表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
65/204

第13章 第5話:辞めたい先生の授業――空の出席簿を閉じる夜


 夜の職員室で、出席簿を閉じる音だけがした。


 ぱたん、と乾いた音が机の上に落ちる。


 村瀬先生は、その音をしばらく聞いていた。


 地方の小さな学校の職員室は、夜になると急に広く感じる。昼間は子どもたちの声、電話の音、コピー機のうなり、教師同士の呼びかけが重なっているのに、今は蛍光灯の低い音だけが天井に残っていた。


 机の上には、明日の授業プリント、採点途中の小テスト、保護者からの連絡メモ、部活動の大会要項、地域清掃活動の打ち合わせ資料、進路面談の日程表が積まれている。


 その山の真ん中に、出席簿があった。


 村瀬先生は、もう一度それを開こうとした。


 でも、指が止まった。


 生徒の名前が並んでいる。


 葵。


 翔太。


 美波。


 悠斗。


 真琴。


 颯。


 名前を見れば、以前はすぐに顔が浮かんだ。


 朝、眠そうに教室へ入ってくる顔。


 給食の時間に笑う顔。


 部活動で悔し泣きする顔。


 進路面談で不安そうに俯く顔。


 小さな変化にも気づけた。


 今日は声が低い。


 昨日より目が赤い。


 誰かと喧嘩したかもしれない。


 宿題を忘れた理由の奥に、別の疲れがあるかもしれない。


 そうやって、名前の向こうに一人ひとりが見えていた。


 それなのに、最近は違う。


 出席簿を開くと、名前が仕事の項目のように見える。


 出欠確認。


 提出物確認。


 面談予定。


 部活連絡。


 保護者対応。


 配慮事項。


 欠席連絡。


 名前の横に、するべきことだけが並んでいく。


 顔が浮かばない日がある。


 そのことが、村瀬先生にはたまらなく怖かった。


「……何やってるんだろうな」


 誰もいない職員室で、独り言が落ちた。


 村瀬先生は十年以上、この学校で働いてきた。


 生徒思いだと言われてきた。


 保護者からも、地域からも、同僚からも、頼りにされてきた。


「村瀬先生なら任せられる」


「村瀬先生がいてくれると助かる」


「村瀬先生、これもお願いできますか」


 その言葉に、ずっと応えてきた。


 授業。


 学級経営。


 進路指導。


 保護者電話。


 部活動。


 地域行事。


 休日の大会引率。


 放課後の補習。


 生徒の相談。


 校務分掌。


 夜の書類作成。


 断るより、引き受けた方が早かった。


 自分がやれば、誰かが助かる。


 生徒のためになる。


 学校が回る。


 そう思っていた。


 けれど、いつからか、体の奥がずっと重い。


 朝、学校へ向かう道で、信号が変わるのを見ながら、このまま遠くへ行けたらと思うことがある。


 生徒の相談に乗っていても、心のどこかで「あと何件残っているか」を数えている自分がいる。


 それに気づくたび、胸が冷たくなる。


 自分はもう、先生ではないのではないか。


 生徒を大切に思えなくなったのではないか。


 だったら、辞めた方がいいのではないか。


 出席簿を閉じたまま、村瀬先生は額を押さえた。


 職員室の扉が開いた。


「村瀬先生」


 校長の久保田先生だった。


 白髪交じりの穏やかな教師で、村瀬先生が若い頃からこの学校にいる。


「まだ残っていたんですか」


「ああ、少しだけ」


 村瀬先生は、反射的に笑った。


「大丈夫です。もう帰ります」


 久保田校長は、机の上の資料の山を見た。


 それから、閉じられた出席簿を見る。


「本当に大丈夫ですか」


「はい。大丈夫です」


 いつもの言葉だった。


 大丈夫です。


 少し疲れていても。


 寝不足でも。


 胸が重くても。


 生徒の名前を見ても顔が浮かばない夜でも。


 そう言うのが癖になっていた。


 校長は何か言いたそうにした。


 けれど、村瀬先生が笑って見せると、それ以上踏み込まなかった。


「無理はしないでください」


「はい」


 扉が閉まる。


 職員室はまた静かになった。


 村瀬先生は出席簿に手を置き、目を閉じた。


 翌朝、学校には冷たい霧が降りていた。


 校門の前では、生徒たちが白い息を吐きながら登校してくる。自転車置き場にはタイヤの音が重なり、昇降口では「おはようございます」の声が交差していた。


 村瀬先生は、校門に立って挨拶をしていた。


「おはよう」


「おはようございます」


「マフラー、廊下では外しておけよ」


「はい」


「葵、おはよう」


 葵は、少し立ち止まった。


 中学二年生。


