第14章 第1話:校則の授業――理由を知らない禁止事項
朝の昇降口には、校則の声がよく響く。
上履きのかかとを踏まない。
名札をつける。
スカートの丈を直す。
靴下の色を確認する。
廊下を走らない。
挨拶をする。
古い中学校の昇降口には、生徒たちの足音と一緒に、教師たちの短い声が重なっていた。冬の空気がまだ廊下に残り、窓ガラスは少し白く曇っている。
陽菜は、昇降口の端で立ち止まった。
髪が肩にかかっている。
いつもなら結んでいる。
でも、今朝は家を出る直前に髪ゴムが見つからなかった。机の上にも、洗面所にも、制服のポケットにもなかった。遅刻しそうになり、そのまま家を飛び出した。
髪は肩より少し下。
校則では、肩についたら結ぶことになっている。
陽菜は、廊下を通り抜けようとした。
「陽菜さん」
声をかけられた。
生徒指導担当の岸田先生だった。
手には校門指導用のファイルを持っている。いつも姿勢がまっすぐで、校則違反には厳しい先生だ。
「髪、結んでいませんね」
「すみません。髪ゴムを忘れました」
「肩についたら結ぶ決まりです」
「はい」
「職員室で予備を借りなさい」
陽菜は頷いた。
それで終わるはずだった。
でも、今日は言葉が口からこぼれた。
「先生」
「何ですか」
「どうして肩についたら結ばなきゃいけないんですか」
岸田先生は、少し眉を動かした。
「校則だからです」
「それはわかっています」
「昔からそう決まっています」
「昔から決まっていた理由が知りたいんです」
昇降口の空気が少し止まった。
近くにいた生徒が、ちらりとこちらを見る。
岸田先生は、ファイルを持ち直した。
「みんな守っています。陽菜さんだけ特別にはできません」
「特別にしてほしいわけじゃありません」
陽菜は、声が強くなりすぎないように気をつけた。
「理由を知りたいだけです」
岸田先生は少し黙った。
その沈黙に、陽菜は気づいた。
先生も、すぐには理由を言えないのだ。
「とにかく、今日は予備のゴムを借りて結びなさい」
「はい」
陽菜は職員室へ向かった。
胸の中に、納得できない小さな石が残っていた。
校則が全部嫌なわけではない。
廊下を走らない理由はわかる。
危ないから。
授業中にスマートフォンを使わない理由も、だいたいわかる。
授業に集中できなくなるから。
登下校時に危ない場所へ寄り道しない理由も、わかる。
でも、髪を常に結ぶ理由はよくわからない。
実験の時や給食の時、体育の時ならわかる。
髪が邪魔になったり、衛生面や安全面があるから。
けれど、朝のホームルームや国語の授業中まで、必ず結ばなければならないのだろうか。
理由がわからないルールでも、守らなければならない。
そのことが、陽菜には息苦しかった。
職員室で黒い髪ゴムを借り、廊下の鏡の前で髪を結ぶ。
きつく結びすぎて、少し頭皮が引っ張られた。
教室に入ると、友人の茜が振り返った。
「髪、注意された?」
「うん」
「予備ゴム?」
「うん」
「私も先週借りた。あのゴム、すぐ痛くなるよね」
茜は小声で笑った。
陽菜は席に座る。
「ねえ、なんで髪って結ばないといけないんだろう」
「校則だからでしょ」
「それはそうだけど」
「理由? 知らない」
茜は肩をすくめた。
「靴下が白だけなのも、筆箱が派手すぎるとだめなのも、理由なんて知らないよ」
陽菜は机の中から校則冊子を取り出した。
入学式の日に配られたものだ。
青い表紙は少し色あせ、角が折れている。
開くと、細かい文字が並んでいた。
『髪は清潔に保ち、肩につく長さの場合は結ぶこと』
『靴下は白を基調としたものとする』
『登下校中の寄り道は禁止』
『防寒着は指定のものを着用する』
『筆箱、鞄等は学習にふさわしい落ち着いたものを使用する』
『放課後に教室へ残る場合は、担任または担当教員の許可を得ること』
陽菜は、ページの余白を見た。
ルールはある。
でも、理由はほとんど書かれていない。
ただ、そうすること。
禁止。
許可。
指定。
陽菜は、冊子を閉じた。
その日の六時間目、特別授業が行われることになっていた。
テーマは、校則。
数日前から、学校全体で校則見直しの話が出始めていたらしい。
体育館ではなく、三年二組の教室に、生徒指導担当の岸田先生と、もう一人の先生が入ってきた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
