第13章 第5話:辞めたい先生の授業――空の出席簿を閉じる夜
夜の職員室で、出席簿を閉じる音だけがした。
ぱたん、と乾いた音が机の上に落ちる。
村瀬先生は、その音をしばらく聞いていた。
地方の小さな学校の職員室は、夜になると急に広く感じる。昼間は子どもたちの声、電話の音、コピー機のうなり、教師同士の呼びかけが重なっているのに、今は蛍光灯の低い音だけが天井に残っていた。
机の上には、明日の授業プリント、採点途中の小テスト、保護者からの連絡メモ、部活動の大会要項、地域清掃活動の打ち合わせ資料、進路面談の日程表が積まれている。
その山の真ん中に、出席簿があった。
村瀬先生は、もう一度それを開こうとした。
でも、指が止まった。
生徒の名前が並んでいる。
葵。
翔太。
美波。
悠斗。
真琴。
颯。
名前を見れば、以前はすぐに顔が浮かんだ。
朝、眠そうに教室へ入ってくる顔。
給食の時間に笑う顔。
部活動で悔し泣きする顔。
進路面談で不安そうに俯く顔。
小さな変化にも気づけた。
今日は声が低い。
昨日より目が赤い。
誰かと喧嘩したかもしれない。
宿題を忘れた理由の奥に、別の疲れがあるかもしれない。
そうやって、名前の向こうに一人ひとりが見えていた。
それなのに、最近は違う。
出席簿を開くと、名前が仕事の項目のように見える。
出欠確認。
提出物確認。
面談予定。
部活連絡。
保護者対応。
配慮事項。
欠席連絡。
名前の横に、するべきことだけが並んでいく。
顔が浮かばない日がある。
そのことが、村瀬先生にはたまらなく怖かった。
「……何やってるんだろうな」
誰もいない職員室で、独り言が落ちた。
村瀬先生は十年以上、この学校で働いてきた。
生徒思いだと言われてきた。
保護者からも、地域からも、同僚からも、頼りにされてきた。
「村瀬先生なら任せられる」
「村瀬先生がいてくれると助かる」
「村瀬先生、これもお願いできますか」
その言葉に、ずっと応えてきた。
授業。
学級経営。
進路指導。
保護者電話。
部活動。
地域行事。
休日の大会引率。
放課後の補習。
生徒の相談。
校務分掌。
夜の書類作成。
断るより、引き受けた方が早かった。
自分がやれば、誰かが助かる。
生徒のためになる。
学校が回る。
そう思っていた。
けれど、いつからか、体の奥がずっと重い。
朝、学校へ向かう道で、信号が変わるのを見ながら、このまま遠くへ行けたらと思うことがある。
生徒の相談に乗っていても、心のどこかで「あと何件残っているか」を数えている自分がいる。
それに気づくたび、胸が冷たくなる。
自分はもう、先生ではないのではないか。
生徒を大切に思えなくなったのではないか。
だったら、辞めた方がいいのではないか。
出席簿を閉じたまま、村瀬先生は額を押さえた。
職員室の扉が開いた。
「村瀬先生」
校長の久保田先生だった。
白髪交じりの穏やかな教師で、村瀬先生が若い頃からこの学校にいる。
「まだ残っていたんですか」
「ああ、少しだけ」
村瀬先生は、反射的に笑った。
「大丈夫です。もう帰ります」
久保田校長は、机の上の資料の山を見た。
それから、閉じられた出席簿を見る。
「本当に大丈夫ですか」
「はい。大丈夫です」
いつもの言葉だった。
大丈夫です。
少し疲れていても。
寝不足でも。
胸が重くても。
生徒の名前を見ても顔が浮かばない夜でも。
そう言うのが癖になっていた。
校長は何か言いたそうにした。
けれど、村瀬先生が笑って見せると、それ以上踏み込まなかった。
「無理はしないでください」
「はい」
扉が閉まる。
職員室はまた静かになった。
村瀬先生は出席簿に手を置き、目を閉じた。
翌朝、学校には冷たい霧が降りていた。
校門の前では、生徒たちが白い息を吐きながら登校してくる。自転車置き場にはタイヤの音が重なり、昇降口では「おはようございます」の声が交差していた。
村瀬先生は、校門に立って挨拶をしていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「マフラー、廊下では外しておけよ」
「はい」
「葵、おはよう」
葵は、少し立ち止まった。
中学二年生。
静かで、周りをよく見る生徒だった。困っている友だちにそっとプリントを渡すような子で、村瀬先生も以前から気にかけていた。
葵は何か言いたそうに口を開きかけた。
