第20章 第3話:気候の授業――暑すぎる通学路
悠のランドセルの背中は、朝から汗で濡れていた。
まだ八時前なのに、アスファルトの道はもう熱を持っている。
白い靴の底から、じわじわと熱が上がってくる。信号待ちの間、影を探しても、電柱の細い影しかなかった。そこに足を置こうとすると、同じように影を探していた一年生の男の子とぶつかりそうになる。
「ごめん」
悠が言うと、男の子は真っ赤な顔で首を振った。
額には汗が玉になっている。
水筒を肩から下げているけれど、立ち止まって飲む余裕はなさそうだった。
通学路の左側には、ずっと高いブロック塀が続いている。右側は車道。朝の車が次々に通り過ぎ、そのたび熱い風と排気の匂いが頬に当たった。
昔は大きな桜の木が並んでいたらしい。
母が言っていた。
「春は花びらがすごかったのよ。夏は日陰になってね」
でも、今はない。
道路の拡張工事で切られた。
代わりに植えられた若い木は、まだ細く、葉も少ない。影を作るには小さすぎた。
信号が変わる。
悠は歩き出した。
横断歩道を渡る時、足が少し重い。
昨日の夜も暑くて、よく眠れなかった。
朝ごはんは少ししか食べられなかった。
水筒の中の氷は、家を出て十五分で半分以上溶けている。
学校までは、あと十分。
たった十分なのに、遠い。
校門が見えた時、悠はほっとするより先に、息を吐いた。
玄関前の日陰に、何人かの子どもが座り込んでいた。
「大丈夫?」
先生が声をかけている。
「気持ち悪い」
「頭痛い」
「水飲んだ?」
悠も、下駄箱の前で立ち止まった。
背中が熱い。
首の後ろがじんじんする。
教室に入ると、エアコンの風が当たった。
冷たさに、体が少しだけほどける。
でも、席に座った瞬間、悠は机に額をつけた。
「悠、大丈夫?」
隣の席の子が聞く。
「暑すぎる」
「今日、体育あるかな」
「無理でしょ」
教室の前では、担任の宮園先生が出席を取りながら、子どもたちの顔色を見ていた。
この町では、ここ数年、夏の暑さが厳しくなっている。
熱中症警戒の通知が出る日も増えた。
学校では、気候変動の授業も行っている。
地球温暖化。
海面上昇。
氷河の融解。
異常気象。
宮園先生は、資料を用意し、動画を見せ、二酸化炭素のグラフも説明してきた。
けれど、授業の後、子どもたちの感想はどこか遠かった。
『北極の氷が溶けてかわいそう』
『海面が上がると大変だと思った』
『電気を消そうと思った』
大切な感想だった。
でも、宮園先生は、教室に入ってくる子どもたちの汗だくの顔を見ながら、何かがつながっていない気がしていた。
この子たちにとって、一番切実な気候は、映像の中の氷河ではない。
毎朝歩く、日陰のない通学路なのではないか。
一時間目は、総合学習だった。
今日から小中合同の環境プロジェクトが始まる。
小学校六年生と中学一年生が合同で、地域の気候について考える授業。
体育館に集まった子どもたちの前には、大きなスクリーンが置かれていた。
最初に映されたのは、地球の平均気温のグラフだった。
右上がりの線。
赤く塗られた世界地図。
高温化する都市。
宮園先生は説明した。
「気候変動は、世界中で大きな問題になっています。遠い国だけでなく、私たちの暮らしにも関係しています」
悠は、体育館の床に座ったまま、ぼんやりスクリーンを見ていた。
関係している。
そう言われても、遠い。
地球の平均気温が何度上がったとか、海面がどうとか、ニュースで聞いたことはある。
でも、悠が今考えているのは別のことだった。
明日の朝も、あの道を歩くのか。
日陰のない交差点で、また信号を待つのか。
バス停には屋根がない。
途中に座れる場所もない。
水筒の氷はすぐ溶ける。
学校へ着く頃には、頭がぼうっとする。
悠は、思わず手を挙げた。
宮園先生が少し驚いた顔をする。
「悠さん」
「先生」
悠は、スクリーンではなく、体育館の窓の外を見た。
「地球の未来より、明日の通学路が暑すぎるんです」
体育館が静かになった。
何人かの子どもが、うん、と小さく頷く。
宮園先生は、すぐに答えられなかった。
その時、体育館の後ろから一人の先生が歩いてきた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
小中合同プロジェクトの学習支援に来ている先生だった。
灯理は、悠の言葉を受け止めるように頷いた。
そして、静かに言った。
「うん。では、地球の未来は、君の通学路とは別の場所にあるのでしょうか」
悠は、少し黙った。
地球。
通学路。
その二つは、まったく別の大きさのものだと思っていた。
けれど、灯理は同じ線の上に置いた。