世界の学校を訪ね、学びの場を作る先生だと、朝の全校放送で紹介されていた。
灯理は教室に入ると、黒板の上に貼られた「生活目標」と、生徒たちの机の上にある校則冊子を順番に見た。
「今日は、校則について一緒に考えます」
岸田先生が言った。
教室に少し緊張が走る。
校則について考える。
それは、生徒にとって少し危ない響きだった。
文句を言えば、反抗していると思われるかもしれない。
変えたいと言えば、わがままだと思われるかもしれない。
岸田先生は、いつものように真面目な顔で続けた。
「校則は、学校生活を安全で落ち着いたものにするためにあります。守るべきものです」
生徒たちが頷く。
しかし、岸田先生はそこで一度言葉を切った。
「ですが、私自身、すべての校則について、その理由をすぐに説明できるわけではありません」
教室が少しざわついた。
岸田先生が、そんなことを言うとは思わなかった。
陽菜も顔を上げた。
灯理が黒板の前に立った。
「今日は、校則を守るか破るかではなく、理由を読みに行く授業にします」
黒板に大きく書く。
『校則の理由を読みに行く』
陽菜は、その言葉を見つめた。
理由を読みに行く。
聞きに行く、ではなく。
読みに行く。
ルールの奥にあるものを探すような言い方だった。
灯理は生徒たちにワークシートを配った。
そこには、項目が並んでいる。
『その校則は何を守るためにあるのか』
『いつできたのか』
『今も同じ理由があるのか』
『誰が困っているのか』
『なくすと何が起きるのか』
『変えるならどう変えるのか』
『残すなら理由をどう説明するのか』
「校則は、ただ邪魔なものとして見ることもできます」
灯理は言った。
「逆に、ただ守るべきものとして見ることもできます。でも今日は、その間を見ます。なぜ作られたのか。今も必要なのか。必要なら、どの場面で必要なのか。変えるなら、何を守りながら変えるのか」
生徒たちは、少しずつ校則冊子を開いた。
靴下の色。
髪型。
登下校。
防寒着。
筆箱。
放課後の教室利用。
それぞれが気になる校則を選ぶ。
陽菜は迷わず、髪の校則を選んだ。
『髪は清潔に保ち、肩につく長さの場合は結ぶこと』
ワークシートの最初の欄。
『その校則は何を守るためにあるのか』
陽菜はペンを止めた。
何を守るため。
清潔。
安全。
授業に集中するため。
見た目の統一。
思いつくままに書く。
けれど、どれも少し曖昧だった。
灯理が机の横に来た。
「髪の校則を選んだんですね」
「はい」
「理由を知りたい、と朝も言っていましたね」
陽菜は少し驚いた。
「聞いていたんですか」
「少しだけ」
灯理は微笑んだ。
「反発したいというより、理由を知りたいように聞こえました」
「はい」
陽菜は校則冊子を見た。
「守りたくないわけじゃないんです。でも、理由がわからないまま言われると、納得できなくて」
「うん」
「先生、理由がわからない校則でも守らなきゃいけないんですか」
灯理は、すぐに答えなかった。
そして静かに言った。
「うん。では、その理由を一緒に読みに行くことはできないでしょうか」
陽菜は、ワークシートに目を落とした。
理由は、最初から答えとして渡されるものではないのかもしれない。
探しに行けるものなのかもしれない。
授業の中盤、生徒たちは校則の成り立ちを調べるため、資料室へ移動した。
資料室には、古い校則冊子や生徒手帳、職員会議の記録の一部、学校だよりのバックナンバーが置かれていた。
埃っぽい匂いがする。
古い紙は少し黄ばんでいた。
陽菜は、十年前、二十年前の生徒手帳をめくった。
髪の校則は、かなり前からあった。
文言は少しずつ変わっている。
昔はもっと細かかった。
『女子の髪は肩にかかる場合、黒または紺のゴムで結ぶこと』
『前髪は目にかからないようにする』
『男子は耳にかからない長さを保つこと』
陽菜は眉を寄せた。
「昔の方が厳しい」
茜が横から覗き込む。
「今もけっこう厳しいけどね」
陽菜は、さらに古い職員会議の記録を見つけた。
そこには、理科実験中の安全、給食当番の衛生、体育で髪が視界を遮ることについて書かれていた。
陽菜は書き写す。
『実験時に髪が火や薬品に触れる危険』
『給食配膳時の衛生』
『体育時の視界確保と怪我防止』
理由はあった。
まったく意味のない校則ではなかった。
陽菜は少し戸惑った。
反発だけなら簡単だった。