しかし、村瀬先生の手元の書類を見て、すぐに閉じた。
「おはようございます」
それだけ言って、昇降口へ向かう。
村瀬先生は、その背中を見送った。
何か言いたかったのだろうか。
そう思った。
でも、すぐに次の生徒が来る。
挨拶。
服装確認。
遅刻しそうな生徒への声かけ。
そのうちに、葵の表情は朝の霧の中へ薄れていった。
一時間目。
二時間目。
授業はいつも通り進む。
村瀬先生は板書し、生徒に発問し、プリントを配る。
体は動く。
声も出る。
生徒はいつものようにノートを取る。
だから、誰も気づかない。
村瀬先生の胸の中で、少しずつ何かが空になっていることに。
昼休み、職員室に戻ると、机の上に新しい封筒が置かれていた。
外部講師来校の案内。
差出人欄には、見覚えのない名前があった。
白瀬灯理。
世界各地の学校を訪ねている先生だと、校長が昨日話していた。
今日の午後、教師向けの小さな研修を行う予定だという。
村瀬先生は封筒を開かずに、資料の山の横へ置いた。
今は、それどころではない。
放課後、職員室の隣の会議室に、数人の教師が集まった。
校長の久保田先生。
若手の教師。
養護教諭。
部活動担当。
そして村瀬先生。
前に立ったのは、黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生だった。
「白瀬灯理です」
灯理は軽く頭を下げた。
「今日は、先生方の仕事について、一緒に見せていただきます」
村瀬先生は、腕時計を見た。
部活動の練習開始まで、あと三十分。
その後、保護者への電話。
明日の授業準備。
地域会議の資料。
研修を受けている時間さえ、後ろめたかった。
灯理は、そんな村瀬先生の机の上に置かれた分厚い手帳と、閉じたままの出席簿に目を留めた。
研修のはじめに、灯理は黒板に書いた。
『先生の仕事の地図』
参加した教師たちは、少し不思議そうに顔を上げた。
「今日は、良い授業の方法や、生徒対応の技術を話す前に、先生方が一週間でどんな仕事をしているのかを地図にしてみます」
灯理は大きな紙を配った。
中央には、一週間の表。
月曜日から日曜日。
朝、午前、昼、午後、放課後、夜。
それぞれの欄がある。
「まず、実際に行っている仕事を書き出してください。小さなことも入れます」
黒板に例が並ぶ。
『授業準備』
『授業』
『採点』
『提出物確認』
『個別面談』
『保護者電話』
『部活動』
『行事準備』
『地域会議』
『生徒の相談』
『書類作成』
『休日の大会引率』
『家に持ち帰った仕事』
『休憩』
『移動』
『食事』
『何もしていない時間』
最後の項目を見て、若手教師が小さく笑った。
「何もしていない時間なんて、ありますかね」
灯理は微笑んだ。
「ないなら、ないことも見えます」
村瀬先生は、紙を見下ろした。
書き始めるのが少し怖かった。
自分がどれだけ仕事を抱えているか、見るのが怖かった。
それでも、ペンを持った。
月曜朝。
校門指導。
朝の会。
授業三コマ。
給食指導。
昼休みの生徒相談。
午後の授業。
放課後補習。
部活動。
保護者電話。
採点。
帰宅後、地域行事の資料確認。
火曜。
水曜。
木曜。
金曜。
土曜。
大会引率。
日曜。
部活動の練習試合。
夜、授業準備。
書けば書くほど、紙が文字で埋まっていく。
休憩の欄は、ほとんど空白だった。
食事の欄には、「給食指導」「コンビニ」「帰宅後遅く」と小さく書いた。
何もしていない時間。
書けなかった。
灯理が机の横に来た。
「かなり埋まっていますね」
「まあ、教師はみんなこんなものです」
村瀬先生は笑った。
「大丈夫です」
言った瞬間、自分でもその言葉の薄さがわかった。
灯理は、すぐには頷かなかった。
「村瀬先生」
「はい」
「その『大丈夫です』は、誰に向けた言葉でしょうか」
村瀬先生は、ペンを止めた。
誰に向けた言葉。
校長に。
同僚に。
生徒に。
保護者に。
そして、自分に。
大丈夫だと言い続けなければ、崩れてしまう気がしていた。
灯理は静かに尋ねた。
「先生であることは、自分の限界をなかったことにすることなのでしょうか」
村瀬先生は答えられなかった。
喉の奥が詰まる。
限界。
その言葉を、自分に使っていいのかわからなかった。
会議室では、他の教師たちも自分の仕事の地図を見ていた。
