第百十二話 迷わなくなったあとの一歩
部屋の灯りは落ち着いていて、
外の音だけが遠くに聞こえる。
近い。
昨日より、少しだけ近い。
敦がゆっくり顔を寄せると、
琴葉の肩がわずかに揺れた。
逃げない。
でも、固まっている。
敦「……まだ近づいたら慌ててるだろ」
琴葉「……慌ててねぇし」
声が小さい。
強がりが半分も機能していない。
敦は小さく息を漏らす。
困ったみたいに笑って――
ほんの少し角度を変え、
目元へ、触れるだけの口づけを落とした。
柔らかく、短く。
触れたかどうか分からないくらい。
琴葉「……っ」
息が止まる。
昨日と同じ場所。
同じはずなのに、
今日は終わり方が違った。
敦が離れようとする。
その瞬間。
琴葉の体が、ほんのわずか前に動いた。
引き止めたわけじゃない。
追ったわけでもない。
ただ――離れる距離を、許さなかった。
敦の視線が止まる。
数センチの間。
呼吸だけが重なる。
(……待ってる)
気づいた瞬間、胸の奥が静かに落ち着いた。
焦りも、迷いも、もうない。
敦は一度、目を閉じる。
ゆっくり息を吸って、
近すぎる距離の中で整える。
逃げ道を、自分から消すみたいに。
そして目を開ける。
琴葉は、覚悟も分からないまま、じっとこちらを見ている。
敦は何も言わない。
ただ静かに距離を詰めて――
今度は迷わず、
唇に触れた。
触れた瞬間、
時間だけが一歩遅れて動き出す。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
待っていた方に、進みます。