 静かで、周りをよく見る生徒だった。困っている友だちにそっとプリントを渡すような子で、村瀬先生も以前から気にかけていた。


 葵は何か言いたそうに口を開きかけた。


 しかし、村瀬先生の手元の書類を見て、すぐに閉じた。


「おはようございます」


 それだけ言って、昇降口へ向かう。


 村瀬先生は、その背中を見送った。


 何か言いたかったのだろうか。


 そう思った。


 でも、すぐに次の生徒が来る。


 挨拶。


 服装確認。


 遅刻しそうな生徒への声かけ。


 そのうちに、葵の表情は朝の霧の中へ薄れていった。


 一時間目。


 二時間目。


 授業はいつも通り進む。


 村瀬先生は板書し、生徒に発問し、プリントを配る。


 体は動く。


 声も出る。


 生徒はいつものようにノートを取る。


 だから、誰も気づかない。


 村瀬先生の胸の中で、少しずつ何かが空になっていることに。


 昼休み、職員室に戻ると、机の上に新しい封筒が置かれていた。


 外部講師来校の案内。


 差出人欄には、見覚えのない名前があった。


 白瀬灯理。


 世界各地の学校を訪ねている先生だと、校長が昨日話していた。


 今日の午後、教師向けの小さな研修を行う予定だという。


 村瀬先生は封筒を開かずに、資料の山の横へ置いた。


 今は、それどころではない。


 放課後、職員室の隣の会議室に、数人の教師が集まった。


 校長の久保田先生。


 若手の教師。


 養護教諭。


 部活動担当。


 そして村瀬先生。


 前に立ったのは、黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生だった。


「白瀬灯理です」


 灯理は軽く頭を下げた。


「今日は、先生方の仕事について、一緒に見せていただきます」


 村瀬先生は、腕時計を見た。


 部活動の練習開始まで、あと三十分。


 その後、保護者への電話。


 明日の授業準備。


 地域会議の資料。


 研修を受けている時間さえ、後ろめたかった。


 灯理は、そんな村瀬先生の机の上に置かれた分厚い手帳と、閉じたままの出席簿に目を留めた。


 研修のはじめに、灯理は黒板に書いた。


『先生の仕事の地図』


 参加した教師たちは、少し不思議そうに顔を上げた。


「今日は、良い授業の方法や、生徒対応の技術を話す前に、先生方が一週間でどんな仕事をしているのかを地図にしてみます」


 灯理は大きな紙を配った。


 中央には、一週間の表。


 月曜日から日曜日。


 朝、午前、昼、午後、放課後、夜。


 それぞれの欄がある。


「まず、実際に行っている仕事を書き出してください。小さなことも入れます」


 黒板に例が並ぶ。


『授業準備』

『授業』

『採点』

『提出物確認』

『個別面談』

『保護者電話』

『部活動』

『行事準備』

『地域会議』

『生徒の相談』

『書類作成』

『休日の大会引率』

『家に持ち帰った仕事』

『休憩』

『移動』

『食事』

『何もしていない時間』


 最後の項目を見て、若手教師が小さく笑った。


「何もしていない時間なんて、ありますかね」


 灯理は微笑んだ。


「ないなら、ないことも見えます」


 村瀬先生は、紙を見下ろした。


 書き始めるのが少し怖かった。


 自分がどれだけ仕事を抱えているか、見るのが怖かった。


 それでも、ペンを持った。


 月曜朝。


 校門指導。


 朝の会。


 授業三コマ。


 給食指導。


 昼休みの生徒相談。


 午後の授業。


 放課後補習。


 部活動。


 保護者電話。


 採点。


 帰宅後、地域行事の資料確認。


 火曜。


 水曜。


 木曜。


 金曜。


 土曜。


 大会引率。


 日曜。


 部活動の練習試合。


 夜、授業準備。


 書けば書くほど、紙が文字で埋まっていく。


 休憩の欄は、ほとんど空白だった。


 食事の欄には、「給食指導」「コンビニ」「帰宅後遅く」と小さく書いた。


 何もしていない時間。


 書けなかった。


 灯理が机の横に来た。


「かなり埋まっていますね」


「まあ、教師はみんなこんなものです」


 村瀬先生は笑った。


「大丈夫です」


 言った瞬間、自分でもその言葉の薄さがわかった。


 灯理は、すぐには頷かなかった。


「村瀬先生」


「はい」


「その『大丈夫です』は、誰に向けた言葉でしょうか」


 村瀬先生は、ペンを止めた。


 誰に向けた言葉。


 校長に。


 同僚に。


 生徒に。


 保護者に。


 そして、自分に。


 大丈夫だと言い続けなければ、崩れてしまう気がしていた。


 灯理は静かに尋ねた。