「部活が週六日になってる」
「保護者対応、夜に集中してる」
「採点、家に持ち帰りすぎですね」
「休憩欄、誰も書いてない」
久保田校長は、村瀬先生の紙を見た。
表情が変わる。
「村瀬先生、これは」
「大丈夫です」
また言ってしまった。
でも、今度はその言葉が喉に引っかかった。
大丈夫ではない。
本当は、わかっている。
灯理は言った。
「今日は、誰が一番頑張っているかを比べる時間ではありません。どの仕事が、一人に集まりすぎているかを見る時間です」
黒板に新しい項目が書かれる。
『自分でなければできない仕事』
『誰かと分けられる仕事』
『今週でなくてもよい仕事』
『やめる・減らす・形を変える仕事』
『助けを頼む相手』
『一人で持たない仕事』
村瀬先生は、その最後の言葉を見た。
一人で持たない仕事。
そんなものを考えたことがなかった。
自分が持てばいいと思っていた。
持てなくなっていることを認めるのが怖かった。
夕方、研修が終わったあと、村瀬先生は部活動へ向かった。
校庭では、サッカー部の生徒たちが走っている。
冷たい風の中、ボールを蹴る音と掛け声が響いていた。
村瀬先生はタイムを取り、声をかけ、怪我をした生徒の足首を確認する。
体は動く。
仕事はできる。
でも、心はどこか遠かった。
練習後、葵が校庭の端に立っていた。
サッカー部ではない。
帰宅部の葵が、この時間に校庭にいるのは珍しかった。
「葵、どうした」
村瀬先生が声をかけると、葵は少し迷った。
「先生に、相談したいことがあって」
「今か?」
言ってから、村瀬先生は自分の声の硬さに気づいた。
葵の肩が少し下がる。
「すみません。忙しいですよね」
「いや、そういうわけじゃ」
村瀬先生は言いかけたが、手元の大会記録、練習メニュー、部室の鍵、職員室に残した電話メモが頭の中で一気に浮かんだ。
葵は、それを見透かしたように小さく笑った。
「また今度で大丈夫です」
大丈夫。
その言葉に、村瀬先生の胸が痛んだ。
葵は踵を返した。
その背中を、村瀬先生はすぐに呼び止められなかった。
夜。
職員室に戻ると、灯理がまだ校長室の前で久保田校長と話していた。
村瀬先生は自分の机に座り、出席簿を開いた。
葵の名前を見る。
朝、何か言いたそうだった。
放課後も、相談したいと言った。
でも、自分は受け止められなかった。
疲れていたから。
余裕がなかったから。
そのことが、村瀬先生の胸を強く締めつけた。
自分は、何のためにこんなに働いているのだろう。
生徒のためだと言いながら、目の前の生徒に「また今度」と言わせている。
村瀬先生は出席簿を閉じようとした。
その時、灯理がそばに来た。
「少し、話してもいいですか」
村瀬先生は笑おうとした。
「大丈夫です」
言いかけて、止まった。
灯理は何も言わずに待っていた。
村瀬先生は、机の上の出席簿を見た。
「……大丈夫ではありません」
声がかすれた。
その一言を言った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
灯理は静かに頷いた。
「はい」
「生徒の名前を見ても、前みたいに心が動かないんです」
村瀬先生は、言ってしまった、と思った。
教師として、絶対に口にしてはいけない言葉のような気がした。
でも、もう止まらなかった。
「出席簿を開くと、仕事の一覧みたいに見えるんです。面談、連絡、提出物、欠席確認。顔が浮かばない日があります」
灯理は、遮らずに聞いていた。
「私はもう、先生を辞めた方がいいんでしょうか」
声が震えた。
「生徒を大切に思えなくなった先生なんて、ここにいない方がいい」
灯理は、少しだけ出席簿に視線を落とした。
そして言った。
「うん。では、それは先生でなくなった証拠でしょうか。それとも、先生として抱えすぎてきた重さの合図でしょうか」
村瀬先生は、顔を上げた。
抱えすぎてきた重さ。
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
自分は、生徒を大切にしていないのではなく、大切にしようとして、全部を持とうとして、持ちきれなくなっているのかもしれない。
そう思った瞬間、涙が出そうになった。
しかし、職員室で泣くわけにはいかない。
村瀬先生は唇を噛んだ。
灯理は、机の上に昼間の「先生の仕事の地図」を広げた。
「一緒に見てもいいですか」