宮園先生は、スクリーンのグラフを見た。
それから、体育館の窓の外の校門を見た。
「今日の授業を、少し変えましょう」
宮園先生は言った。
「地球の平均気温の話を、皆さんの通学路から考えます」
その日から、気候プロジェクトは「暑さ地図づくり」に変わった。
最初に配られたのは、温度計と記録シートだった。
赤外線で表面温度を測る温度計。
普通の気温計。
市内地図。
色シール。
写真記録用のタブレット。
記録シートには、項目が並んでいた。
『場所』
『時刻』
『気温』
『表面温度』
『日陰の有無』
『風の通り』
『座れる場所』
『水分補給できる場所』
『危険だと感じる理由』
『誰にとって困るか』
悠は、最後の項目で手を止めた。
誰にとって困るか。
自分だけではない。
一年生。
体の小さい子。
重い荷物を持つ中学生。
高齢者。
ベビーカーを押す人。
車椅子の人。
犬の散歩をする人。
暑い道は、みんなに同じように暑いわけではないのかもしれない。
翌朝、悠たちは先生と一緒に通学路を歩いた。
熱中症対策のため、短い区間ごとに水分補給をしながら、無理のない範囲で調べる。
まず、校門から一番近い交差点。
時刻は午前八時十分。
気温は三十二度。
アスファルトの表面温度は、四十六度。
「四十六?」
悠は思わず声を上げた。
隣の中学生が、温度計の表示を覗き込む。
「地面、やば」
次に、ブロック塀の前。
影はない。
風も通りにくい。
表面温度は四十八度。
白い壁が光を反射して、目が痛い。
悠は、記録シートに書いた。
『日陰なし』
『立ち止まると暑い』
『信号待ちがつらい』
次に、昔桜並木があった道。
若い木の下を測る。
影は、まだ細い。
アスファルトの温度は四十五度。
少し先の土のある空き地を測ると、三十七度だった。
「土の方が低い」
誰かが言った。
宮園先生が頷く。
「舗装の種類や日陰の有無で、体感も温度も変わりますね」
悠は、空き地の土を見た。
草が少し生えている。
いつもは気にも留めない場所だった。
でも、数字で見ると、そこは道より涼しかった。
学校へ戻った後、子どもたちは測定結果を地図に貼っていった。
赤は危険な暑さ。
橙は注意。
青は比較的涼しい場所。
地図の上で、赤い点が通学路に並んだ。
悠の通学路は、ほとんど赤かった。
「ほら」
悠は、少し腹立たしく言った。
「やっぱり暑いじゃん」
灯理が隣に立つ。
「はい。体で感じていたことが、数字と地図でも見えてきましたね」
「大人は、昔から夏は暑いって言うんです」
「はい」
「でも、これは仕方ないで終わらせていい暑さなんですか」
灯理は、悠の地図を見た。
「その問いを、次の活動にしましょう」
プロジェクトの次の時間、子どもたちは地域の人に聞き取りをした。
学校の近くに住む高齢者。
保育園の先生。
ベビーカーを押す保護者。
バス停を使う人。
車椅子で移動する人。
商店街の店主。
悠は、近所の高齢者の女性に話を聞いた。
「この道、夏は歩きますか」
「朝早くならね。でも、昼前からは無理よ」
「どうしてですか」
「日陰がないでしょう。途中で座る場所もないし、バス停にも屋根がない。買い物の帰りに立って待つのはつらいわ」
悠は、記録シートに書いた。
『バス停に屋根がない』
『座る場所がない』
『高齢者は昼前から歩きにくい』
保育園の先生は言った。
「小さい子は地面に近いから、大人より暑さを感じやすいです。散歩コースも夏は変えています」
車椅子の人は言った。
「日陰がないと、膝の上や座面が熱くなります。段差を避けるために遠回りすると、余計に暑い道を通らないといけないこともあります」
悠は、聞きながら少しずつ口数が少なくなった。
暑いのは自分だけではない。
しかも、困り方は人によって違う。
通学路は、ただ学校へ行くための道ではない。
誰かの買い物の道。
通院の道。
散歩の道。
バス停までの道。
暑すぎる道は、町の中のいろいろな人を少しずつ外へ出にくくしている。
宮園先生は、授業の中で地球規模の気候変動の資料をもう一度見せた。
今度は、子どもたちの地図の隣に並べた。
世界の気温上昇グラフ。
都市のヒートアイランド現象。
緑地の減少。
猛暑日の増加。
熱中症搬送者数。
その隣に、悠たちの通学路の赤い点。
悠は、初めてその二つがつながって見えた。
地球の未来は、どこか遠くの氷の話だけではない。
朝、自分が立つ横断歩道にもある。
バス停の屋根がないことにもある。
木が切られた道にもある。
アスファルトの温度にもある。
灯理は言った。
「では、ここから何を選べるかを考えてみましょう」
子どもたちは、対策案を出し合った。
『バス停に屋根をつける』