でも、理由を知ると、単純に「いらない」とは言えない。
理科の火。
給食の衛生。
体育の安全。
それは確かに大切だ。
けれど、だからといって、朝から帰りまでずっと結ぶ必要があるのだろうか。
陽菜はワークシートの次の欄に書いた。
『今も同じ理由があるのか』
実験、給食、体育ではある。
でも、通常授業や休み時間に常に結ぶ必要があるかは別。
『なくすと何が起きるのか』
実験や給食で安全・衛生の問題が出るかもしれない。
体育で邪魔になるかもしれない。
『変えるならどう変えるのか』
安全上必要な授業や活動では結ぶ。
通常時は、清潔と安全を保てる範囲で本人判断。
書いた瞬間、陽菜は少し息がしやすくなった。
全部なくしたいわけではない。
全部そのまま守りたいわけでもない。
理由がある場面に合わせて、形を変えたいのだ。
一方、別の班では靴下の色について調べていた。
「白だけって、汚れがわかりやすいから?」
「昔は式典の時に統一感を出すためって書いてある」
「でも毎日白じゃないとだめな理由は?」
「安全とはあんまり関係なさそう」
登下校時の寄り道禁止を調べる班は、事故やトラブルを防ぐ目的を見つけていた。
「でも、塾や病院に寄る場合はどうなるの?」
「許可制になってるけど、みんな面倒で言ってないよね」
「目的地と連絡先を申請すればいいとか?」
放課後の教室利用を調べる班は、盗難防止や安全管理の理由を見つけた。
「勝手に残るのは危ないけど、勉強したい人が残れる場所は必要じゃない?」
「許可の取り方がわかりにくい」
「先生がいないとだめなら、図書室開放でもいいかも」
教室に戻ると、黒板には各班の調査結果が貼られた。
灯理はそれを見ながら言った。
「理由を知ると、どう感じましたか」
生徒の一人が言った。
「意味ないと思ってたけど、理由があるものもありました」
別の生徒が言う。
「でも、理由が昔のまま止まってるものもあると思いました」
「全部なくすと困るものもある」
「でも、全部同じ形で残す必要があるかは違う」
岸田先生は、生徒たちの発言を黙って聞いていた。
手元には、校則冊子がある。
いつもなら、その冊子は守らせるためのものだった。
今日は、読み直すための資料になっている。
陽菜は、髪の校則について発表することになった。
少し緊張して前に立つ。
髪は、朝借りたゴムでまだ結ばれている。
頭皮が少し痛い。
でも、その痛みも今日の発表の一部のような気がした。
「私たちの班は、髪の校則について調べました」
陽菜は、ワークシートを持った。
「最初は、理由がわからないから嫌だと思っていました。でも、昔の資料を見ると、理科の実験、給食、体育で安全や衛生を守るためという理由がありました」
岸田先生が、静かに頷く。
「だから、髪を結ぶこと自体が全部おかしいわけではないと思います」
教室が少し静かになる。
陽菜は続けた。
「でも、その理由なら、常に結ぶ必要があるのかは別だと思います。実験、給食当番、体育、作業の時など、安全や衛生に関わる場面では結ぶ。通常の授業や休み時間は、清潔と安全を保てる範囲で本人が判断する。そういう形に変えられないかと考えました」
黒板に案を書く。
『安全上必要な授業・活動では結ぶ』
『通常時は清潔と安全を保てる範囲で本人判断』
『必要な場面を教師と生徒で共有する』
茜が小さく拍手した。
何人かも続く。
陽菜は少し顔が熱くなった。
自分は、校則を破りたいのではない。
理由を知り、理由に合う形にしたい。
それを、ようやく言えた気がした。
岸田先生が前に立った。
「皆さんの発表を聞いて、先生も考えました」
生徒たちは静かに先生を見る。
「私は、校則だから守りなさい、と言うことが多くありました。もちろん、学校生活の安全や落ち着きを守るために、ルールは必要です」
岸田先生は、校則冊子を開いた。
「しかし、説明できないルールを、そのまま守らせるだけでは、皆さんが納得して生活することは難しいのだと感じました」
陽菜は息を止めた。
岸田先生が、今朝の自分の問いに答えようとしている。
「今後、校則見直し委員会を作ります。生徒、教師、保護者で話し合い、まず三つの校則について試行期間を設けます」
教室がざわめく。
「本当に?」
「変わるの?」
「三つって何?」
岸田先生は、黒板に書いた。
『髪』
『放課後の教室利用』
『防寒着』
