮寺の一人息子。
まるで少女漫画から飛び出てきたみたいな、非現実的な奴。
そりゃクラス中の女子の視線が集まるわけだ。
「おい、あんまくっつくなよ。また噂になるだろ」
「え? いーじゃん。そんなん気にするほど、俺繊細じゃないし」
「お前は良くても俺がさあ──」
キーンコーンカーンコーン。
休憩終了のチャイムが鳴る。要は席を立ち上がった。
「チャイム鳴ったね。じゃ、次の休憩時間に持ってくる」
要は俺のスマホを手にして、にこやかに教室に戻っていった。
俺、空木素直は物持ちが悪い。本当に、ありえないくらいに。
親に聞くと、それは物心ついた頃からそうだったらしい。
幼稚園の入園式で通園カバンの肩紐が切れ、小学校では初日にランドセルの留め具が壊れ、中学に入れば、入学式のその日に学ランの金ボタンは、一つ残らず外れていた。
高校生になってやっと持たせてもらったスマホも、ご覧の通りだ。
呪われてるのかと疑いたくなるくらい、身につけてるものや所有している物のほぼ全てが、すぐに壊れるのだ。
要とは、小学生の頃からの友達。というか、腐れ縁だ。
あいつは異常なくらい、俺と一緒にいたがる。
中学受験を蹴って両親と勘当寸前までいって、高校を何故か俺のレベルに落として、女の子からの告白や他の奴らの誘いを全部断って、あいつはずっと俺の隣にいる。
正直、要が俺以外の人間と一緒にいる所が、俺には想像できない。
「……あいつ、一体何考えてんだ?」
分からない。要みたいな誰もが認める勝ち組の奴が、どうして俺みたいな奴にずっとくっついてるのか。
物を手にすれば壊れ、人と関われば関係が切れる。
そんな俺の傍にずっといる要が、よく分からなかった。
「すなお~」
授業が終わり、要が教室に入ってくる。その手には俺のスマホがあった。
受け取ったスマホの画面は、まるで最初から傷なんてなかったみたいに綺麗だ。
いつもそうだ。
壊れた物を要に渡すと、最初から傷なんかなかったみたいに綺麗になって返ってくる。
確かに昔から何でも器用な奴だけど、普通はあり得ないことだ。
「さんきゅ。つーか今休憩始まったばっかだよな? お前……まさか授業中に修理した?」
「へっへーん。なんせ学年首位だからね。授業中に何してても文句言われないってわけ」
「道具とかどうしたんだよ」
「素直が何でもかんでも壊すからね。机の中に道具一式入れてるんだっ」
無邪気な笑顔でピースして見せる。クラスの女子がシャッターを切る音が各所から鳴り響いた。
居心地の悪くなった俺は、弁当を手に立ち上がる。
「ほら、昼飯食いに行くぞ」
「はーいっ」
快晴だからだろう。屋上に上がると、人で賑わっていた。
俺達はそれを避けるように、塔屋の影に座る。
「神宮寺要がここで昼食をとっている」というのは噂になっていて、不可侵領域扱いされている。ここは俺達だけの特等席だ。
「素直、今日もお弁当?」
「まあな。節約よ節約」
「一人暮らしは大変だねえ」
「お前はコンビニのサンドイッチか。財閥のご子息様も、ランチは随分庶民的なんだな」
「え? もしかして食べたいの? じゃあ交換する?」
「ノーセンキュー」
「え~俺も素直の手作り弁当食べたいよぉ~」
「こないだ作ってやっただろ。まあ、今日スマホ直してもらったし、明日作ってきてやるよ」
「やったぁ!」
きゃいきゃいと、要はまるで女子みたいに大袈裟にはしゃぐ。
家に帰れば専属のシェフがいるってのに、こいつは何故庶民の弁当なんぞ食いたがるのか。
早々に昼食を終えた俺達は、柵に背を預けながら他愛もない話をした。
ふと要が視線を下げる。その視線を追うと、やはり俺の胸元を見ていた。
「すなお~、『いつもの』いい?」
要が甘えた声でねだってくる。
「またかよ? 最近毎日じゃん」
「いや~最近ちょっと多くてさぁ。寝不足だから、癒しが欲しくて……」
「多いって何が?」
「ないしょっ」
「はぁ……お前ってほんと意味わかんねぇ」
「好きなんだ。素直の心臓の音。他の誰のより、どんな音楽よりも、聴いてて心が落ち着く」
「……他のやつの聞いたことあんの?」
「ないっ」
即答。
そういう所に、俺は密かに安心する。
「また寝落ちしてるとこお前に運ばれたら、その後のクラスの連中の目が痛いからな。今日はちょっとだけにしろよ」
「はーい♡」
要が俺の胸に飛び込もうとする。その時だった。
「なあ聞いたか? 『例の殺人鬼』、この辺にも出没したらしいって──」
少し離れた所で談笑している生徒の声。
要の動きが止まる。殺人鬼という物騒なワードに、思わず俺も聞き耳を立てた。
「え? あの連続殺人事件の犯人? 隣町の中学生が昨日殺されたって噂は聞いたけど……なんでそいつの仕業だって分かんの?」
「職員室の前を通りがかった時、先生たちが噂してるのを偶然聞いたんだよ。中学生の死体から、心臓だけが綺麗に抜かれてたって」
読んでくださってありがとうございます。
本作は【火・木・土】更新予定です。