『通学路に日陰を作る』
『若い木を増やす』
『登校時間を少し早める、または暑い日は変更する』
『途中で休めるポイントを作る』
『商店や公民館を一時的な涼み場所にする』
『水分補給ポイントを作る』
『危険な道を避ける夏用通学ルートを考える』
『帽子や冷却グッズのルールを見直す』
『アスファルト以外の舗装を検討する』
『日傘を使いやすくする』
最初は、ただの願いのように見えた。
でも、宮園先生はそれを分けた。
『学校でできること』
『地域で相談できること』
『市役所へ提案すること』
『すぐできること』
『時間がかかること』
悠の班は、バス停の屋根と通学路の日陰に注目した。
バス停は、学校から十分ほどの場所にある。
朝も夕方も利用者が多い。
でも屋根がなく、ベンチもない。
悠たちは、その場所の温度を測った。
午前八時二十五分。
気温三十三度。
バス停の道路側の表面温度、五十度。
少し離れた店の軒下、三十六度。
差は大きかった。
「屋根があるだけで違う」
悠は言った。
「じゃあ、屋根をつけてくださいって言えばいい?」
班の中学生が言う。
「でも、お金かかるよ」
「場所の許可もいるんじゃない?」
「簡易日除けならできるかも」
「夏の間だけ布を張るとか」
宮園先生は、議論を聞きながら嬉しくもあり、難しさも感じていた。
子どもたちの案を、大人が「いいね」で終わらせてしまえば、また感想で止まってしまう。
実際の道路や設備には、予算、管理、所有者、安全基準がある。
だが、それを理由に最初から諦めさせるのも違う。
灯理は、宮園先生に言った。
「子どもたちの提案を、実現可能性で切る前に、誰と相談すれば次へ進むかを見せることが大切かもしれません」
「はい」
「未来を学ぶ授業は、提案がすぐ叶うことだけではなく、提案がどこへ向かうのかを知ることでもありますね」
プロジェクトの発表日、市役所の環境課、道路課、子ども支援課、地域の自治会、商店街の人たちが学校に集まった。
体育館の壁には、子どもたちが作った「暑さ地図」が貼られている。
赤い点。
温度の数字。
写真。
聞き取りの言葉。
対策案。
悠は、班の発表担当になっていた。
人前で話すのは少し苦手だった。
でも、今回は言いたいことがはっきりしていた。
手元の資料には、自分が毎朝歩いた道の数字がある。
体で知っていた暑さが、地図になっている。
悠は、マイクの前に立った。
「私たちの班は、学校から東側の通学路と、バス停の暑さを調べました」
スクリーンに写真が映る。
日陰のない横断歩道。
屋根のないバス停。
表面温度の数字。
「このバス停は、朝八時二十五分で道路側の表面温度が五十度ありました。近くの店の軒下は三十六度でした。日陰があるかないかで、十四度違いました」
会場が少しざわつく。
悠は続けた。
「高齢者の方からは、昼前から歩けないと聞きました。保育園の先生からは、小さい子は地面に近いので大人より暑いと聞きました。車椅子の方からは、遠回りすると暑い道を長く通ることになると聞きました」
悠は、一度息を吸った。
「私たちは、バス停に夏の間だけでも簡易日除けをつけること、通学路に休憩できる涼みポイントを作ること、日陰のない道を暑さ地図で知らせることを提案します」
スクリーンに、対策案が映る。
『夏季限定の簡易日除け』
『協力店舗の軒下を一時休憩ポイントにする』
『暑さ危険地点の掲示』
『登校時間と水分補給ルールの見直し』
『夏用通学ルートの検討』
発表が終わると、環境課の職員が手を挙げた。
「測定データがとても具体的です。まず、学校周辺の暑さ対策モデル地区として、現地確認を行いたいと思います」
道路課の職員も言った。
「バス停の屋根については、安全基準と管理者の確認が必要です。すぐに恒久的な屋根をつけるのは難しいかもしれませんが、夏季の簡易日除けについて、自治会や商店街と相談できます」
商店街の店主が言った。
「うちの店の軒下、朝の登校時間なら使っていいよ。水も置けるかもしれない」
別の地域の人が言う。
「公民館を涼み場所にできる日を増やしましょう」
宮園先生は、子どもたちの顔を見た。
提案が、少しずつ大人の言葉へ渡っている。
すべてがすぐに叶うわけではない。
でも、「暑いのは仕方ない」で止まっていない。
発表後、悠は暑さ地図の前に立った。
最初に赤いシールを貼った通学路。
その横に、大人たちのメモが貼られている。
『現地確認』
『簡易日除け検討』
『協力店舗募集』
『登校時間見直し』
『公民館涼み場所』
悠は、地図の端に一文を書いた。
『地球は、朝のこの道にもあった』
灯理が隣でそれを見ていた。
「その言葉、地図に残してもよいですか」