「すぐに全面変更はできません。安全面、保護者への説明、教職員の共通理解が必要です」
少し厳しい声に戻る。
「ですが、理由を説明できる校則にするために、見直しを始めます」
灯理はその横で、静かに黒板を見ていた。
終わりではない。
始まりだ。
その日の放課後、陽菜は校則冊子を持ったまま教室に残っていた。
机の上には、髪の校則についてのワークシートがある。
茜が帰り支度をしながら言った。
「陽菜、委員会入るの?」
「校則見直し委員会?」
「うん」
「たぶん」
「大変そう」
「うん。でも、理由がわからないままよりいい」
陽菜は校則冊子を開いた。
髪の項目の余白に、小さく書く。
『守るためには、まず理由を知りたい』
その文字を見て、少しだけ笑った。
朝、注意された時には、ただ納得できなかった。
今も、すべて納得したわけではない。
でも、理由を読みに行く道ができた。
そして、理由に合わない部分を変えるための言葉も、少しだけ持てた。
廊下に出ると、岸田先生が立っていた。
「陽菜さん」
「はい」
「今朝は、すぐに理由を答えられませんでした」
陽菜は少し驚いた。
岸田先生は、少し照れたように続けた。
「先生も、校則を守らせる立場でありながら、その理由を十分に読み直していませんでした」
「いえ」
「あなたの問いは、必要な問いでした」
陽菜は、胸の奥が少し温かくなった。
「私、校則を全部なくしたいわけじゃないです」
「今日、伝わりました」
「でも、理由が言えないまま注意されると、ただ従わされている感じがします」
「そうですね」
岸田先生は、校則冊子を見た。
「これから、一緒に説明できる言葉を探しましょう」
陽菜は頷いた。
「はい」
帰り道、陽菜は髪ゴムを外した。
風が髪を揺らす。
校門を出るまでは結んでいるべきか、少し迷った。
でも、今日はもう放課後で、校内活動も終わっている。
校則が変わったわけではない。
ただ、これから試行案が話し合われる。
陽菜は髪ゴムを手首につけた。
結ぶことが嫌なのではない。
理由のない命令のように感じることが嫌だったのだ。
必要な時に結ぶ。
必要な理由を知る。
自分で判断する。
それは、自由になるというより、少し責任を持つことに近かった。
夜、灯理は中学校を出た。
校舎の窓には、職員室の明かりが残っている。岸田先生は机に向かい、校則見直し委員会の案内文を作っていた。机の上には、古い校則冊子と、生徒たちのワークシートが並んでいる。
岸田先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、校則の理由を一緒に読ませていただきました」
岸田先生は、少し苦笑した。
「私は、校則を守らせることが生徒指導だと思っていました」
「守ることも大切ですね」
「はい。しかし、理由を説明できないまま守らせることは、指導ではなく命令になってしまうのかもしれません」
彼は校舎を振り返った。
「校則を変えるのは簡単ではありません。保護者への説明も必要ですし、教師間の意見も分かれるでしょう」
「はい」
「でも、今日の生徒たちは、ただ自由にしたいと言っていたわけではありませんでした。安全や衛生の理由も見ていた。その上で、今の生活に合う形を考えていた」
灯理は頷いた。
「陽菜さんも、理由を知りたいと言っていましたね」
「ええ。あの問いを、流さなくてよかったと思います」
夜風が、校門の横の掲示板を揺らした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、行事と補習と部活動が詰まった中高一貫校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
校則は、ただの禁止事項ではない。
誰かの安全を守るために生まれたものもある。
共同生活を支えるために必要なものもある。
けれど、理由が読まれないまま残り続けると、ルールは次第に重くなる。
昔の理由が、今の生活に合っているか。
守る場面と、任せる場面を分けられないか。
残すなら、どう説明するのか。
変えるなら、何を守りながら変えるのか。
灯理は夜の校舎を振り返った。
古い校則冊子の余白に、生徒の小さな文字が残っている。
守るためには、まず理由を知りたい。
その問いを胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