「先生であることは、自分の限界をなかったことにすることなのでしょうか」


 村瀬先生は答えられなかった。


 喉の奥が詰まる。


 限界。


 その言葉を、自分に使っていいのかわからなかった。


 会議室では、他の教師たちも自分の仕事の地図を見ていた。


「部活が週六日になってる」


「保護者対応、夜に集中してる」


「採点、家に持ち帰りすぎですね」


「休憩欄、誰も書いてない」


 久保田校長は、村瀬先生の紙を見た。


 表情が変わる。


「村瀬先生、これは」


「大丈夫です」


 また言ってしまった。


 でも、今度はその言葉が喉に引っかかった。


 大丈夫ではない。


 本当は、わかっている。


 灯理は言った。


「今日は、誰が一番頑張っているかを比べる時間ではありません。どの仕事が、一人に集まりすぎているかを見る時間です」


 黒板に新しい項目が書かれる。


『自分でなければできない仕事』

『誰かと分けられる仕事』

『今週でなくてもよい仕事』

『やめる・減らす・形を変える仕事』

『助けを頼む相手』

『一人で持たない仕事』


 村瀬先生は、その最後の言葉を見た。


 一人で持たない仕事。


 そんなものを考えたことがなかった。


 自分が持てばいいと思っていた。


 持てなくなっていることを認めるのが怖かった。


 夕方、研修が終わったあと、村瀬先生は部活動へ向かった。


 校庭では、サッカー部の生徒たちが走っている。


 冷たい風の中、ボールを蹴る音と掛け声が響いていた。


 村瀬先生はタイムを取り、声をかけ、怪我をした生徒の足首を確認する。


 体は動く。


 仕事はできる。


 でも、心はどこか遠かった。


 練習後、葵が校庭の端に立っていた。


 サッカー部ではない。


 帰宅部の葵が、この時間に校庭にいるのは珍しかった。


「葵、どうした」


 村瀬先生が声をかけると、葵は少し迷った。


「先生に、相談したいことがあって」


「今か?」


 言ってから、村瀬先生は自分の声の硬さに気づいた。


 葵の肩が少し下がる。


「すみません。忙しいですよね」


「いや、そういうわけじゃ」


 村瀬先生は言いかけたが、手元の大会記録、練習メニュー、部室の鍵、職員室に残した電話メモが頭の中で一気に浮かんだ。


 葵は、それを見透かしたように小さく笑った。


「また今度で大丈夫です」


 大丈夫。


 その言葉に、村瀬先生の胸が痛んだ。


 葵は踵を返した。


 その背中を、村瀬先生はすぐに呼び止められなかった。


 夜。


 職員室に戻ると、灯理がまだ校長室の前で久保田校長と話していた。


 村瀬先生は自分の机に座り、出席簿を開いた。


 葵の名前を見る。


 朝、何か言いたそうだった。


 放課後も、相談したいと言った。


 でも、自分は受け止められなかった。


 疲れていたから。


 余裕がなかったから。


 そのことが、村瀬先生の胸を強く締めつけた。


 自分は、何のためにこんなに働いているのだろう。


 生徒のためだと言いながら、目の前の生徒に「また今度」と言わせている。


 村瀬先生は出席簿を閉じようとした。


 その時、灯理がそばに来た。


「少し、話してもいいですか」


 村瀬先生は笑おうとした。


「大丈夫です」


 言いかけて、止まった。


 灯理は何も言わずに待っていた。


 村瀬先生は、机の上の出席簿を見た。


「……大丈夫ではありません」


 声がかすれた。


 その一言を言った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。


 灯理は静かに頷いた。


「はい」


「生徒の名前を見ても、前みたいに心が動かないんです」


 村瀬先生は、言ってしまった、と思った。


 教師として、絶対に口にしてはいけない言葉のような気がした。


 でも、もう止まらなかった。


「出席簿を開くと、仕事の一覧みたいに見えるんです。面談、連絡、提出物、欠席確認。顔が浮かばない日があります」


 灯理は、遮らずに聞いていた。


「私はもう、先生を辞めた方がいいんでしょうか」


 声が震えた。


「生徒を大切に思えなくなった先生なんて、ここにいない方がいい」


 灯理は、少しだけ出席簿に視線を落とした。


 そして言った。


「うん。では、それは先生でなくなった証拠でしょうか。それとも、先生として抱えすぎてきた重さの合図でしょうか」


 村瀬先生は、顔を上げた。


 抱えすぎてきた重さ。


 その言葉が、胸の奥に沈んだ。


 自分は、生徒を大切にしていないのではなく、大切にしようとして、全部を持とうとして、持ちきれなくなっているのかもしれない。


 そう思った瞬間、涙が出そうになった。


 しかし、職員室で泣くわけにはいかない。


 村瀬先生は唇を噛んだ。


 灯理は、机の上に昼間の「先生の仕事の地図」を広げた。


「一緒に見てもいいですか」


 村瀬先生は頷いた。


 久保田校長も、そっと近くに来た。


 三人で、仕事の地図を見る。


 文字で埋まった一週間。


 放課後と夜に集中した仕事。


 週末まで続く部活動。


 地域会議。


 保護者電話。


 家に持ち帰った採点。


 休憩の空白。


 灯理は、青いペンを持った。


「まず、一人で持たない仕事に印をつけてみませんか」


 村瀬先生は、最初は何も選べなかった。


 どれも、自分がやらなければならない気がした。


 けれど、灯理は急がせなかった。


 久保田校長が先に言った。


「地域清掃活動の調整は、教頭と私で引き取ります」


 村瀬先生は驚いた。


「でも、去年から私が」


「去年からずっと任せすぎていました」


 校長は静かに言った。


「部活動の休日練習も、外部指導員と調整して減らしましょう。大会前以外の休日は、必ず休める形にします」


「でも、生徒が」


「村瀬先生が倒れたら、生徒はもっと困ります」


 その言葉に、村瀬先生は何も言えなかった。


 灯理が青い線を引く。


『地域会議』

『休日部活動』

『保護者電話の一部』

『採点の分担』

『行事準備』


 村瀬先生は、ようやく自分で一つ選んだ。


「補習を、全部自分で見るのはやめます」


 声に出すと、少し怖かった。


「学年で曜日を分けられるか、相談します」


 久保田校長が頷いた。


「すぐに調整します」


 村瀬先生は、また一つ青い線を引いた。


『放課後補習』


 青い線が増えるたび、胸が軽くなるというより、申し訳なさが増した。


 自分が手放した仕事を、誰かが持つことになる。


 それが苦しかった。


 灯理は言った。


「手放すことは、誰かに押しつけることとは違います。学校全体で持ち直すために、見える場所へ出すことです」


 村瀬先生は、青い線を見た。


 一人で隠して持っていた重さが、少しずつ紙の上に現れている。


 翌日、村瀬先生は葵を廊下で見つけた。


「葵」


 葵は振り返った。


「昨日は、悪かった」


 葵は少し目を丸くした。


「相談したいと言ってくれたのに、ちゃんと聞けなかった」


「いえ、先生忙しそうだったので」


「忙しかった。でも、それで終わりにしていいことではなかった」


 村瀬先生は言葉を選んだ。


「今日の放課後、十五分だけ時間を取った。全部解決できるかはわからないけど、まず聞きたい」


 葵は、少し迷ってから頷いた。


「はい」


 放課後、相談室で葵は話した。


 友だちとの距離がうまく取れないこと。


 家で進路の話をされると苦しくなること。


 先生に相談しようと思ったけれど、いつも疲れているように見えて言い出せなかったこと。


 村瀬先生は、その最後の言葉で息を止めた。


「疲れているように、見えたか」


 葵は気まずそうに俯いた。


「はい」


「相談しにくかった?」


「はい」


 正直な答えだった。


 村瀬先生は、胸の奥が痛んだ。


 自分は、生徒のために頑張っているつもりだった。


 でも、その疲れが、生徒を遠ざけることもある。


「先生がずっと疲れていると、相談していいのかわからなくなるんです」


 葵は小さく言った。


「先生にも、休んでほしいです」


 村瀬先生は、すぐに返事ができなかった。


 葵に心配されている。


 それが申し訳なく、情けなく、同時に少し救われるようでもあった。


「ありがとう」


 村瀬先生は、ようやく言った。


「その言葉、ちゃんと受け取ります」


 葵は頷いた。


「でも、相談も聞いてください」


「聞きます」


「疲れてない時に」


 少しだけ笑って、葵はそう言った。


 村瀬先生も、久しぶりに自然に笑った。


「そのために、疲れすぎないようにします」


 その週の金曜日、職員会議で業務の見直しが行われた。


 久保田校長は、村瀬先生だけの問題にしなかった。


 学校全体の仕事の地図を作り、偏っている業務を見直す。


 部活動の休日体制。


 地域行事の担当。


 保護者電話の記録共有。


 採点や補習の分担。


 行事準備の削減。


 すぐにすべてが変わるわけではない。


 人手は限られている。


 行事も地域との関係もある。


 保護者対応もなくならない。


 それでも、初めて「大丈夫です」で隠されていた重さが、会議の机の上に置かれた。


 村瀬先生は、会議の最後に言った。


「私は、大丈夫ではありませんでした」


 職員室が静かになる。


 村瀬先生は続けた。


「でも、それを言うのが怖かったです。自分が弱い先生になったようで」