悠は少し照れた。
「いいです」
「ありがとうございます」
数週間後、町には小さな変化が生まれた。
すぐに大きな屋根ができたわけではない。
桜並木が一日で戻ったわけでもない。
けれど、学校の前には暑さ危険地点を示す掲示が出た。
登校時間中、協力店舗の軒下に「ひと休みできます」の札が置かれた。
公民館は、猛暑日には朝の時間帯から涼み場所として開くことになった。
バス停には、自治会と市の協議で、夏季限定の簡易日除けが試験的に設置された。
学校では、暑さ指数によって登校後すぐの活動を見直し、水分補給の時間を増やした。
帽子や日傘の扱いについても、校則の確認が行われた。
悠は、ある朝、その簡易日除けの下に立った。
布の影は完璧ではない。
風が吹くと少し揺れる。
それでも、直射日光が遮られるだけで、呼吸がしやすかった。
一年生の男の子が、隣で水筒を飲んでいる。
「涼しいね」
男の子が言った。
「うん」
悠は、日除けの端から空を見上げた。
夏の空は、相変わらず白くまぶしい。
暑さもなくなったわけではない。
でも、道は少し変わった。
自分たちが測り、地図にし、提案したことで、ほんの少し。
それは、地球全体を変えたわけではない。
けれど、明日の通学路を変えた。
その事実が、悠の中に小さな力として残った。
夕方、宮園先生は教室でプロジェクトの振り返りをしていた。
子どもたちは、暑さ地図のコピーに感想を書いている。
『数字にしたら、大人が聞いてくれた』
『暑いのは自分だけじゃなかった』
『木がある場所は本当に涼しい』
『すぐできることと時間がかかることがある』
『地球温暖化って、ニュースだけじゃないと思った』
『通学路を変えるのも環境の勉強だった』
宮園先生は、それらを読みながら灯理に言った。
「私は、気候変動を説明しようとしていました」
「はい」
「大切な知識です。でも、子どもたちの体に届く入口は、毎朝の通学路だったのですね」
灯理は頷いた。
「はい。経験から地球へ、地球からまた地域の選択へ戻ってきましたね」
「遠い問題として教えるだけではなく、自分たちの町で何を測り、誰と相談し、どう変えられるかを考える。それが必要なのだと感じました」
宮園先生は、暑さ地図を見た。
「悠さんの一文が、ずっと残っています」
地図の端に書かれた言葉。
地球は、朝のこの道にもあった。
夜、灯理は学校を出た。
校門の外には、まだ昼間の熱が少し残っている。アスファルトは夜気の中でゆっくり冷めていた。遠くのバス停には、試験的に設置された日除けの布が静かに揺れている。
宮園先生が、校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、通学路から地球を考える授業を一緒に見せていただきました」
宮園先生は、夜の道を見た。
「暑いのは仕方ない。私自身、どこかでそう思っていたのかもしれません」
「はい」
「でも、測れば見える。見えれば話し合える。話し合えば、少しでも変えられる場所があるのですね」
灯理は頷いた。
「未来は、大きな言葉だけでなく、明日の道にもありますね」
宮園先生は、小さく笑った。
「明日、子どもたちはまたこの道を歩きます」
「はい」
「その道が、少しでも安全で、息がしやすい場所になるように、授業を続けます」
夜風が、校門の横の若い木を揺らした。
まだ細い木だった。
でも、葉は確かに影を作ろうとしていた。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、スマートシティ実証実験中の町から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
気候を学ぶことは、遠い地球の未来を知ることだけではない。
もちろん、地球規模の変化を知ることは大切だ。
気温の上昇。
海の変化。
氷の融解。
極端な気象。
それらは、この世界全体に関わっている。
けれど、その未来は、子どもの足元にもある。
日陰のない横断歩道。
屋根のないバス停。
熱を持ったアスファルト。
水筒の氷が溶ける朝。
高齢者が歩けなくなる昼前。
車椅子で遠回りする道。
小さな木がまだ作れない影。
そこから測り、聞き、地図にし、提案する。
暑いのは仕方ない、で終わらせない。
明日の道を少し変える。
灯理は、夜の通学路を振り返った。
学校の掲示板には、悠たちの暑さ地図が貼られている。
その端には、消されなかった一文が残っている。
地球は、朝のこの道にもあった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