村瀬先生は頷いた。
久保田校長も、そっと近くに来た。
三人で、仕事の地図を見る。
文字で埋まった一週間。
放課後と夜に集中した仕事。
週末まで続く部活動。
地域会議。
保護者電話。
家に持ち帰った採点。
休憩の空白。
灯理は、青いペンを持った。
「まず、一人で持たない仕事に印をつけてみませんか」
村瀬先生は、最初は何も選べなかった。
どれも、自分がやらなければならない気がした。
けれど、灯理は急がせなかった。
久保田校長が先に言った。
「地域清掃活動の調整は、教頭と私で引き取ります」
村瀬先生は驚いた。
「でも、去年から私が」
「去年からずっと任せすぎていました」
校長は静かに言った。
「部活動の休日練習も、外部指導員と調整して減らしましょう。大会前以外の休日は、必ず休める形にします」
「でも、生徒が」
「村瀬先生が倒れたら、生徒はもっと困ります」
その言葉に、村瀬先生は何も言えなかった。
灯理が青い線を引く。
『地域会議』
『休日部活動』
『保護者電話の一部』
『採点の分担』
『行事準備』
村瀬先生は、ようやく自分で一つ選んだ。
「補習を、全部自分で見るのはやめます」
声に出すと、少し怖かった。
「学年で曜日を分けられるか、相談します」
久保田校長が頷いた。
「すぐに調整します」
村瀬先生は、また一つ青い線を引いた。
『放課後補習』
青い線が増えるたび、胸が軽くなるというより、申し訳なさが増した。
自分が手放した仕事を、誰かが持つことになる。
それが苦しかった。
灯理は言った。
「手放すことは、誰かに押しつけることとは違います。学校全体で持ち直すために、見える場所へ出すことです」
村瀬先生は、青い線を見た。
一人で隠して持っていた重さが、少しずつ紙の上に現れている。
翌日、村瀬先生は葵を廊下で見つけた。
「葵」
葵は振り返った。
「昨日は、悪かった」
葵は少し目を丸くした。
「相談したいと言ってくれたのに、ちゃんと聞けなかった」
「いえ、先生忙しそうだったので」
「忙しかった。でも、それで終わりにしていいことではなかった」
村瀬先生は言葉を選んだ。
「今日の放課後、十五分だけ時間を取った。全部解決できるかはわからないけど、まず聞きたい」
葵は、少し迷ってから頷いた。
「はい」
放課後、相談室で葵は話した。
友だちとの距離がうまく取れないこと。
家で進路の話をされると苦しくなること。
先生に相談しようと思ったけれど、いつも疲れているように見えて言い出せなかったこと。
村瀬先生は、その最後の言葉で息を止めた。
「疲れているように、見えたか」
葵は気まずそうに俯いた。
「はい」
「相談しにくかった?」
「はい」
正直な答えだった。
村瀬先生は、胸の奥が痛んだ。
自分は、生徒のために頑張っているつもりだった。
でも、その疲れが、生徒を遠ざけることもある。
「先生がずっと疲れていると、相談していいのかわからなくなるんです」
葵は小さく言った。
「先生にも、休んでほしいです」
村瀬先生は、すぐに返事ができなかった。
葵に心配されている。
それが申し訳なく、情けなく、同時に少し救われるようでもあった。
「ありがとう」
村瀬先生は、ようやく言った。
「その言葉、ちゃんと受け取ります」
葵は頷いた。
「でも、相談も聞いてください」
「聞きます」
「疲れてない時に」
少しだけ笑って、葵はそう言った。
村瀬先生も、久しぶりに自然に笑った。
「そのために、疲れすぎないようにします」
その週の金曜日、職員会議で業務の見直しが行われた。
久保田校長は、村瀬先生だけの問題にしなかった。
学校全体の仕事の地図を作り、偏っている業務を見直す。
部活動の休日体制。
地域行事の担当。
保護者電話の記録共有。
採点や補習の分担。
行事準備の削減。
すぐにすべてが変わるわけではない。
人手は限られている。
行事も地域との関係もある。
保護者対応もなくならない。
それでも、初めて「大丈夫です」で隠されていた重さが、会議の机の上に置かれた。
村瀬先生は、会議の最後に言った。
「私は、大丈夫ではありませんでした」
職員室が静かになる。
村瀬先生は続けた。
「でも、それを言うのが怖かったです。自分が弱い先生になったようで」
誰も笑わなかった。
「これから、持てない仕事は持てないと言います。その代わり、自分が持てるところはちゃんと持ちます」