 誰も笑わなかった。


「これから、持てない仕事は持てないと言います。その代わり、自分が持てるところはちゃんと持ちます」


 若手の教師が小さく頷いた。


 養護教諭がメモを取る。


 久保田校長は、深く頷いた。


「学校で持ち直しましょう」


 その夜、村瀬先生はまた出席簿を開いた。


 職員室には、まだ少し明かりが残っている。


 机の上の資料の山は、完全になくなったわけではない。


 けれど、青い線を引いた予定表が横に置かれている。


『一人で持たない仕事』


 明日の地域会議には、校長と教頭が行く。


 休日の部活動は、外部指導員と交代する。


 補習は学年で分担する。


 保護者電話は、一人で抱えず記録を共有する。


 村瀬先生は、出席簿の葵の名前を見た。


 今度は、少しだけ顔が浮かんだ。


 相談室で膝に手を置きながら話していた顔。


 「先生にも休んでほしいです」と言った時の、真剣な目。


 次に、翔太の名前。


 朝、靴ひもをほどけたまま走ってきた顔。


 美波の名前。


 給食の牛乳をいつも最後に飲む顔。


 悠斗の名前。


 部活でミスをして悔しそうにボールを拾っていた背中。


 全部が戻ったわけではない。


 以前のように、すべての名前がすぐに鮮やかに立ち上がるわけではない。


 それでも、出席簿は仕事の一覧だけではなくなっていた。


 村瀬先生は、ゆっくり息を吐いた。


 辞めるかどうかの答えは、まだ出ていない。


 教師を続けると簡単に言えるほど、軽くはない。


 けれど、今すぐ自分を責めて終わらせる必要もないのかもしれない。


 明日一日を、一人で抱え込まない方法なら決められる。


 予定表に、青いペンで一本線を引いた。


『一人で持たない仕事』


 その横に、小さく書く。


『葵の面談後、学年で共有』


 扉が開き、灯理が職員室に顔を出した。


「まだいらしたんですね」


「はい」


 村瀬先生は、出席簿を閉じなかった。


「今日は、少し開いていられます」


 灯理は机の横に立ち、予定表の青い線を見た。


「一人で持たない仕事」


「はい」


「全部すぐに変わるわけではありません」


「はい」


「でも、線を引きました」


 村瀬先生は出席簿に手を置いた。


「先生であり続けるって、倒れるまで頑張ることだと思っていました」


「はい」


「でも、倒れたら、何も守れないんですね」


「うん」


「支えてもらいながら続けることも、学ばないといけないんだと思いました」


 灯理は静かに頷いた。


「村瀬先生の今日の学びですね」


 村瀬先生は少し笑った。


「先生なのに、学ぶことばかりです」


「先生だから、かもしれません」


 その言葉に、村瀬先生はしばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


 夜、灯理は小さな学校を出た。


 校舎の窓には、職員室の明かりが一つだけ残っている。村瀬先生は机に向かい、出席簿と青い線の入った予定表を並べていた。


 久保田校長が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、先生方の仕事の地図を見せていただきました」


 久保田校長は、校舎を振り返った。


「私は、村瀬先生の『大丈夫です』を、そのまま受け取っていました」


「信じたかったのですね」


「はい。本人が大丈夫と言うなら、踏み込みすぎない方がいいと思っていました。でも、本当に大丈夫かどうかは、仕事の地図を見なければわからないこともある」


 灯理は頷いた。


「大丈夫という言葉の下に、重さが隠れていることがあります」


「これから、学校全体で見ます。誰か一人が抱え込んでいないか。休む時間が消えていないか。頼れる仕組みがあるか」


 校庭の向こうで、夜風が木を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、新しい依頼状が一通入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 先生も、限界を持つ。


 疲れる。


 迷う。


 心が動かない夜がある。


 それは、先生でなくなった証拠ではなく、抱えすぎてきた重さの合図かもしれない。


 生徒を大切にすることと、自分の限界を消すことは同じではない。


 支えを受け取り、仕事を分け、休む時間を守ることも、教育を続けるための学びなのだ。


 灯理は、夜の校舎を振り返った。


 閉じられなかった出席簿が、今は机の上で静かに開かれている。


 その名前の向こうに、少しずつ顔が戻っていくことを願いながら、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