若手の教師が小さく頷いた。
養護教諭がメモを取る。
久保田校長は、深く頷いた。
「学校で持ち直しましょう」
その夜、村瀬先生はまた出席簿を開いた。
職員室には、まだ少し明かりが残っている。
机の上の資料の山は、完全になくなったわけではない。
けれど、青い線を引いた予定表が横に置かれている。
『一人で持たない仕事』
明日の地域会議には、校長と教頭が行く。
休日の部活動は、外部指導員と交代する。
補習は学年で分担する。
保護者電話は、一人で抱えず記録を共有する。
村瀬先生は、出席簿の葵の名前を見た。
今度は、少しだけ顔が浮かんだ。
相談室で膝に手を置きながら話していた顔。
「先生にも休んでほしいです」と言った時の、真剣な目。
次に、翔太の名前。
朝、靴ひもをほどけたまま走ってきた顔。
美波の名前。
給食の牛乳をいつも最後に飲む顔。
悠斗の名前。
部活でミスをして悔しそうにボールを拾っていた背中。
全部が戻ったわけではない。
以前のように、すべての名前がすぐに鮮やかに立ち上がるわけではない。
それでも、出席簿は仕事の一覧だけではなくなっていた。
村瀬先生は、ゆっくり息を吐いた。
辞めるかどうかの答えは、まだ出ていない。
教師を続けると簡単に言えるほど、軽くはない。
けれど、今すぐ自分を責めて終わらせる必要もないのかもしれない。
明日一日を、一人で抱え込まない方法なら決められる。
予定表に、青いペンで一本線を引いた。
『一人で持たない仕事』
その横に、小さく書く。
『葵の面談後、学年で共有』
扉が開き、灯理が職員室に顔を出した。
「まだいらしたんですね」
「はい」
村瀬先生は、出席簿を閉じなかった。
「今日は、少し開いていられます」
灯理は机の横に立ち、予定表の青い線を見た。
「一人で持たない仕事」
「はい」
「全部すぐに変わるわけではありません」
「はい」
「でも、線を引きました」
村瀬先生は出席簿に手を置いた。
「先生であり続けるって、倒れるまで頑張ることだと思っていました」
「はい」
「でも、倒れたら、何も守れないんですね」
「うん」
「支えてもらいながら続けることも、学ばないといけないんだと思いました」
灯理は静かに頷いた。
「村瀬先生の今日の学びですね」
村瀬先生は少し笑った。
「先生なのに、学ぶことばかりです」
「先生だから、かもしれません」
その言葉に、村瀬先生はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
夜、灯理は小さな学校を出た。
校舎の窓には、職員室の明かりが一つだけ残っている。村瀬先生は机に向かい、出席簿と青い線の入った予定表を並べていた。
久保田校長が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、先生方の仕事の地図を見せていただきました」
久保田校長は、校舎を振り返った。
「私は、村瀬先生の『大丈夫です』を、そのまま受け取っていました」
「信じたかったのですね」
「はい。本人が大丈夫と言うなら、踏み込みすぎない方がいいと思っていました。でも、本当に大丈夫かどうかは、仕事の地図を見なければわからないこともある」
灯理は頷いた。
「大丈夫という言葉の下に、重さが隠れていることがあります」
「これから、学校全体で見ます。誰か一人が抱え込んでいないか。休む時間が消えていないか。頼れる仕組みがあるか」
校庭の向こうで、夜風が木を揺らした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、新しい依頼状が一通入っている。
けれど、まだ開かなかった。
先生も、限界を持つ。
疲れる。
迷う。
心が動かない夜がある。
それは、先生でなくなった証拠ではなく、抱えすぎてきた重さの合図かもしれない。
生徒を大切にすることと、自分の限界を消すことは同じではない。
支えを受け取り、仕事を分け、休む時間を守ることも、教育を続けるための学びなのだ。
灯理は、夜の校舎を振り返った。
閉じられなかった出席簿が、今は机の上で静かに開かれている。
その名前の向こうに、少しずつ顔が戻っていくことを願いながら、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




